東漢時代12 光武帝(十二) 赤眉の衰退 26年(7)

今回で東漢光武帝建武二年が終わります。
 
[三十七] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
冬十一月、光武帝が廷尉岑彭を征南大将軍に任命しました。
 
光武帝が大会(大集会、または大宴会)の席で王常を指さして群臣に言いました「この人(此家)は下江諸将を率いて漢室を輔翼し、心は金石のようであり(原文「心如金石」。意思が固いという意味です)、真に忠臣である。」
即日、王常を漢忠将軍に任命しました。
 
光武帝が王常と岑彭に建義大将軍朱祜等七将軍(「七将軍」は『資治通鑑』の記述で、『後漢書光武帝紀上』では「八将軍」です。『後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』には「岑彭を征南大将軍にした。また、朱祐、賈復および建威大将軍耿弇、漢忠将軍王常、武威将軍郭守、越騎将軍劉宏、偏将軍劉嘉、耿植等を派遣し、岑彭と協力して鄧奉を討たせた」とあるので、八将軍が正しいようです)を率いて鄧奉、董訢を討伐させました。
 
岑彭等が先に堵郷(董訢)を攻撃しましたが、鄧奉がこれを救援して東漢軍を破り、朱祜が鄧奉に捕えられました。
 
[三十八] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
銅馬、青犢、尤来の余賊が共に上郡で孫登という者を天子に立てました。
しかし孫登の将楽玄が孫登を殺し、衆五万余人を率いて東漢に降りました。
 
[三十九] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
鄧禹は馮愔が背いてから(前年十二月)威名がしだいに損なわれました。しかも糧食が欠乏し、戦でもしばしば不利になったため、帰附した者が日に日に離散していきます。
赤眉や延岑が三輔で暴乱し、郡県の大姓がそれぞれ兵衆を擁しましたが、鄧禹は平定できませんでした。
 
そこで光武帝は偏将軍馮異を送って鄧禹の代わりに赤眉を討伐させました。車駕(皇帝の車)が馮異を河南まで送ります。
資治通鑑』胡三省注によると、この「河南」は河南郡に属す河南県を指します。
 
光武帝が馮異に命じて言いました「三輔は王莽、更始の乱に遭い、赤眉、延岑の醜(悪行)が重なったので、元元(民衆)は塗炭(泥や火の中。困窮を表します)の中いて依訴(頼って訴えること)するところがない。将軍は今、辞(皇帝の言葉)を奉じて諸不軌(諸々の法を守らない者達)を討つことになった。営保(営堡)で投降した者は、渠帥を送って京師を訪ねさせ、小民を解散して農桑に就かせ、営壁を破壊して再び集まることができないようにせよ。征伐とは必ず略地(土地の奪取)、屠城(虐殺)を行うことではなく、重要なのは彼等を平定安集(安定)させることである。諸将は健闘しないわけではないが、虜掠(略奪)を好むものだ。卿は元々吏士を御す能力があるから、自分を修敕すること(自分を戒めて行いを正すこと。慎重に行動すること)を念じ、郡県の苦とするところとなってはならない。」
馮異は頓首して命を受け、兵を率いて西に向かいました。
いたる所で威信を布いたため、群盗の多くが投降します。
 
光武帝は詔を発して鄧禹に帰還を命じ、こう伝えました「慎重に行動し、窮寇(困窮した賊)と鋒を争ってはならない(慎毋與窮寇争鋒)。赤眉は穀(食糧)がないから自ずから東に来る。我々は満腹な状態で飢えた敵を待ち(以飽待飢)、安逸な状態で疲労した敵を待ち(以逸待労)、箠棍棒。杖。または鞭)を折ってこれを打つ(折箠笞之。折った箠で打つというのは、短い棒や鞭で敵を撃つということで、容易に勝てるという意味です)。諸将が憂いることではない。再び妄りに兵を進めてはならない。」
しかし鄧禹は翌年、赤眉軍に攻撃を仕掛けます。
 
[四十] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
光武帝は伏隆を光禄大夫に任命し、再び張歩に派遣する使者にしました(『後漢書光武帝紀上』では「太中大夫・伏隆」を使者として派遣していますが、翌年には「光禄大夫・伏隆」と書かれています。『後漢書伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝(巻二十六)』によると、伏隆は「太中大夫」から「光禄大夫」に任命されており、『資治通鑑』は列伝に従っています。『光武帝紀上』の「太中大夫」は誤りです。)。張歩を招いて帰順させ、東莱太守に任命するつもりです。
また新たに任命された青州牧、守、都尉も伏隆と共に東に向かいました。
光武帝は詔を発して伏隆に令長以下の官員を任命する権限を与えました。
 
[四十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
十二月戊午(三十日)光武帝が詔を発し、宗室の列侯で王莽のために断絶された者を全て旧国に服しました。
以下、詔の内容です「宗室の列侯が王莽のために廃され、先霊が依帰する所がないことを思い、朕は甚だこれを憐れむ(朕甚愍之)。よって故国を全て恢復する。もしも侯の身が既に没していたら、属所(所属する郡県)はその子孫の見名(現名。現存している者の姓名)尚書に献上して封拝させよ。」
 
[四十二] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
当時は三輔を大饑饉が襲い、城郭に人がなくなり、白骨が野を満たしました。
残された民は所々で集まって営保(営堡)を作り、それぞれ守りを固めて周辺の物資を全て営内に集めました(各堅壁清野)
赤眉は営堡を攻めても落とせず、略奪する物も無くなり、兵を率いて東に帰りました。まだ二十余万の部衆がいましたが、道を進むにつれて離散していきます。
 
光武帝が破姦将軍侯進等を新安に、建威大将軍耿弇等を宜陽に駐屯させ、二道に分けて赤眉の帰路を塞ぎました。
光武帝が諸将に訓示して言いました「賊がもし東に走ったら、宜陽の兵を率いて新安で合流でき、賊がもし南に走ったら、新安の兵を率いて宜陽で合流できる。」
 
これより先に西に向かっていた馮異が華陰で赤眉に遭遇しました。双方は六十余日間対峙し、戦が数十合に及びます。
赤眉の将卒五千余人が馮異に降りました。
 
後漢書光武帝紀上』も「関中を餓餓が襲った」と書いていますが、こういう記述もあります。
「かつて王莽の晩年には天下が旱害や蝗害に襲われたため、黄金一斤が粟一斛と交換することになった。しかしこの時光武帝建武二年。本年)に至ると、野では穀物を植えなくても成長し(野穀旅生)、麻や尗(豆)が特に盛んに茂った。野の蚕が繭を作って山阜(山や丘)を覆い、人々はその利益を得るようになった。」
関中三輔は戦乱が続いて飢餓に悩みましたが、他の地域は状況が好転していたようです。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代13 光武帝(十三) 鄧禹と馮異 27年(1)