東漢時代7 光武帝(七) 劉楊謀反 26年(2)

今回は東漢光武帝建武二年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』からです。
壬午(十九日)、更始政権の復漢将軍と輔漢将軍于匡が降りました。どちらも爵位はそのままとされました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
東漢が洛陽に高廟を建設し、四時(四季)に高祖、太宗(文帝)、世宗武帝を合祀することにしました。
後漢書光武帝紀上』は「正月壬子」としていますが、本年正月は甲子朔なので壬子の日はありません。
 
後漢書』の注によると、光武帝は洛陽を都にしてから高祖以下平帝までを一廟で合祀し、十一帝(高帝、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝)の神主をその中に保管しました(下述します)
十一帝の中で元帝の序列が第八代に当たり、光武帝は自分を第九代とみなしたため、元帝のために祖廟を建てて後世になっても改めないことにしました光武帝建武十九年・43年に再述します)
 
本文に戻ります。
社稷を宗廟の右に建てて、郊兆を城南に建てました。
本来、社稷の「社」は土地の神、「稷」は穀物の神です。「社稷を建てた」というのは、これらの神を祀る壇社稷壇)を建てたという意味です。
資治通鑑』胡三省注が社稷に関して詳しく解説していますが、省略します。
郊兆は諸神を祀る祭壇です。『後漢書光武帝紀上』によると、洛陽城南七里に祭壇が建てられました。中央の壇上に天地の位があり、周りの壇上に五帝の位があります。青帝の位は甲寅、赤帝の位は丙巳、黄帝の位は丁未、白帝の位は庚申、黒帝の位は壬亥です。その外は壝(壁)になっており、紫宮に法って営(部屋)が置かれています。外営と中営には合わせて千五百十四神がおり、高皇帝が配食(合祀)されました。
また、洛陽城から四里離れた北郊にも壇を建てて高皇后を配しました。
 
光武帝が始めて火徳を正とし(正式に漢を火徳の王朝と位置づけました)、色は赤を尊ぶことにしました(始正火徳,色尚赤)
 
前年、光武帝が都に定めた洛陽ですが、東漢時代は「雒陽」と書かれました。これは水徳が火徳に克つためです。火徳の東漢は水を避けて「洛」を「雒」に置き換えました。「洛水」も「雒水」と書かれます。
いつから「雒陽」と書かれるようになったのかは、はっきりしませんが、恐らく漢を正式に火徳の王朝としたこの頃から始まったと思われます。
但し、『資治通鑑』が「雒陽」と書いているのに対して、『後漢書光武帝紀』等は「洛陽」と書いています。私の通史では、これ以降は「雒陽」に統一します。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
長安城中の食糧が尽きたため、赤眉が珍宝を集めて車に積み、大火を放って西京長安の宮室や市里を焼きました。しかもほしいままに殺掠(殺人略奪)を行ったため、長安城内はまた歩く人がいなくなります。
 
後漢書光武帝紀上』ではここで「(赤眉が)園陵(『後漢書』の注によりと「園」は塋域(墓地)、陵は山墳です)を掘り起こして関中で寇掠(略奪)した」と書いていますが、『資治通鑑』は九月に「(赤眉が)漢帝の諸陵を掘り起こして副葬されていた宝貨を奪った」と書いています。
繰り返し盗掘が行われたのかもしれません。
 
その後、赤眉は兵を率いて西に向かいました。南郊を通って祭祀を行い、車甲兵馬が最も猛盛になり、百万の大軍を号します。
劉盆子は王車に乗り、三頭の馬が牽きました(『後漢書』の注によると、王車は模様がついた赤い車輪(朱班輪)と青い傘(青蓋)がついており、三頭の馬が牽きました)。数百騎が従っています。
赤眉は南山から移動しながら城邑を侵しました。更始政権の将軍厳春と郿で戦い、これを破って殺してから、安定、北地に入ります。
 
その間に東漢の大司徒鄧禹が兵を率いて南下し、長安に至りました。
昆明池に駐軍し、高廟西漢時代に建てられた長安の高廟です)を拝謁して祭祀を行い、十一帝の神主を回収してから府掾を派遣して雒陽に送ります。神主は雒陽の高廟に納められました(上述)
資治通鑑』胡三省注によると、十一帝は高帝、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝を指します。神主は木で作られた位牌です。太廟太室(中央の部屋)に保管されました。
 
鄧禹は同時に園陵を巡行し、吏士を置いて奉守(管理、守備)させました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
真定王・劉楊西漢景帝の子孫で、後に光武帝の皇后になる郭聖通の叔父に当たります。玄漢劉玄更始二年・24年参照)が讖記(預言書)を作って言いました「赤九の後、癭楊が主になる(赤九之後,癭楊為主)。」
資治通鑑』胡三省注によると、漢は火徳なので赤は漢を指します。光武帝は高祖の九代孫に当たるので、赤九は光武帝を指します(高帝が一代目で、光武帝は九代目になります。高帝、文帝、景帝、長沙定王・劉発、舂陵節侯・劉買、鬱林太守・劉外、鉅鹿都尉・劉回、南頓令・劉欽、光武帝・劉秀です)
「癭」は首にできる瘤で、「癭楊」は「瘤がある劉楊」という意味です。
 
劉楊は癭を患っていたため、それを利用して讖記を作り、大衆を惑わそうとしました。
臨邑侯・劉譲も真定王・劉楊と共に謀反しました。更に劉楊は綿曼賊とも関係を結びます。
後漢書』の注によると、劉譲は劉楊の弟です。
資治通鑑』胡三省注によると、綿曼県は真定国に属します。
 
光武帝は騎都尉・陳副、游撃将軍・鄧隆を派遣して劉楊を招かせました。しかし劉楊は城門を閉じて陳副等を中に入れようとしません。
光武帝は再び前将軍・耿純を派遣しました。符節を持って幽州と冀州を巡行させ、通過した場所で王侯を慰労させます。同時に秘かに劉楊を捕らえるという任務も与えました。
 
耿純は真定に入って伝舍に泊まり、劉楊を招きました。
耿純が真定王の宗室の出だったため(『資治通鑑』胡三省注によると、耿純の母は真定王の宗室の娘だったようです)、劉楊は耿純を疑わず、また、自分の部衆の強盛に頼っており、耿純の意(心)も安静だったため、官属を従えて耿純に会いに行きました。
劉楊の兄弟も共に軽兵を率いて門外に集まります。
劉楊が伝舎に入って耿純に会うと、耿純は礼敬をもって接し、その兄弟も全て中に招きました。
その後、閤(小門、または部屋の戸)を閉めて全て誅殺し、兵をまとめて姿を現します。
真定は怖れ震え、敢えて動こうとする者がいませんでした。
 
光武帝は劉楊が謀反を実行する前に誅殺されたことを憐れみ、その子をまた真定王に封じました。
資治通鑑』胡三省注は劉楊の子を「劉徳」としていますが、『後漢書光武帝紀上』では「劉得」です。五月庚辰(十九日)に封王されます(再述します)
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
二月己酉(十六日)、車駕(皇帝の車。ここでは光武帝を指します)が脩武(修武)行幸しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、脩武県は河内郡に属します。元は殷商王朝の甯邑でしたが、西周武王が紂を討伐する時、甯で兵を整えたため、脩武(武を修める)に改名しました。
 
 
 
次回に続きます。