東漢時代9 光武帝(九) 彭寵謀反 26年(4)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
以前、光武帝・劉秀(帝位に即く前の出来事です)が王郎を討った時、漁陽太守彭寵が突騎を動員して東漢軍を援け、糧食を輸送して前後が絶えることがありませんでした。
劉秀が銅馬を追撃して薊に至った時、彭寵は自分の功績を自負しており、(官爵や褒賞に対して)高い期待を抱いていました。
しかし劉秀が彭寵を接見しても期待を満足させることができなかったため、彭寵は不平を抱くようになりました。
 
後漢書王劉張李彭盧列(巻十二)』によると、彭寵が不平を抱いていると知った劉秀は幽州牧朱浮に理由を尋ねました。
朱浮が言いました「以前、呉漢が北で兵を発した時、大王(劉秀)は彭寵に自分が佩している剣を贈り、北道の主人として彼を信頼しました。そのため彭寵は自分が(劉秀の陣営に)至ったら(劉秀が)(小門)で出迎えて手を握り、交歓して並んで座るものだと思っていました。しかし今、そうならなかったので失望したのです。」
これを機に朱浮が続けて言いました「王莽が宰衡だった時は甄豊が旦夕とも入室して謀議し、当時の人は『夜半の客は甄長伯(長伯は甄豊の字です。原文「夜半客,甄長伯」)』と言ったほどでした。しかし王莽が簒位に及んでからは、甄豊の意が不平になり、最後は誅殺されました。」
光武帝は大笑してそこまでひどくはないと考えました。
 
資治通鑑』に戻ります。
光武帝が即位すると、彭寵が派遣した呉漢や王梁は並んで三公になりましたが、彭寵だけは(官爵が)何も加えられなかったため漁陽太守のままだったため)、ますます怏怏(不満な様子)として志を得られず、嘆いてこう言いました「それならば(呉漢等が三公になるのなら。原文「如此」)、私は王になるべきだ。単にこのようであるのは(自分の官爵がこの程度でしかないのは。原文「但爾者」)、陛下が私を忘れたからではないか。」
 
当時、北方の州郡は破散(破滅離散)していましたが、漁陽郡だけはほぼ完全な姿を保っており、かつての鉄官がいました。
彭寵は産出した鉄を穀物に換え、珍宝を蓄積し、ますます富強になります。
 
幽州牧朱浮は若い頃から俊才で、風迹(教化の迹。品行)を厳格にして士の心を集めようと欲していました。州中の名宿(有名耆宿の士。名声や徳行がある年長者)や王莽時代の二千石の故吏を招いて全て幕府に置き、管轄する諸郡から多数の倉穀を徴発して彼等の妻子を養います。
 
彭寵は天下がまだ安定しておらず、師旅(軍隊)が起きたばかりなので、多数の官属を置いて軍実(軍事物資)を損なうべきではないと考え、朱浮の命令に従いませんでした(彭寵は太守で朱浮は州牧なので、彭寵は朱浮の指示を聞く立場にいます)
 
朱浮の性格は矜急自多(驕慢かつ性急で自信があること)で、彭寵も狠強(屈強。頑固)だったため、双方の間に嫌怨が積もっていきました。
しかも朱浮はしばしば彭寵を讒言して陥れようとしました。彭寵が多数の兵穀(兵と食糧)を集めており、その意計(意図)は量りがたいと密奏します。
光武帝は彭寵を脅恐させるために、すぐに朱浮の密奏を漏泄(漏洩)して彭寵に聞かせました。
 
後に光武帝が詔を発して彭寵を招くと、彭寵は上疏(上書)して朱浮と共に招きに応じることを願いました。
しかし光武帝がこれに同意しなかったため、彭寵はますます疑心を抱きます。
 
彭寵の妻もかねてから剛毅だったため、抑屈(屈服。屈辱)に堪えられず、彭寵に招きに応じないように強く勧めてこう言いました「天下はまだ定まっておらず、四方が各々雄となっています。漁陽は大郡で兵馬が最精(最強。最精鋭)なのに、どうして人の上奏によってこれらを棄てて去るのですか。」
 
彭寵は親信の吏(信任する官吏。近臣)とも計議しました。
官吏も皆、朱浮に対して怨みを抱いていたため、入朝を勧める者はいません。
 
光武帝は彭寵の従弟子后蘭卿(「子后」が姓だと思います。あるいは「彭子后」と「彭蘭卿」の二人とするべきかもしれません。『四庫全書太平御覧人事部奴婢(巻五百)』には「蘭卿子後(后)」と書かれています)を送って彭寵を諭させました。
ところが彭寵は子后蘭卿を留めて逆に挙兵します。将帥を任命して配置し、自ら二万余人を率いて薊の朱浮を攻撃しました。
また、彭寵は耿況と共に重功を立てたのに二人とも恩賞が薄かったため、しばしば使者を送って耿況を誘いました。しかし耿況は誘いを受けず、使者を斬り殺しました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
漢中にいた延岑(玄漢劉玄更始二年24年参照)が再び反して武安王を自称し、南鄭(漢中の治所)を包囲しました。
漢中王劉嘉は戦に敗れて逃走します。
 
