東漢時代5 光武帝(五) 赤眉の混乱 25年(4)

今回で東漢光武帝建武元年が終わります。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
王莽の時代、天下の人々が漢の徳を思念しました。
そこで、左谷に住んでいた安定郡三水の人盧芳(『資治通鑑』胡三省注によると、三水県に左右谷がありました)が自分は西漢武帝の曾孫劉文伯であると偽り、こう言いました「(私の)曾祖母は匈奴渾邪王の姉である。」
盧芳はしばしば安定一帯でこのような事を言って人々を惑わしていました。
匈奴渾邪王は西漢武帝元狩二年(前121年)武帝に降りました。盧芳の言によると渾邪王の姉は武帝後宮に入って子を産んだようですが、事実かどうかはわかりません。
 
王莽の末期、盧芳が三水属国の羌胡と共に挙兵しました。
更始帝長安に入ると盧芳を招いて騎都尉に任命し、安定以西を鎮撫させました。
しかし更始帝が敗れたため、三水の豪桀は共に盧芳を擁して上将軍西平王に立てました。『資治通鑑』胡三省注によると、西方の平定を欲したため「西平」を王号にしました。
 
盧芳は使者を送って西羌や匈奴と和親を結びました。
匈奴単于(呼都而尸道皋単于は「漢氏が中絶して劉氏が帰附しに来た。わしも呼韓邪のようにこれを立てて(漢が呼韓邪単于を助けたように盧芳を助けて)、わしに尊事(尊んで仕えること)させるべきだ」と考え、句林王に数千騎を率いて盧芳兄弟を迎えに行かせました。
盧芳兄弟が匈奴に入ると、単于は盧芳を漢帝に立てて盧芳の弟盧程を中郎将に任命し、胡騎を率いて安定に還らせました。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀上』からです。
東漢の破虜大将軍叔寿が五校賊を曲梁で撃ちましたが、戦没しました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
光武帝は関中がまだ平定できず、しかも鄧禹が久しく長安に兵を進めないため、鄧禹を譴責する書を送ってこう言いました「司徒(鄧禹)は堯である。亡賊は桀である。長安の吏民は遑遑(恐慌して不安な様子)として依帰(帰順)するところがないので、適時に進討し、西京を鎮慰して百姓の心を繋ぐべきだ。」
しかし鄧禹はやはり以前の意見を堅持し、別方向の上郡諸県を攻撃しました。更に兵を集めて穀物を運び、大要(『資治通鑑』胡三省注によると、大要県は北地郡に属します)に還ります。
 
この頃、積弩将軍馮愔と車騎将軍宗歆が邑を守っており、権力を争って互いに攻撃しました。
馮愔は宗歆を殺し、その機に反して鄧禹も攻撃します。
 
鄧禹が使者を派遣して光武帝に報告しました。
光武帝が使者に問いました「馮愔が親愛しているのは誰だ?」
使者が答えました「護軍の黄防です。」
光武帝は馮愔と黄防が久しく和すことができず、必ず対立することになると予測し、鄧禹にこう伝えました「馮愔を縛るのは黄防に違いない。」
 
光武帝尚書宗広を派遣し、符節を持って投降を呼びかけさせました。
果たして、一月余経つと黄防が馮愔を捕え、部衆を率いて帰順し、謝罪しました。
更始帝の諸将だった王匡、胡殷、成丹等も皆、宗広を訪ねて投降します。
宗広は彼等と共に東に帰りましたが、安邑まで来た時、彼等が道中で逃亡しようとしたため、宗広が全て斬って殺しました。
 
馮愔が謀反した時、兵を率いて西の天水に向かいました。
しかし隗囂が迎撃して高平で破り、輜重を全て奪いました。
馮愔が平定されたから、鄧禹が承制(皇帝の代わりに任務を行うこと)によって符節を持った使者を派遣し、隗囂を西州大将軍に任命しました。隗囂は涼州と朔方の政事を専制できる権限を持ちます。
 
後漢書鄧寇列伝(巻十六)』では馮愔の背叛を建武元年(本年)としており、『後漢書隗囂公孫述列伝(巻十三)』では建武二年としています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「恐らく馮愔は元年(本年)冬の末に叛し、二年(翌年)に及んだ。隗囂が官を拝したのは二年である」と解説しています。
 
