東漢時代15 光武帝(十五) 朱浮の逃走 27年(3)

今回も東漢光武帝建武三年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
睢陽で帝を称した劉永(この時は湖陵にいます)が董憲を海西王に立てました。
 
劉永東漢が送った光禄大夫伏隆(前年参照)が劇(県名)に入ったと聞き、使者を送って張歩を斉王に立てることにしました。
張歩は王爵を貪りたいため、躊躇して東漢に附くか劉永に附くか決断できません。
そこで伏隆が曉譬(諭すこと。導くこと)して張歩に言いました「高祖が天下と約束し、劉氏でなければ王になれなくなりましたが(非劉氏不王)、今なら十万戸侯になることができます(今可得為十万戸侯耳)。」
張歩は伏隆を留めて共に二州青州と徐州)を守ろうと欲しました。しかし伏隆はこの意見を聴かず、雒陽に還って報告することを求めます(求得反命)
張歩はついに東漢に叛して伏隆を捕え、劉永の封爵を受けました。
 
伏隆が間使(密使)を送って光武帝に上書しました「臣隆は使者の任務を奉じたのに成果がなく(奉使無状)、凶逆に捕えられてしまいました。しかし困阨(困難危機)の中にいても、命を授かったら顧みることがありません(使命から逃げません。原文「授命不顧」)。また、吏民は張歩の反畔を知り、心中では帰附していません。すぐに兵を進めることを願います。臣隆を念と為す必要はありません(伏隆の安否を考慮する必要はありません)。臣隆が生きて闕廷に至り、有司の誅を受けることができるなら(使者の職務を全うできなかったので、朝廷に還って官員によって誅殺されるなら)、それは(臣の)大願です。もし寇手に身を没させることになるようなら(反徒に殺されたら)、父母、昆弟(兄弟)を長く陛下に累します(陛下に家族を託させていただきます)。陛下と皇后、太子が永遠に万国を享受して天と共に無限であることを願います(永享万国與天無極)。」
伏隆の奏書を得た光武帝は伏隆の父伏湛を招き、涙を流して奏書を見せました。
光武帝が言いました「とりあえず同意して急いで帰還を求めなかったことを恨む(とりあえず張歩を封王することに同意して伏隆を帰らせるように求めるべきだった)。」
後に張歩は伏隆を殺しました。
 
当時、光武帝は北の漁陽(彭寵)を憂いており、南の梁劉永(龐萌。後述します)への対応にも追われていたため、張歩が斉地を独占して十二郡で割拠することができました。
資治通鑑』胡三省注によると、十二郡は城陽、琅邪、高密、膠東、東莱、北海、斉、千乗、済南、平原、泰山、菑川を指します。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
光武帝が懐を行幸しました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
呉漢が耿弇、蓋延の二将軍を率いて軹西(『資治通鑑』胡三省注によると、「軹」は県名で河内郡に属します)で青犢を撃ち、大破して降しました。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
三月壬寅(十六日)光武帝が大司徒司直伏湛を大司徒に任命しました。鄧禹の代わりです。
後漢書』の注によると、光武帝は即位してから西漢武帝の前例に倣って司徒司直を置きました。建武十一年35年)に省かれます。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
涿郡太守張豊が東漢から離反して無上大将軍を自称し、彭寵と連合しました。
東漢の朱浮(薊を守っています)光武帝が自ら彭寵を討伐しないため、上書して救援を求めます。
しかし光武帝は詔を発して朱浮にこう答えました「往年(昨年)、赤眉が長安で跋扈したが、わしは彼等には穀物がないから必ず東に向かうと判断し(吾策其無穀必東)、実際に(彼等は東に)来て帰附した。今、この反虜(彭寵)を度す(計る)に、威勢を久しく保つことはできず(勢無久全)、途中で必ず互いに斬る者(裏切る者)が現れる。今は軍資がまだ充実していないので、後の麦(の収穫)を待たなければならない(麦は晩春から夏にかけて収穫されます)。」
 
やがて薊城の食糧が尽きて人が人を食べるほどの飢餓に襲われました。
東漢の上谷太守耿況が騎兵を派遣して援けさせたため、朱浮は脱出して逃走します。
薊城は彭寵に降りました。
 
彭寵は燕王を自称し、右北平や上谷の数県を攻略しました。
また匈奴に賄賂を贈って彭寵を助けるための兵を借りたり、南の張歩や富平、獲索の諸賊と結んで交流しました。
 
後漢書朱馮虞鄭周列伝(巻三十三)』によると、朱浮は薊から逃走して南の良郷に至りましたが、兵長が謀反して道を塞ぎました。朱浮は脱出できなくなることを恐れ、馬を下りて自分の妻を刺殺し(妻が足手まといになるからです)、単身でやっと逃れました。
尚書侯霸が光武帝に上奏しました。「朱浮は幽州を敗乱させ、彭寵の罪を構成し(彭寵に謀叛させ)、軍師を徒労したのに死節を守ることができなかったので、その罪は伏誅(死刑)に値する」という内容です。
しかし光武帝は朱浮を処刑するのが忍びなかったため、賈復の代わりに朱浮を執金吾に任命し、父城侯に遷しました(元は幽州牧舞陽侯です)
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「侯霸は翌年に尚書令になるので、後になってから遡って弾劾したはずだ(蓋追劾之)」と解説しています。あるいは、ここで「尚書令」とするのは誤りかもしれません。
 
