東漢時代13 光武帝(十三) 鄧禹と馮異 27年(1)

今回から東漢光武帝建武三年です。五回に分けます。
 
丁亥 27
 
[] 『後漢書光武帝紀上』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
春正月甲子(初六日)光武帝が赤眉と対峙している馮異を征西大将軍に任命し、杜茂を驃騎大将軍に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、四征将軍(征東征西征南征北の四将軍)は漢代に始まりました。
同時に四征将軍が置かれたのではなく、まず廷尉岑彭が征南大将軍に任命され東漢光武帝建武二年26年参照)、今回、馮異が征西大将軍になりました。征北征東将軍が置かれるのは更に後の事です。
 
大司徒鄧禹は大任を受けたのに功がないことを慚愧し、しばしば飢えた士卒を指揮して赤眉に戦いを挑みましたが、いつも利がありませんでした。
そこで鄧禹は馮異と共に赤眉を攻めるため、車騎将軍鄧弘等を率いて河北から黄河を渡り、湖県に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、河北県は河東郡に属し、湖県は京兆に属します。
 
馮異が鄧禹に言いました「異(私)は賊と対峙して数十日になり、確かに(敵の)雄将を虜獲しましたが(捕虜にしましたが)、余衆がまだ多いので、徐々に恩信によって傾誘(勧誘)するべきであり、急いで兵を用いて破るのは困難です。上(陛下)は今、諸将を澠池に駐屯させてその東を要しました(諸将に赤眉が東に帰る道を塞がせて、邀撃の準備をしました)。そこで異(私)がその西(赤眉の後ろ)を撃ち、一挙してこれを取れば、万成(万全)の計となります。」
しかし鄧禹と鄧弘は馮異の意見に従いませんでした。
 
鄧弘が赤眉と大戦しました。長い時間が経過します(大戦移日)
赤眉は敗れたふりをして、輜重を棄てて逃走しました。鄧弘の兵士は飢えていたため争って輜重を奪います。しかし車には全て土が積まれており、その上を豆が覆っているだけでした。
赤眉が引き返して反撃しました。鄧弘軍は攻撃を受けて潰乱しましたが、馮異と鄧禹が兵を合わせて救援したため、赤眉がわずかに撤退しました。
 
馮異は士卒が飢倦(飢餓疲労)しているため、暫く休ませるべきだと考えました。
しかし鄧禹はこの意見も聞かず、また回溪(『資治通鑑』胡三省注によると、「回谿」は「回坑」ともいいます。長さ四里、広さ二丈、深さ二丈五尺の道です)で赤眉と戦いました。
その結果、鄧禹と馮異の軍が大敗して死傷者が三千余人に上りました。
鄧禹は二十四騎を率いて脱出し、宜陽に帰りました。
馮異は馬を棄てて奔走し、回谿阪を上りました。その後、麾下数人と共に営塁に帰還し、散卒を集めて再び堅壁自守(営壁を固めて守ること)します。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』からです。
東漢の征虜将軍祭遵が蛮中を破り、張満を斬りました。
 
資治通鑑』は前年に「征虜将軍祭遵が弘農、栢華、蛮中(地名)の賊を撃ち、全て平定した」と書いているだけで、張満には触れていません。
後漢書銚期王霸祭遵列伝(巻二十)』を見ると、『光武帝紀上』と同じく本年春に祭遵が張満を破ったことを書いています。蛮中(地名)を平定したのは本年のようです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
辛巳(二十三日)光武帝が四親廟を雒陽に建てました。
皇考(亡父)・南頓君劉欽から鉅鹿都尉劉回、鬱林太守劉外、舂陵節侯劉買に至る四人の先祖を祭ります。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
壬午(二十四日)東漢大赦を行いました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
閏月(恐らく「閏正月」です)乙巳(十八日)、鄧禹が大司徒と梁侯の印綬を返上しました。
光武帝は詔を発して梁侯の印綬を鄧禹に返し、右将軍に任命しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
馮異と赤眉が会戦の期日を約束しました。
馮異は壮士に服を換えさせて赤眉と同じ姿にし、道の側に伏せさせます。
旦日(翌日)、赤眉が一万人の兵に命じて馮異の前部を攻撃させました。
馮異はわざと少数の兵を出して援けさせます。
赤眉は馮異軍の勢いが弱いのを見て、全軍に馮異を攻撃させました。馮異も兵を放って対戦します。
 
日昃(太陽が西に傾く頃)、赤眉の気(士気)が衰えました。
そこに馮異が置いた伏兵が突然現れます。赤眉は漢軍の伏兵が同じ衣服だったため、混乱して識別できなくなりました。大軍が驚乱潰散します。
馮異は赤眉を追撃して崤底(『資治通鑑』胡三省注によると「崤谷の底」、または「崤阪」を指します)で大破し、男女八万人を降しました。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝』は、湖県で鄧禹を破った赤眉が「関を出て南に向かい」、征西大将軍馮異に崤底で敗れたと書いています。この関がどこを指すのかは分かりません。函谷関は崤底よりも更に東にあります。
後漢書光武帝紀上』には「関を出た」という記述がなく、馮異に敗れてから、「(赤眉の)余衆は南の宜陽に向かった」と書かれています。
資治通鑑』も馮異に敗れてからの事としていますが、「南に向かった」ではなく、「東の宜陽に向かった」と書いています(後述します)
 
光武帝が璽書詔書を下して馮異を慰労し、こう言いました「始めは回谿で翼を垂らしたが(失意したが。原文「始雖垂翅回谿」)、ついに澠池で翼を奮うことができた(終能奮翼澠池)。『東隅(朝)に失って桑楡(日暮れ)に収める(失之東隅,收之桑楡)』というものだ。功賞を論じて大勳(大功)に答えよう。」
 
 
 
次回に続きます。