東漢時代11 光武帝(十一) 赤眉転戦 26年(6)
蓋延が睢陽の劉永を包囲して数カ月が経ち、やっと攻略しました。
劉永は虞に走りましたが、虞人が反してその母や妻を殺します。
劉永は麾下数十人と共に譙に奔りました。
蘇茂、佼彊、周建が三万余人の軍を集結させて劉永を助けました。
しかし蓋延が沛西で戦って劉永等を大破します。
こうして蓋延が沛、楚、臨淮の三郡を平定しました。
董訢は逃走して堵郷に還りました。
ちょうど破虜将軍・鄧奉が謁帰(謁見して休暇をもらい、故郷に帰ること)して新野に至りました。
鄧奉は呉漢が自分の郷里で略奪暴行を行ったことに怒り、離反して漢軍を撃破します。
その後、淯陽を占拠して駐軍し、諸賊と聨合しました。
陝賊・蘇況が弘農を攻めて破りました。
光武帝は景丹に討伐を命じましたが、ちょうど景丹が死んでしまいました。
代わりに征虜将軍・祭遵が弘農、栢華、蛮中(地名)の賊を撃ち、全て平定しました。
そこで夜に景丹を招いて入宮させ、こう言いました「賊が京師に迫近(逼迫)しているが、将軍の威重を得るだけで、臥したままこれを鎮めるに足りる。」
景丹は辞退することができず、力疾(無理に病の体を動かすこと)して命を受け、営(軍)を率いて弘農郡に入りました。しかし十余日で死んでしまいました。
『朱景王杜馬劉傅堅馬列伝』には景丹死後の事が書かれていません。
これを機に祭遵を派遣して蛮中賊(蛮中は地名です)・張満を包囲させました。
九月、驃騎大将軍・景丹が死にました。
翌年正月、征虜将軍・祭遵が蛮中を破って張満を斬ります。
祭遵は驃騎大将軍・景丹、建義大将軍・朱祐(朱祜)、漢忠将軍・王常、騎都尉・王梁、臧宮等と共に箕関に入り、南に向かって弘農、厭新、柏華、蛮中の賊を撃ちます。
弩が祭遵の口に命中し、傷から流血したため、負傷した祭遵を見た兵衆は少しずつ退却しました。しかし祭遵が叱咤してそれを留めます。士卒は皆、倍の力を発揮して戦い、ついに大勝しました。
この時、新城、蛮中の山賊・張満が険隘な地に駐軍して人々の害となっていました。
光武帝は詔を発して祭遵にこれを攻めさせます。
祭遵はまず張満の糧道を絶ちました。張満がしばしば戦いを挑みましたが、祭遵は営壁を堅くして出ようとしません。
厭新や柏華の余賊もまた張満と合流し、霍陽聚を攻めて占拠しましたが、祭遵は兵を分けて霍陽聚を撃破し、彼等を降しました。
翌年春、張満が飢困しました。祭遵が城を落として張満を生け捕りにします。
以前、張満は天地の祭祀を行って自ら「(わしが)王になるはずだ」と言いました。失敗して捕えられてからは、嘆いて「讖文がわしを誤らせた」と言いました。
張満は斬られ、その妻子も皆殺しにされました。
長安を棄てた赤眉が兵を率いて西に向かい、隴を登ろうとしました。
隗囂が将軍・楊広を送って迎撃し、赤眉が敗れました。
楊広は赤眉を追撃して烏氏と涇陽の間でも破ります。
赤眉は陽城、番須一帯に至りましたが、大雪に遭って坑谷(溝や谷。渓谷)が全て埋まり、士卒の多くが凍死したため、再び東に戻り、漢帝の諸陵を掘り起こして副葬されていた宝貨を奪いました。呂后の屍も汚辱します。
賊(赤眉)が掘り起こした諸陵では、玉匣(宝玉で作った死者の服)をまとって埋葬された者はほとんど全て生きているようだったため、赤眉が多くの婬穢を行うことになりました。
鄧禹は長安を出て雲陽に向かいます。
鄧禹は逢安の精兵が長安の外に出ており、劉盆子と羸弱な者だけが城中にいると判断し、兵を率いて長安を襲います。しかしちょうど赤眉の謝禄が長安を援けに来ました。両軍は夜間に槀街(長安の街)で戦い、鄧禹が敗戦して逃走しました。
延岑は更始政権の将軍・李宝と兵を合わせて数万人を指揮し、逄安と杜陵で戦いました。しかし延岑等が大敗して死者が一万余人に上ります。李宝は逢安に投降し、延岑は散卒を集めて逃走しました。
ところが李宝が密かに人を送って延岑にこう伝えました「子(あなた)は努力して還戦(再戦)してください。私が内部で反します。表裏が勢を合わせれば大破できます。」
延岑はすぐに戻って戦いを挑みました。
逢安等が営塁を空にして出撃すると、李宝が後方で全ての赤眉の旌幟を抜き、自分の幡旗に立て換えました。
やがて逢安等が戦に疲れて営塁に還りましたが、旗幟が全て白くなっているのを見て大驚乱走します。
士卒は自ら川谷に投じ、死者が十余万に上りました。逄安は数千人と共に脱出して長安に帰ります。
赤眉の廖湛が兵十八万を率いて漢中王・劉嘉を攻めました。
その後、劉嘉は雲陽に入って穀物を集めました。
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劉嘉の相・李宝は倨慢(傲慢)だったため鄧禹に斬られました。
次回に続きます。