後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』によると、本年春、賈復は左将軍になりました。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
光武帝が自ら鄧奉を討伐して堵陽に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、堵陽は南陽郡に属す県です。一説では西漢景帝が「堵陽」を「順陽」に改名しました。
 
鄧奉は淯陽に逃げ帰り、董訢は光武帝に降りました。
 
夏四月、光武帝が鄧奉を追って小長安(地名)に至り、交戦して大破しました。
鄧奉は肉袒(上半身を裸にすること)して降伏の意志を示し、朱祜を通して光武帝に降ります。朱祜は昨年から鄧奉に捕えられていました。
 
光武帝はかつて東漢の功臣だった鄧奉を憐れみ、また、呉漢が鄧奉の故郷で略奪暴行をはたらいたことが謀反の原因だったため、罪を赦してその命を守ろうとしました。
後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』と『後漢書李王鄧來列伝(巻十五)』によると、鄧奉は鄧晨の兄の子です。鄧晨は光武帝の姉劉元を娶っていました(新王莽地皇三年22年参照)
 
しかし岑彭と耿弇が光武帝を諫めて言いました「鄧奉は恩に背いて反逆し、暴師(軍を外に曝すこと。ここでは対峙、交戦の意味です)して年を経て、陛下が既に至ったのに悔善(後悔して善を行うこと)を知らず、自ら行陳(行陣。隊列)におり、兵が敗れてやっと降りました。もし鄧奉を誅殺しなかったら、悪を懲らしめることになりません。」
光武帝は鄧奉を斬首しました。
朱祜は以前の位に戻されます。
 
[十五] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
延岑は赤眉を破ってから自分の牧守を任命して関中を占拠しようと欲しました。
当時、関中の衆寇(諸勢力)はまだ旺盛で、延岑が藍田を占拠し、王歆が下邽を占拠し、芳丹(芳が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に幽州刺史芳乗がいました)が新豊を占拠し、蒋震が霸陵を占拠し、張邯が長安を占拠し、公孫守が長陵を占拠し、楊周が谷口を占拠し、呂鮪が陳倉を占拠し、角閎(角が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に角善叔がいました)が汧を占拠し、駱延(『資治通鑑』胡三省注によると、斉太公の後代に公子駱がおり、その子孫が駱を氏にしました。また、秦の先代には大駱がいました)厔を占拠し、任良が鄠を占拠し、汝章(汝が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、商代に汝鳩、汝方がおり、春秋時代の晋に汝斉、汝寬がいました)が槐里を占拠し、それぞれが将軍を称していました。多い者は万余人の兵を、少ない者でも数千人の兵を擁して互いに攻撃し合っています。
 
東漢の馮異は戦いながら西に向かって進軍し、上林苑の中に駐軍しました。
延岑が張邯、任良を率いて共に馮異を攻撃しましたが、馮異が迎撃して大破したため、諸営保(営堡)で延岑に附いていた者達が全て馮異に投降しました。
延岑は武関を出て南陽に走ります。
 
当時の百姓は飢餓に苦しんでおり、黄金一斤で豆五升と交換するほどでした。
しかも道路が断隔(断絶。隔絶)して委輸(輸送)ができないため、馮異の軍士は皆、果実を糧にしました。
 
光武帝が詔を発して南陽の人趙匡を右扶風に任命し、兵を率いて馮異を助けさせ、併せて縑(絹の一種)穀を輸送させました。
馮異は兵穀(兵糧。または兵と食糧)がしだいに盛んになったため、豪傑で令に従わない者を徐々に誅撃し、降附(投降帰順)して功労がある者に褒賞を与えました。諸営の渠帥を全て京師に送り、兵衆を解散して本業(家業。または農業)に還らせます。
こうして馮異の威信が関中に行き届きました。呂鮪、張邯、蒋震だけは蜀に使者を送って公孫述に降りましたが、他の勢力は全て平定されました。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
東漢の呉漢が驃騎大将軍杜茂等七将軍を率いて広楽で劉永の将・蘇茂を包囲しました。
劉永の将周建が兵を招いて十余万人を集め、蘇茂を助けます。
呉漢がこれを迎え撃ちましたが、利を得ることなく、逆に馬から落ちて(膝)を負傷したため営内に還りました。
周建等が兵を連ねて広楽城に入ります。
 
東漢の諸将が呉漢に言いました「大敵が前にいるのに公が傷臥(怪我のため横になること)していたら、衆心が懼れを抱きます。」
呉漢はとっさに身を起こして傷を包み、発奮して立ち上がりました。牛を殺して士卒にふるまい(椎牛饗士)将兵を慰労して励ましたため(慰勉之)、士気が倍増します。
 
旦日(翌日)、蘇茂と周建が兵を出して呉漢を包囲しましたが、呉漢が奮撃して大破しました。
蘇茂は逃走して湖陵に還ります。
 
この時、睢陽の人が東漢に反して劉永を城内に迎え入れました劉永は睢陽を失って湖陵にいました)
虎牙大将軍・蓋延が諸将を率いてこれを包囲します。
呉漢は杜茂と陳俊を残して広楽を守らせ、自身は兵を率いて睢陽を包囲している蓋延を助けに行きました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代16 光武帝(十六) 岑彭の進撃 27年(4)