東漢時代13 光武帝(十三) 鄧禹と馮異 27年(1)
丁亥 27年
大司徒・鄧禹は大任を受けたのに功がないことを慚愧し、しばしば飢えた士卒を指揮して赤眉に戦いを挑みましたが、いつも利がありませんでした。
馮異が鄧禹に言いました「異(私)は賊と対峙して数十日になり、確かに(敵の)雄将を虜獲しましたが(捕虜にしましたが)、余衆がまだ多いので、徐々に恩信によって傾誘(勧誘)するべきであり、急いで兵を用いて破るのは困難です。上(陛下)は今、諸将を澠池に駐屯させてその東を要しました(諸将に赤眉が東に帰る道を塞がせて、邀撃の準備をしました)。そこで異(私)がその西(赤眉の後ろ)を撃ち、一挙してこれを取れば、万成(万全)の計となります。」
しかし鄧禹と鄧弘は馮異の意見に従いませんでした。
鄧弘が赤眉と大戦しました。長い時間が経過します(大戦移日)。
赤眉は敗れたふりをして、輜重を棄てて逃走しました。鄧弘の兵士は飢えていたため争って輜重を奪います。しかし車には全て土が積まれており、その上を豆が覆っているだけでした。
赤眉が引き返して反撃しました。鄧弘軍は攻撃を受けて潰乱しましたが、馮異と鄧禹が兵を合わせて救援したため、赤眉がわずかに撤退しました。
その結果、鄧禹と馮異の軍が大敗して死傷者が三千余人に上りました。
鄧禹は二十四騎を率いて脱出し、宜陽に帰りました。
馮異は馬を棄てて奔走し、回谿阪を上りました。その後、麾下数人と共に営塁に帰還し、散卒を集めて再び堅壁自守(営壁を固めて守ること)します。
皇考(亡父)・南頓君・劉欽から鉅鹿都尉・劉回、鬱林太守・劉外、舂陵節侯・劉買に至る四人の先祖を祭ります。
馮異と赤眉が会戦の期日を約束しました。
馮異は壮士に服を換えさせて赤眉と同じ姿にし、道の側に伏せさせます。
旦日(翌日)、赤眉が一万人の兵に命じて馮異の前部を攻撃させました。
馮異はわざと少数の兵を出して援けさせます。
赤眉は馮異軍の勢いが弱いのを見て、全軍に馮異を攻撃させました。馮異も兵を放って対戦します。
日昃(太陽が西に傾く頃)、赤眉の気(士気)が衰えました。
そこに馮異が置いた伏兵が突然現れます。赤眉は漢軍の伏兵が同じ衣服だったため、混乱して識別できなくなりました。大軍が驚乱潰散します。
光武帝が璽書(詔書)を下して馮異を慰労し、こう言いました「始めは回谿で翼を垂らしたが(失意したが。原文「始雖垂翅回谿」)、ついに澠池で翼を奮うことができた(終能奮翼澠池)。『東隅(朝)に失って桑楡(日暮れ)に収める(失之東隅,收之桑楡)』というものだ。功賞を論じて大勳(大功)に答えよう。」
次回に続きます。