延岑は漢中を占拠してから武都に兵を進めましたが、更始政権の柱功侯李宝に敗れ、天水に走りました。
そこで成家(または「成」)の公孫述が将侯丹を派遣して南鄭を占領しました。
 
劉嘉は散卒を集めて数万人を得ると、李宝を相に立てて武都から南下しました。しかし侯丹を攻撃しても勝てなかったため、河池(『資治通鑑』胡三省注によると、別名を「仇池」といいます)、下辨に軍を還し、延岑と連戦します。
延岑は北に引き上げて散関に入り、陳倉に至りましたが、劉嘉が追撃してこれを破りました。
 
その間に公孫述は将軍任満を派遣して閬中から江州に向かわせました。東の扞関を占拠し、益州の全領域を支配下に置きます。
資治通鑑』胡三省注によると、漢代の益州部には漢中、巴郡、広漢、蜀郡、犍為、牂柯、越益州等の郡が含まれました。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
辛卯(中華書局『白話資治通鑑』は「辛卯」を恐らく誤りとしています)光武帝が脩武(修武)から雒陽に還りました。
 
[十七] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
三月乙未(中華書局『白話資治通鑑』は「乙未」を恐らく誤りとしています)東漢政府が大赦を行いました。
 
光武帝が詔を発して言いました「最近、獄に多くの冤人がおり、刑の用い方が深刻(残刻)なので、朕は甚だ憐憫している(朕甚愍之)孔子はこう言った『刑罰が適切でなかったら、民が手足を置く場所がなくなる(原文「刑罰不中,則民無所措手足」。『論語』の言葉です)。』よって中二千石、諸大夫、博士、議郎と共に刑法を省くことについて議論する。」
 
[十八] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
更始政権の諸大将で南方にいる者の多くがまだ東漢に帰順していませんでした。
そこで光武帝が諸将を招いて兵事を議し、檄で地を叩いて言いました「郾は最強で宛はその次だ。誰がこれを撃つか(誰当撃之)?」
執金吾賈復が真っ先に(率然)応えました「臣が郾を撃つことを請います。」
光武帝が笑って言いました「執金吾が郾を撃つのなら、わしには何の憂いもない(吾復何憂)。大司馬(呉漢)は宛を撃て(大司馬当撃宛)。」
 
こうして光武帝は賈復に二将軍を率いて郾を撃たせました。
賈復が郾を破り、尹遵(または「尹尊」。郾王です。玄漢劉玄更始二年24年参照)が投降します。
また賈復は東に向かって更始政権の淮陽太守暴氾を撃ちました。暴氾も投降します。
 
[十九] 『後漢書光武帝紀上』からです。
東漢の驍騎将軍劉植が密賊を撃ちましたが戦没しました。
 
[二十] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
夏四月、東漢の虎牙大将軍蓋延が駙馬都尉馬武等の四将軍を監督して劉永を撃ちました。
東漢軍が戦勝して劉永を睢陽で包囲します。
 
かつて更始政権の将だった蘇茂(蘇茂は朱鮪に従って東漢に投降していました)東漢に反して淮陽太守潘蹇(『資治通鑑』胡三省注によると、西周文王の子季孫が潘を食邑にしたため、潘が氏になりました。晋国に潘父がおり、楚国に潘崇がいました)を殺しました。
潘蹇は広楽を占拠して劉永に臣服します。
劉永は蘇茂を大司馬淮陽王にしました。
 
[二十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
大司馬・呉漢が宛を撃ちました。
宛王劉賜は更始帝の妻子を奉じて雒陽を訪れ、東漢に降ります。
光武帝は劉賜を慎侯に封じました。
 
劉賜は更始帝劉玄と祖父(蒼梧太守劉利)が同じで、光武帝にとっては族兄(曾祖父が兄弟の関係にある親戚で年上の者。または同世代で自分よりも年上の親族)に当たります(玄漢劉玄更始二年24年参照)
 
また、光武帝の叔父劉良、族父(曾祖父の孫の兄弟。または父の世代の親族)劉歙、族兄劉祉も皆、長安から雒陽に来ました。
劉歙は更始帝の叔父で、更始時代に元氏王に封じられました。劉祉は元舂陵侯劉敞の嫡子なので、劉玄、劉秀の大宗に当たります。更始時代に定陶王に封じられました(玄漢劉玄更始二年24年参照)
 
甲午(初二日)、劉良を広陽王に、劉祉を城陽王に封じ(劉歙は五月に封王されます)光武帝の兄劉縯の子劉章を太原王に、劉興(劉章の弟)を魯王に封じました。
 
前年殺された更始帝劉玄には三子がいました。劉求、劉歆、劉鯉といいます。
本年夏、劉求兄弟と母が東に移って雒陽を訪ねたため、光武帝は劉求を襄邑侯に封じて更始帝の祭祀を奉じさせました。
また、劉歆を穀孰侯に、劉鯉を寿光侯にしました。
劉求は後に咸陽侯に移され、劉求の死後、子の劉巡が跡を継ぎ、また灌沢侯に移されました。
劉巡の死後は子の劉姚が継ぎました。
 
 
 
次回に続きます。