東漢時代9 光武帝(九) 彭寵謀反 26年(4)
劉秀が銅馬を追撃して薊に至った時、彭寵は自分の功績を自負しており、(官爵や褒賞に対して)高い期待を抱いていました。
しかし劉秀が彭寵を接見しても期待を満足させることができなかったため、彭寵は不平を抱くようになりました。
朱浮が言いました「以前、呉漢が北で兵を発した時、大王(劉秀)は彭寵に自分が佩している剣を贈り、北道の主人として彼を信頼しました。そのため彭寵は自分が(劉秀の陣営に)至ったら(劉秀が)閤(小門)で出迎えて手を握り、交歓して並んで座るものだと思っていました。しかし今、そうならなかったので失望したのです。」
これを機に朱浮が続けて言いました「王莽が宰衡だった時は甄豊が旦夕とも入室して謀議し、当時の人は『夜半の客は甄長伯(長伯は甄豊の字です。原文「夜半客,甄長伯」)』と言ったほどでした。しかし王莽が簒位に及んでからは、甄豊の意が不平になり、最後は誅殺されました。」
光武帝は大笑してそこまでひどくはないと考えました。
『資治通鑑』に戻ります。
光武帝が即位すると、彭寵が派遣した呉漢や王梁は並んで三公になりましたが、彭寵だけは(官爵が)何も加えられなかったため(漁陽太守のままだったため)、ますます怏怏(不満な様子)として志を得られず、嘆いてこう言いました「それならば(呉漢等が三公になるのなら。原文「如此」)、私は王になるべきだ。単にこのようであるのは(自分の官爵がこの程度でしかないのは。原文「但爾者」)、陛下が私を忘れたからではないか。」
当時、北方の州郡は破散(破滅離散)していましたが、漁陽郡だけはほぼ完全な姿を保っており、かつての鉄官がいました。
彭寵は産出した鉄を穀物に換え、珍宝を蓄積し、ますます富強になります。
幽州牧・朱浮は若い頃から俊才で、風迹(教化の迹。品行)を厳格にして士の心を集めようと欲していました。州中の名宿(有名耆宿の士。名声や徳行がある年長者)や王莽時代の二千石の故吏を招いて全て幕府に置き、管轄する諸郡から多数の倉穀を徴発して彼等の妻子を養います。
彭寵は天下がまだ安定しておらず、師旅(軍隊)が起きたばかりなので、多数の官属を置いて軍実(軍事物資)を損なうべきではないと考え、朱浮の命令に従いませんでした(彭寵は太守で朱浮は州牧なので、彭寵は朱浮の指示を聞く立場にいます)。
朱浮の性格は矜急自多(驕慢かつ性急で自信があること)で、彭寵も狠強(屈強。頑固)だったため、双方の間に嫌怨が積もっていきました。
しかも朱浮はしばしば彭寵を讒言して陥れようとしました。彭寵が多数の兵穀(兵と食糧)を集めており、その意計(意図)は量りがたいと密奏します。
しかし光武帝がこれに同意しなかったため、彭寵はますます疑心を抱きます。
彭寵の妻もかねてから剛毅だったため、抑屈(屈服。屈辱)に堪えられず、彭寵に招きに応じないように強く勧めてこう言いました「天下はまだ定まっておらず、四方が各々雄となっています。漁陽は大郡で兵馬が最精(最強。最精鋭)なのに、どうして人の上奏によってこれらを棄てて去るのですか。」
彭寵は親信の吏(信任する官吏。近臣)とも計議しました。
官吏も皆、朱浮に対して怨みを抱いていたため、入朝を勧める者はいません。
光武帝は彭寵の従弟・子后蘭卿(「子后」が姓だと思います。あるいは「彭子后」と「彭蘭卿」の二人とするべきかもしれません。『四庫全書・太平御覧・人事部・奴婢(巻五百)』には「蘭卿子後(后)」と書かれています)を送って彭寵を諭させました。
ところが彭寵は子后蘭卿を留めて逆に挙兵します。将帥を任命して配置し、自ら二万余人を率いて薊の朱浮を攻撃しました。
また、彭寵は耿況と共に重功を立てたのに二人とも恩賞が薄かったため、しばしば使者を送って耿況を誘いました。しかし耿況は誘いを受けず、使者を斬り殺しました。
漢中にいた延岑(玄漢劉玄更始二年・24年参照)が再び反して武安王を自称し、南鄭(漢中の治所)を包囲しました。
漢中王・劉嘉は戦に敗れて逃走します。
延岑は漢中を占拠してから武都に兵を進めましたが、更始政権の柱功侯・李宝に敗れ、天水に走りました。
そこで成家(または「成」)の公孫述が将・侯丹を派遣して南鄭を占領しました。
劉嘉は散卒を集めて数万人を得ると、李宝を相に立てて武都から南下しました。しかし侯丹を攻撃しても勝てなかったため、河池(『資治通鑑』胡三省注によると、別名を「仇池」といいます)、下辨に軍を還し、延岑と連戦します。
延岑は北に引き上げて散関に入り、陳倉に至りましたが、劉嘉が追撃してこれを破りました。
光武帝が詔を発して言いました「最近、獄に多くの冤人がおり、刑の用い方が深刻(残刻)なので、朕は甚だ憐憫している(朕甚愍之)。孔子はこう言った『刑罰が適切でなかったら、民が手足を置く場所がなくなる(原文「刑罰不中,則民無所措手足」。『論語』の言葉です)。』よって中二千石、諸大夫、博士、議郎と共に刑法を省くことについて議論する。」
更始政権の諸大将で南方にいる者の多くがまだ東漢に帰順していませんでした。
執金吾・賈復が真っ先に(率然)応えました「臣が郾を撃つことを請います。」
こうして光武帝は賈復に二将軍を率いて郾を撃たせました。
賈復が郾を破り、尹遵(または「尹尊」。郾王です。玄漢劉玄更始二年・24年参照)が投降します。
また賈復は東に向かって更始政権の淮陽太守・暴氾を撃ちました。暴氾も投降します。
かつて更始政権の将だった蘇茂(蘇茂は朱鮪に従って東漢に投降していました)が東漢に反して淮陽太守・潘蹇(『資治通鑑』胡三省注によると、西周文王の子・季孫が潘を食邑にしたため、潘が氏になりました。晋国に潘父がおり、楚国に潘崇がいました)を殺しました。
潘蹇は広楽を占拠して劉永に臣服します。
大司馬・呉漢が宛を撃ちました。
光武帝は劉賜を慎侯に封じました。
また、劉歆を穀孰侯に、劉鯉を寿光侯にしました。
劉求は後に咸陽侯に移され、劉求の死後、子の劉巡が跡を継ぎ、また灌沢侯に移されました。
劉巡の死後は子の劉姚が継ぎました。
次回に続きます。