[十六] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
十二月臘日(年末の祭祀の日)、赤眉の樊崇等が音楽を奏でて大きな宴会を開きました。皇帝劉盆子が正殿に座り、中黄門が武器を持って後ろにおり、公卿が皆、殿上に並んで座ります。
ところが酒が行き届かないうちに、公卿の一人が刀筆(刀は字を書き間違えた時に木簡や竹簡を削るために使います)を出して謁(書き付け。ここでは祝辞を書いた木簡竹簡)を書き、祝賀しようとしたため(皇帝に酒を勧めて祝杯を挙げる時に祝辞を書いた謁を献上したようです)、他の文字を書けない者達も立ちあがって代わりに書くように請いました。所々で人のかたまりができ、それぞれ背を向け合います(文字を書ける人を中心に人が集まるので、一つのかたまりに集まった人は内側を向いており、他のかたまりに背を向けることになります。原文「各各屯聚,更相背向」)
大司農楊音が剣に手を置いて罵声を上げました「諸卿は皆、老傭(老いた使用人、下僕)だ!今日、君臣の礼を設けたのに、逆にますます殽乱(混乱)させた。児戲でもこのようにはならない。皆、格殺(撃殺)するべきだ!」
楊音の罵声をきっかけに公卿群臣が互いに辯闘(争論)を始めました。
その隙に兵衆が次々に皇宮の壁を越えたり関(宮門)を破って侵入し、酒肉を奪い、互いに殺傷しました。
衛尉諸葛穉がそれを聞いて兵を指揮し、宮内に入って百余人を格殺(撃殺)したため、やっと収束します。
 
劉盆子は恐れて不安になり、日夜啼泣しました。従官が皆これを憐れみます。
この後、劉盆子は中黄門だけと卧起(起居)を共にし、ただ観閣(楼閣)に登るだけで外事(外の事。朝廷の政事)には耳を傾けなくなりました。
 
当時、掖庭(後宮)の宮女はまだ数百千人(数百から千人)おり、更始帝が敗れてからも殿内に幽閉されていました。庭の中で蘆菔根(大根)を掘ったり、池の魚をとって食いつないでいます。死者はそのまま宮中に埋められました。
かつて甘泉を祀った楽人達がおり、まだ共に鼓を叩いて歌舞していました。衣服は鮮明でしたが、劉盆子を見ると叩頭して飢餓を訴えます。
劉盆子は中黄門を送って一人当たりに数斗の米を与えました(楽人だけでなく宮女全てに与えたのだと思います)
後に劉盆子は長安を去りますが、(宮女は)皆、餓死しても宮中から出ませんでした。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
以前、光武帝が宗正劉延に天井関を攻撃させました。
劉延は田邑と連戦して十余合に及びましたが、前進できません。
後に更始帝が敗れたため、田邑は使者を送って投降を請いました。
光武帝は田邑を上党太守に任命しました。
 
光武帝は鮑永を招くために諫議大夫儲大伯に符節を持たせて派遣しました(鮑永は田邑と共に并州を守っていました。今回、田邑が降ったので、鮑永にも投降を誘いました)
しかし鮑永は更始帝の存亡を知らなかったため、光武帝の招きを疑って従わず、逆に儲大伯を逮捕してから使者を長安に駆けさせて虚実を探らせました。
 
[十八] 『資治通鑑』からです。
以前、光武帝は劉玄に従って宛に入り、新野陰氏(『資治通鑑』胡三省注によると、管仲の後代である管脩が斉から楚に移って陰大夫になり、その後代が陰を氏にしました)の娘麗華を娶りました。
この年、光武帝が使者を送って陰麗華と光武帝の姉湖陽公主、妹の寧平公主を洛陽に招きました。『後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、湖陽公主の名は劉黄、寧平公主の名は劉伯姫といいます。
 
光武帝は陰麗華を貴人にしました。
 
更始政権の西平王李通がこれ以前に寧平公主を娶っていたため、光武帝は李通を招いて衛尉に任命しました。
 
[十九] 『資治通鑑』からです。
以前、更始帝が王閎を琅邪太守に任命しましたが、張歩(玄漢劉玄更始二年24年参照)が郡を占拠して拒みました。
王閎は各地を諭して投降させ、贛楡等の六県を得てから兵を集めて張歩と戦いましたが、それでも勝てません。
 
張歩は劉永の官号(輔漢大将軍)を受けてから、劇(地名)で兵を整え、将を派遣して泰山、東莱、城陽、膠東、北海、済南、斉郡を攻略させました。これらの地は全て劉永支配下に入ります。
 
王閎は張歩に対抗する力がないため、自ら会いに行きました。
張歩は大軍を並べてから王閎に会い、怒ってこう言いました「歩(私)に何の罪があって、君は以前あれほど甚だしく(激しく)攻撃したのだ(君前見攻之甚)!」
すると王閎が剣に手を置いて言いました「太守が朝命を奉じたのに、文公(張歩の字です)が兵を擁して拒んだから、閎(私)は賊を攻めただけだ。何を甚だしいというのか(何謂甚邪)!」
張歩は立ちあがってから跪拝して謝罪し、共に宴飲しました。王閎を上賓として待遇し、この後、郡の政事を全て王閎に掌管させます。
 
 
 
次回に続きます。