東漢時代16 光武帝(十六) 岑彭の進撃 27年(4)
岑彭に傅俊、臧宮、劉宏等三万余人を率いて南の秦豊を攻撃させました。
五月己酉(二十四日)、車駕が雒陽の皇宮に戻りました。
乙卯晦、日食がありました。
延岑が南陽を攻めて数城を得ました。
朱祜は南下して岑彭等の軍と合流しました。
蘇竟は生涯自分の功績を誇って自慢することなく、身を隠して道を楽しみ(聖人の道を守り。原文「隠身楽道」)、家で天寿を終えました。
蘇竟は字を伯況といい、扶風平陵の人です。西漢平帝の時代に、『易経』に明るかったことから博士になり、『書』を講じる祭酒(講書祭酒)になりました(王莽が六経のそれぞれに祭酒を置きました。『後漢書』の注によると秩は上卿に匹敵します。蘇竟は『易』によって博士になりましたが「尚書祭酒」になりました)。
蘇竟は図緯(予言や易占)を得意とし、百家の言(学説)に通じることができました。
王莽の時代、劉歆等と共に書物を典校(整理校定)しました。
蘇竟は病が篤かったため、兵を随弟に属させ、京師を訪ねて謝罪しました。
光武帝は蘇竟を侍中に任命しましたが、数カ月後、蘇竟は病のため免じられました。
蘇竟の勧めによって鄧仲況と劉龔が東漢に投降しました。
蘇竟は生涯自分の功績を誇って自慢したことがなく、隠居して道術(道義、学術)を楽しみ(潜楽道術)、『記誨篇』やその他の文章を書いて世に伝えられました。
七十歳になって家で死にました。
また、『後漢書・蘇竟楊厚列伝』は劉龔を「劉歆の兄の子」としていますが、『資治通鑑』では「劉歆の孫」となっています。『後漢書・蘇竟楊厚列伝』の注釈には「前書および『三輔決録』は共に『劉向の曾孫』としており、ここで『劉歆の兄の子』としているのとは異なる」と書かれています。
『前書』は『漢書』を指すはずですが、劉龔に関する記述は見つけられませんでした。
『資治通鑑』は「劉向の曽孫」という記述から「劉歆の孫(劉歆は劉向の子です)」としたのだと思われますが、劉向には劉歆の他に劉伋(長子)と劉賜(次子)という子もいたので(劉歆は三子です『漢書・楚元王伝(巻三十六)』参照)、劉向の曾孫が劉歆の孫かどうかは特定できません。
秋七月、岑彭が秦豊を撃って破りました。
岑彭が進軍して黎丘で秦豊を包囲します。
また、別に積弩将軍・傅俊を派遣し、兵を率いて江東を攻略させました。揚州がことごとく平定されます。
恐らく『光武帝紀上』の「黎丘」は「鄧」の誤りです。
同時に捕虜の監視を緩めてわざと逃亡できるようにします。
捕虜が帰って秦豊に報告したため、秦豊はすぐに全軍で西に向かって岑彭を迎撃しました(岑彭と秦豊は鄧で対峙しており、鄧の東南に黎丘があります。山都は鄧の西にあり、岑彭が西に向かうという情報を流したため、秦豊も急いで西に向かいました)。
すると岑彭は秘かに兵を発して沔水(鄧の南にあります)を渡らせ、阿頭山で秦豊の将・張楊を撃って大破しました。川谷の間で木を伐って道を開き、直接、黎丘を襲います。秦豊の諸屯の兵(黎丘周辺各地に駐屯している兵)が撃破されました。
秦豊はそれを聞いて大いに驚き、馳せ帰って黎丘を援けました。
岑彭と諸将は東山を利用して営を造りました。
秦豊の相・趙京が宜城を挙げて投降しました。趙京は成漢将軍に任命され、岑彭と共に黎丘で秦豊を包囲しました。
次回に続きます。