東漢時代6 光武帝(六) 功臣封侯 26年(1)

今回は東漢光武帝建武二年です。七回に分けます。
 
丙戌 26
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
劉恭は赤眉の衆が乱れているのを見て必ず失敗すると判断しました。兄弟ともに禍を受けることを恐れ、秘かに弟の劉盆子に璽綬を返上するように教え、辞譲の言葉を習わせます。
 
正月朔、樊崇等が正旦(正月元旦)の大会(大集会、または大宴会)を開きました。
そこで劉恭が先に言いました「諸君は共に恭(私)の弟を帝にしました。誠に徳(恩徳)が深厚なことです。しかし立ってもう一年になるのに、殽乱(混乱)は日に日に甚しくなっており、(このままでは)誠に互いに成就することができず(誠不足以相成)、恐らく死んでも益がありません(恐死而無益)。よって、退いて庶人になり、改めて賢知を求めることを願います。ただ諸君の省察(再考)を請います(唯諸君省察。」
樊崇等が謝罪して「これは全て崇等の罪です」と言いましたが、劉恭は劉盆子の退位を強く請いました。
するとある者が言いました「これは式侯(劉恭)の事か(此寧式侯事邪)!」
後漢書』の注は「衆人が天子を立てたので劉恭が関与することではない」と解説しています。
劉恭は惶恐して(恐れて)立ちあがり、退席しました。
 
劉盆子が牀(座席。玉座を下りて璽綬を解き、叩頭して言いました「今すでに県官を設置したのに(天子を置いたのに)、以前のように賊を為しています。吏人(官吏や民)が貢献しても、いつも剽劫(略奪)に遭い、それが四方に流聞しているので怨恨しない者はなく、再び信向(信頼)することもありません。これは皆、相応しくない人を立てたことが原因です(此皆立非其人所致)。よって、引退して賢聖に路を譲ることを願います(願乞骸骨,避賢聖路)。必ず盆子(私)を殺して責任を塞ごうと欲するのなら(失政の責任を劉盆子がとる必要があるのなら)、死から離れることはありません(死を避けることはありません)。誠に諸君が納得して私を哀憐することを望みます。」
劉盆子は涙を流してむせび泣きました。
 
その姿を見て、樊崇等、会に参加した数百人で哀憐しない者はなく、皆、席から離れて頓首し、こう言いました「臣が無状(善行がないこと)なため、陛下を裏切ってしまいました(負陛下)。今後、敢えて再び放縦しないことを請います(再び放縦することはありません。今後は放縦しないので機会をください。原文「請自今已後,不敢復放縦」)。」
樊崇等は共に劉盆子を抱きかかえて璽綬を帯びさせました。劉盆子は号呼(泣き叫ぶこと)しましたがどうしようもありません。
諸将は退出してからそれぞれ自分の営門を閉じて守りを固めました。
 
この後、三輔がそろって天子の聡明を称え、百姓が争って長安に還ったため、市里がまた人で満たされようとしました。
しかし二十余日後には諸将が財物を貪るために再び営を出て、以前のように大掠(略奪)を始めました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
刀子都(または「刁子都」)は更始政権によって徐州牧に任命されましたが、部曲の者に殺されました。その余党が諸賊と檀郷で合流して檀郷賊(檀郷兵)と号します。檀郷兵は魏郡、清河を侵しました(新王莽地皇四年23年に既述しました)
 
魏郡の大吏李熊の弟李陸が反乱を謀って檀郷兵を城に迎え入れようとしました。
ある人がそれを東漢の魏郡太守潁川の人銚期に告げたため、銚期が李熊を招いて問いました。李熊は叩頭して首服(首伏。正直に罪を認めること)し、老母と共に死ぬことを願います。
銚期が言いました「吏になることがもしも賊になる楽(楽しみ)に及ばないのなら、帰って老母と共に陸(李陸)に就きに行けばいい。」
銚期は官吏に命じて李熊の母子を城から送り出させました。
李熊は城を出てから李陸を探し出し、鄴城(魏郡の治所)の西門に連れて行きました。李陸は慚愧に耐えられず、自殺して銚期に謝罪します。
銚期は嘆息して礼葬を行い、李熊を元の職に戻しました。
郡中の人々は銚期の威信に服しました。
 
光武帝が大司馬・呉漢を派遣し、王梁等九将軍を率いて鄴東漳水の辺で檀郷を撃たせました。
東漢軍が檀郷を大破し、十余万の衆が全て投降します。
 
また、王梁と大将軍杜茂に兵を率いて魏郡、清河、東郡を安輯(按撫)させました。諸営堡が全て平定されます。
三郡が清静となり、道路(『資治通鑑』では「辺路(辺境の路)」ですが、『後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』では「道路」なので、恐らく『資治通鑑』の誤りです)が通るようになりました。
資治通鑑』胡三省注はこう解説しています「雒陽から漁陽、上谷に至る路は三郡を通る。今回、三郡が平定されて(南北の)道路が流通することになった。」
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
庚辰(十七日)光武帝が諸功臣を全て列侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「西京西漢の列侯は伝国に全て世次があったが西漢の諸侯は子孫に国を伝えて全て記録されたが)、東都東漢は子孫が繁栄せず(枝葉不蕃)、史筆史書の記録)も簡略である。」
 
