東漢時代7 光武帝(七) 劉楊謀反 26年(2)
『後漢書』の注によると、光武帝は洛陽を都にしてから高祖以下平帝までを一廟で合祀し、十一帝(高帝、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝)の神主をその中に保管しました(下述します)。
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社稷を宗廟の右に建てて、郊兆を城南に建てました。
郊兆は諸神を祀る祭壇です。『後漢書・光武帝紀上』によると、洛陽城南七里に祭壇が建てられました。中央の壇上に天地の位があり、周りの壇上に五帝の位があります。青帝の位は甲寅、赤帝の位は丙巳、黄帝の位は丁未、白帝の位は庚申、黒帝の位は壬亥です。その外は壝(壁)になっており、紫宮に法って営(部屋)が置かれています。外営と中営には合わせて千五百十四神がおり、高皇帝が配食(合祀)されました。
また、洛陽城から四里離れた北郊にも壇を建てて高皇后を配しました。
いつから「雒陽」と書かれるようになったのかは、はっきりしませんが、恐らく漢を正式に火徳の王朝としたこの頃から始まったと思われます。
『後漢書・光武帝紀上』ではここで「(赤眉が)園陵(『後漢書』の注によりと「園」は塋域(墓地)、陵は山墳です)を掘り起こして関中で寇掠(略奪)した」と書いていますが、『資治通鑑』は九月に「(赤眉が)漢帝の諸陵を掘り起こして副葬されていた宝貨を奪った」と書いています。
繰り返し盗掘が行われたのかもしれません。
その後、赤眉は兵を率いて西に向かいました。南郊を通って祭祀を行い、車甲・兵馬が最も猛盛になり、百万の大軍を号します。
赤眉は南山から移動しながら城邑を侵しました。更始政権の将軍・厳春と郿で戦い、これを破って殺してから、安定、北地に入ります。
鄧禹は同時に園陵を巡行し、吏士を置いて奉守(管理、守備)させました。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢は火徳なので赤は漢を指します。光武帝は高祖の九代孫に当たるので、赤九は光武帝を指します(高帝が一代目で、光武帝は九代目になります。高帝、文帝、景帝、長沙定王・劉発、舂陵節侯・劉買、鬱林太守・劉外、鉅鹿都尉・劉回、南頓令・劉欽、光武帝・劉秀です)。
「癭」は首にできる瘤で、「癭楊」は「瘤がある劉楊」という意味です。
劉楊は癭を患っていたため、それを利用して讖記を作り、大衆を惑わそうとしました。
臨邑侯・劉譲も真定王・劉楊と共に謀反しました。更に劉楊は綿曼賊とも関係を結びます。
『後漢書』の注によると、劉譲は劉楊の弟です。
『資治通鑑』胡三省注によると、綿曼県は真定国に属します。
光武帝は騎都尉・陳副、游撃将軍・鄧隆を派遣して劉楊を招かせました。しかし劉楊は城門を閉じて陳副等を中に入れようとしません。
耿純は真定に入って伝舍に泊まり、劉楊を招きました。
耿純が真定王の宗室の出だったため(『資治通鑑』胡三省注によると、耿純の母は真定王の宗室の娘だったようです)、劉楊は耿純を疑わず、また、自分の部衆の強盛に頼っており、耿純の意(心)も安静だったため、官属を従えて耿純に会いに行きました。
劉楊の兄弟も共に軽兵を率いて門外に集まります。
劉楊が伝舎に入って耿純に会うと、耿純は礼敬をもって接し、その兄弟も全て中に招きました。
その後、閤(小門、または部屋の戸)を閉めて全て誅殺し、兵をまとめて姿を現します。
真定は怖れ震え、敢えて動こうとする者がいませんでした。
光武帝は劉楊が謀反を実行する前に誅殺されたことを憐れみ、その子をまた真定王に封じました。
次回に続きます。