東漢時代11 光武帝(十一) 赤眉転戦 26年(6)

今回も東漢光武帝建武二年の続きです。
 
[三十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
蓋延が睢陽の劉永を包囲して数カ月が経ち、やっと攻略しました。
劉永は虞に走りましたが、虞人が反してその母や妻を殺します。
劉永は麾下数十人と共に譙に奔りました。
 
蘇茂、佼彊、周建が三万余人の軍を集結させて劉永を助けました。
しかし蓋延が沛西で戦って劉永等を大破します。
劉永、佼彊、蘇建は湖陵に走って守り、蘇茂は奔走して広楽に還りました。
 
こうして蓋延が沛、楚、臨淮の三郡を平定しました。
 
光武帝が太中大夫伏隆を青徐二州に派遣しました。符節を持って郡国を招降させます。
伏隆は伏湛(玄漢劉玄更始三年東漢光武帝建武元年25年参照)の子です。
 
徐の群盗は劉永が破れたと聞き、皆、恐れて投降を請いました。
 
張歩劉永の輔漢大将軍。玄漢劉玄更始二年24年参照)も自分の掾孫昱を派遣して投降を請い、伏隆に従って上京させました。孫昱は宮闕を訪ねて上書し、鰒魚(鮑)を献上しました。
 
[三十二] 『資治通鑑』からです。
堵郷の人董訢が宛城で東漢に反して南陽太守劉驎を捕らえました。
しかし東漢の揚化将軍堅鐔(堅が姓、鐔が名です)が宛を攻めて攻略しました。
董訢は逃走して堵郷に還りました。
 
[三十三] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
東漢の呉漢が南陽諸県を攻略し、経由した場所で多くの侵暴(略奪暴行)を行いました。
 
ちょうど破虜将軍鄧奉が謁帰(謁見して休暇をもらい、故郷に帰ること)して新野に至りました。
鄧奉は呉漢が自分の郷里で略奪暴行を行ったことに怒り、離反して漢軍を撃破します。
その後、淯陽を占拠して駐軍し、諸賊と聨合しました。
 
[三十四] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
九月壬戌(初二日)、親征していた光武帝が内黄から雒陽に還りました。
 
[三十五] 『資治通鑑』からです。
陝賊蘇況が弘農を攻めて破りました。
光武帝は景丹に討伐を命じましたが、ちょうど景丹が死んでしまいました。
代わりに征虜将軍祭遵が弘農、栢華、蛮中(地名)の賊を撃ち、全て平定しました。
 
後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』から景丹の死について書きます。
蘇況が弘農を破った時、景丹は病を患っていました。しかし光武帝は景丹が旧将なので、無理にでも起たせて弘農郡の政事を担当させようとしました(領郡事)
そこで夜に景丹を招いて入宮させ、こう言いました「賊が京師に迫近(逼迫)しているが、将軍の威重を得るだけで、臥したままこれを鎮めるに足りる。」
景丹は辞退することができず、力疾(無理に病の体を動かすこと)して命を受け、営(軍)を率いて弘農郡に入りました。しかし十余日で死んでしまいました。
 
『朱景王杜馬劉傅堅馬列伝』には景丹死後の事が書かれていません。
後漢書光武帝紀上』の記述は少し異なります。
本年二月、光武帝が驃騎大将軍景丹に征虜将軍祭遵等二将軍を率いて弘農賊を撃たせ、東漢軍が弘農賊を破りました。
これを機に祭遵を派遣して蛮中賊(蛮中は地名です)張満を包囲させました。
九月、驃騎大将軍景丹が死にました。
翌年正月、征虜将軍祭遵が蛮中を破って張満を斬ります。
 
後漢書銚期王霸祭遵列伝(巻二十)』は景丹の死には触れず、こう書いています。
建武二年(本年)春、祭遵を征虜将軍に任命して封爵を潁陽侯に定めました。
祭遵は驃騎大将軍景丹、建義大将軍朱祐(朱祜)、漢忠将軍王常、騎都尉王梁、臧宮等と共に箕関に入り、南に向かって弘農、厭新、柏華、蛮中の賊を撃ちます。
弩が祭遵の口に命中し、傷から流血したため、負傷した祭遵を見た兵衆は少しずつ退却しました。しかし祭遵が叱咤してそれを留めます。士卒は皆、倍の力を発揮して戦い、ついに大勝しました。
この時、新城、蛮中の山賊張満が険隘な地に駐軍して人々の害となっていました。
光武帝は詔を発して祭遵にこれを攻めさせます。
祭遵はまず張満の糧道を絶ちました。張満がしばしば戦いを挑みましたが、祭遵は営壁を堅くして出ようとしません。
厭新や柏華の余賊もまた張満と合流し、霍陽聚を攻めて占拠しましたが、祭遵は兵を分けて霍陽聚を撃破し、彼等を降しました。
翌年春、張満が飢困しました。祭遵が城を落として張満を生け捕りにします。
以前、張満は天地の祭祀を行って自ら「(わしが)王になるはずだ」と言いました。失敗して捕えられてからは、嘆いて「讖文がわしを誤らせた」と言いました。
張満は斬られ、その妻子も皆殺しにされました。
 
