東漢時代15 光武帝(十五) 朱浮の逃走 27年(3)
そこで伏隆が曉譬(諭すこと。導くこと)して張歩に言いました「高祖が天下と約束し、劉氏でなければ王になれなくなりましたが(非劉氏不王)、今なら十万戸侯になることができます(今可得為十万戸侯耳)。」
伏隆が間使(密使)を送って光武帝に上書しました「臣隆は使者の任務を奉じたのに成果がなく(奉使無状)、凶逆に捕えられてしまいました。しかし困阨(困難危機)の中にいても、命を授かったら顧みることがありません(使命から逃げません。原文「授命不顧」)。また、吏民は張歩の反畔を知り、心中では帰附していません。すぐに兵を進めることを願います。臣隆を念と為す必要はありません(伏隆の安否を考慮する必要はありません)。臣隆が生きて闕廷に至り、有司の誅を受けることができるなら(使者の職務を全うできなかったので、朝廷に還って官員によって誅殺されるなら)、それは(臣の)大願です。もし寇手に身を没させることになるようなら(反徒に殺されたら)、父母、昆弟(兄弟)を長く陛下に累します(陛下に家族を託させていただきます)。陛下と皇后、太子が永遠に万国を享受して天と共に無限であることを願います(永享万国與天無極)。」
後に張歩は伏隆を殺しました。
しかし光武帝は詔を発して朱浮にこう答えました「往年(昨年)、赤眉が長安で跋扈したが、わしは彼等には穀物がないから必ず東に向かうと判断し(吾策其無穀必東)、実際に(彼等は東に)来て帰附した。今、この反虜(彭寵)を度す(計る)に、威勢を久しく保つことはできず(勢無久全)、途中で必ず互いに斬る者(裏切る者)が現れる。今は軍資がまだ充実していないので、後の麦(の収穫)を待たなければならない(麦は晩春から夏にかけて収穫されます)。」
やがて薊城の食糧が尽きて人が人を食べるほどの飢餓に襲われました。
薊城は彭寵に降りました。
彭寵は燕王を自称し、右北平や上谷の数県を攻略しました。
また匈奴に賄賂を贈って彭寵を助けるための兵を借りたり、南の張歩や富平、獲索の諸賊と結んで交流しました。
『後漢書・朱馮虞鄭周列伝(巻三十三)』によると、朱浮は薊から逃走して南の良郷に至りましたが、兵長が謀反して道を塞ぎました。朱浮は脱出できなくなることを恐れ、馬を下りて自分の妻を刺殺し(妻が足手まといになるからです)、単身でやっと逃れました。
『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「侯霸は翌年に尚書令になるので、後になってから遡って弾劾したはずだ(蓋追劾之)」と解説しています。あるいは、ここで「尚書令」とするのは誤りかもしれません。
光武帝が自ら鄧奉を討伐して堵陽に至りました。
鄧奉は淯陽に逃げ帰り、董訢は光武帝に降りました。
しかし岑彭と耿弇が光武帝を諫めて言いました「鄧奉は恩に背いて反逆し、暴師(軍を外に曝すこと。ここでは対峙、交戦の意味です)して年を経て、陛下が既に至ったのに悔善(後悔して善を行うこと)を知らず、自ら行陳(行陣。隊列)におり、兵が敗れてやっと降りました。もし鄧奉を誅殺しなかったら、悪を懲らしめることになりません。」
光武帝は鄧奉を斬首しました。
朱祜は以前の位に戻されます。
延岑は赤眉を破ってから自分の牧守を任命して関中を占拠しようと欲しました。
当時、関中の衆寇(諸勢力)はまだ旺盛で、延岑が藍田を占拠し、王歆が下邽を占拠し、芳丹(芳が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に幽州刺史・芳乗がいました)が新豊を占拠し、蒋震が霸陵を占拠し、張邯が長安を占拠し、公孫守が長陵を占拠し、楊周が谷口を占拠し、呂鮪が陳倉を占拠し、角閎(角が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に角善叔がいました)が汧を占拠し、駱延(『資治通鑑』胡三省注によると、斉太公の後代に公子駱がおり、その子孫が駱を氏にしました。また、秦の先代には大駱がいました)が盩厔を占拠し、任良が鄠を占拠し、汝章(汝が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、商代に汝鳩、汝方がおり、春秋時代の晋に汝斉、汝寬がいました)が槐里を占拠し、それぞれが将軍を称していました。多い者は万余人の兵を、少ない者でも数千人の兵を擁して互いに攻撃し合っています。
東漢の馮異は戦いながら西に向かって進軍し、上林苑の中に駐軍しました。
延岑が張邯、任良を率いて共に馮異を攻撃しましたが、馮異が迎撃して大破したため、諸営保(営堡)で延岑に附いていた者達が全て馮異に投降しました。
延岑は武関を出て南陽に走ります。
当時の百姓は飢餓に苦しんでおり、黄金一斤で豆五升と交換するほどでした。
しかも道路が断隔(断絶。隔絶)して委輸(輸送)ができないため、馮異の軍士は皆、果実を糧にしました。
馮異は兵穀(兵糧。または兵と食糧)がしだいに盛んになったため、豪傑で令に従わない者を徐々に誅撃し、降附(投降帰順)して功労がある者に褒賞を与えました。諸営の渠帥を全て京師に送り、兵衆を解散して本業(家業。または農業)に還らせます。
こうして馮異の威信が関中に行き届きました。呂鮪、張邯、蒋震だけは蜀に使者を送って公孫述に降りましたが、他の勢力は全て平定されました。
呉漢がこれを迎え撃ちましたが、利を得ることなく、逆に馬から落ちて䣛(膝)を負傷したため営内に還りました。
周建等が兵を連ねて広楽城に入ります。
旦日(翌日)、蘇茂と周建が兵を出して呉漢を包囲しましたが、呉漢が奮撃して大破しました。
蘇茂は逃走して湖陵に還ります。
虎牙大将軍・蓋延が諸将を率いてこれを包囲します。
呉漢は杜茂と陳俊を残して広楽を守らせ、自身は兵を率いて睢陽を包囲している蓋延を助けに行きました。
次回に続きます。