光武帝が詔を下して言いました「人の情(欲)が満足できたら、放縦を苦とし(欲に勝てず放縦し)、一時の欲を楽しみ、刑罰に対して慎重にするという義(道理)を忘れるものである(人情得足,苦於放縦,快須臾之欲,忘慎罰之義)。諸将の功業が遠大なこと(業遠功大)を思い、誠に無窮に伝えることを欲するので、深淵に臨み薄冰を踏んだ時のように(如臨深淵,如履薄冰)戦戦慄慄(戦戦兢兢)として、日に日に慎重になるべきである(日慎一日)。顕效(明らかな功績)がまだ報いられておらず(顕效未詶)、名籍がまだ立っていない者(諸侯に名を連ねていない者は。諸侯に封じられていない者)は、大鴻臚が速やかに報告せよ(『後漢書』の注によると、大鴻臚は九卿の一人で中二千石です。諸王の入朝や諸侯の封爵を担当しました)。朕がそれぞれ等級を分けて(名籍に)記録しよう(封侯しよう。原文「朕将差而録之」)。」
 
光武帝は大国を四県とし、その他の国もそれぞれ差をつけて大小を定めました。
梁侯鄧禹(『資治通鑑』胡三省注によると、鄧禹は初め酇に封じられ、この年、梁侯に改封されました)と広平侯呉漢が食邑を四県とされます。
博士丁恭が議して言いました「古の帝王は諸侯を封じても百里を過ぎず、侯を建てることを利とし(「利以建侯」。『易』の言葉です)、雷に法を取り(雷に法り。原文「取法於雷」。『後漢書』の注によると、「震驚百里」という言葉があり、この「震」は「雷」を指します。「雷が百里を驚かす」ことから、諸侯の地を百里にしました)、幹を強くして枝を弱くしたので(強幹弱枝)、そうすることで治を為しました(国を治めることができました)。今、四県を封じるのは法制に合いません。」
しかし光武帝はこう言いました「古の亡国は皆、無道が原因であり、功臣の地が多いために滅亡した者は聞いたことがない。」
光武帝は謁者(『後漢書』の注によると、謁者は秦から踏襲した官で、賓客の対応や天子への伝達を担当しました。定員は七十人で秩は比六百石です。但し、光武帝の時代は三十人になりました。儀容が端正で、使者の任務を全うできる者が選ばれます)を派遣して鄧禹等に印綬を授けました。
封侯の策書にはこう書かれています「上にいても驕らず、高くても危うくなく、節を制して度を謹み、満たしても溢れない。敬い戒めよ(敬之戒之)。汝の子孫に伝えて長く漢藩(漢の藩屏)となれ。」
 
陰貴人(陰麗華)の兄に当たる陰郷侯陰識が軍功によって増封されることになりましたが、叩頭して謙譲し、こう言いました「天下は定まったばかりであり、将帥で功がある者は多数います。臣が掖廷後宮に属いていることに託して(頼って)、なお爵邑を加えられるのは、天下に示すべきことではありません。これは親戚が賞を受けて国人は功を計るというものです(国人は功績がなければ賞を受けられないのに、皇帝の親戚ならそれだけで賞を受けられるという状態です。原文「此為親戚受賞,国人計功也」。『資治通鑑』胡三省注によると、戦国時代、公孫龍が平原君に語った言葉です)。」
光武帝は陰識の言に従いました。
 
光武帝は諸将に好きな場所を発言させました(各言所楽)
その結果、皆、美県(豊かな県)を領有しましたが、河南太守潁川の人丁綝だけは本郷(故郷)に封じられることを求めました。
ある人がその理由を問うと、丁綝はこう言いました「綝(私)は能力が少なく功績も小さいので(能薄功微)、郷亭を得られれば充分です(厚矣)。」
光武帝はその意志に従って新安郷侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢法では大県侯の位は三公とみなされ、小県侯の位は上卿とみなされ、郷亭侯の位は中二千石とみなされました。丁綝は潁川定陵の人なので、新安郷は定陵にあったはずです。
 
光武帝は郎中魏郡の人馮勤に功臣の封侯に関する諸事を担当させました(典諸侯封事)
馮勤は功労の軽重や国土の遠近、地勢の豊薄(豊さの度合い)を度量して功臣の封地を決めます。
その結果、下になるべき者が上になるべき者を越えることがなかったため、誰もが心服しました。
光武帝は馮勤の能力を認めて尚書の衆事を全て総禄(総監督)させることにしました。
前例では、尚書郎に欠員が生まれたら令史が勤続年数に順じて補っていましたが、光武帝から孝廉(地方の郡国が朝廷に推薦した品行が優秀な者)を用いて尚書郎に任命することになりました。
資治通鑑』胡三省注によると、尚書令史は十八人いて秩二百石です。侍郎は三十六人いて秩四百石です。主に文書の草案を作りました。
尚書郎はまず三署(五官署左署右署。郎官を管理する官署です)から台試尚書台の試験。尚書台は尚書の官署です)に赴きます。
台試を通過して初めて尚書台に上ったら守尚書郎中(仮尚書郎中)と称し、満一年で尚書郎、三年で尚書侍郎と称しました。
 
 
 
次回に続きます。