[三十六] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
長安を棄てた赤眉が兵を率いて西に向かい、隴を登ろうとしました。
資治通鑑』胡三省注によると、隴県は天水郡に属し、隴坻(隴山)に位置します。
 
隗囂が将軍楊広を送って迎撃し、赤眉が敗れました。
楊広は赤眉を追撃して烏氏と涇陽の間でも破ります。
 
赤眉は陽城、番須一帯に至りましたが、大雪に遭って坑谷(溝や谷。渓谷)が全て埋まり、士卒の多くが凍死したため、再び東に戻り、漢帝の諸陵を掘り起こして副葬されていた宝貨を奪いました。呂后の屍も汚辱します。
(赤眉)が掘り起こした諸陵では、玉匣(宝玉で作った死者の服)をまとって埋葬された者はほとんど全て生きているようだったため、赤眉が多くの婬穢を行うことになりました。
資治通鑑』胡三省注によると、呂后は長陵(高帝陵)に合葬されました。高祖陵が西、呂后陵が東にあります。
 
この時、大司徒鄧禹が長安におり、兵を送って郁夷で赤眉を撃ちましたが、逆に敗れました。
鄧禹は長安を出て雲陽に向かいます。
赤眉がまた長安に入り、桂宮に住みました。
後漢書』の注によると、桂宮は未央宮の北にあったため、北宮ともいいます。
 
当時、漢中で叛した延岑が散関を出て杜陵(『資治通鑑』胡三省注によると、杜陵は京兆に属す県名で、周の杜伯の国でした)に駐屯していたため、赤眉の将逢安が十余万人を率いてこれを撃ちました。
鄧禹は逢安の精兵が長安の外に出ており、劉盆子と羸弱な者だけが城中にいると判断し、兵を率いて長安を襲います。しかしちょうど赤眉の謝禄が長安を援けに来ました。両軍は夜間に槀街長安の街)で戦い、鄧禹が敗戦して逃走しました。
 
延岑は更始政権の将軍李宝と兵を合わせて数万人を指揮し、逄安と杜陵で戦いました。しかし延岑等が大敗して死者が一万余人に上ります。李宝は逢安に投降し、延岑は散卒を集めて逃走しました。
ところが李宝が密かに人を送って延岑にこう伝えました「子(あなた)は努力して還戦(再戦)してください。私が内部で反します。表裏が勢を合わせれば大破できます。」
延岑はすぐに戻って戦いを挑みました。
逢安等が営塁を空にして出撃すると、李宝が後方で全ての赤眉の旌幟を抜き、自分の幡旗に立て換えました。
やがて逢安等が戦に疲れて営塁に還りましたが、旗幟が全て白くなっているのを見て大驚乱走します。
士卒は自ら川谷に投じ、死者が十余万に上りました。逄安は数千人と共に脱出して長安に帰ります。
 
赤眉の廖湛が兵十八万を率いて漢中王劉嘉を攻めました。
しかし劉嘉が谷口(『資治通鑑』胡三省注によると、馮翊に属す県名です)で戦って赤眉を大破し、劉嘉の手で廖湛を殺しました。
その後、劉嘉は雲陽に入って穀物を集めました。
 
劉嘉の妻の兄に当たる新野の人来歙は光武帝の親戚でした。
後漢書李王鄧来列伝(巻十五)』によると、来歙は字を君叔といい、南陽新野の人です。父来仲は西漢哀帝時代に諫大夫になり、光武帝劉秀の祖姑(祖母の姉妹)を娶って来歙を生みました。
資治通鑑』は「来歙は光武帝の姑(父の姉妹)の子」としていますが、「祖姑の子」の誤りです。
 
本文に戻ります。
光武帝は鄧禹に命じて劉嘉を招かせました。劉嘉は来歙を通して鄧禹を訪ね、東漢に投降します。
劉嘉の相李宝は倨慢(傲慢)だったため鄧禹に斬られました。
 
 
 
次回に続きます。