東漢時代16 光武帝(十六) 岑彭の進撃 27年(4)

今回も東漢光武帝建武三年の続きです。
 
[十七] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
車駕(皇帝の車。ここでは光武帝を指します)が小長安から還りました。
岑彭に傅俊、臧宮、劉宏等三万余人を率いて南の秦豊を攻撃させました。
 
五月己酉(二十四日)、車駕が雒陽の皇宮に戻りました。
 
[十八] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
乙卯晦、日食がありました。
 
[十九] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
六月壬戌(初七日)東漢大赦を行いました。
 
[二十] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
延岑が南陽を攻めて数城を得ました。
しかし東漢の建威大将軍耿弇が穰で延岑と戦って大破します。
延岑は数騎と共に東陽(『資治通鑑』胡三省注によると、東陽は聚の名です)に走り、秦豊と連合しました。秦豊は娘を延岑に嫁がせます(延岑は東陽、秦豊は黎丘にいるので、婚姻の約束をしただけだと思います)
 
東漢の建義大将軍朱祜が祭遵等を率いて東陽で延岑と戦い、また破りました。延岑の将・張成を斬ります。
延岑は逃走して秦豊の拠点(黎丘)に入りました。
朱祜は南下して岑彭等の軍と合流しました。
 
[二十一] 『資治通鑑』からです。
延岑の護軍鄧仲況が兵を擁して陰県を占拠しました。劉歆(劉秀。王莽の重臣です)の孫劉龔が鄧仲況の謀主(参謀)です。
かつて侍中だった扶風の人蘇竟が書を送って二人を説得したため、鄧仲況と劉龔は東漢に降りました(分かりにくいので再述します)
蘇竟は生涯自分の功績を誇って自慢することなく、身を隠して道を楽しみ(聖人の道を守り。原文「隠身楽道」)、家で天寿を終えました。
 
後漢書蘇竟楊厚列伝(巻三十上)』にはこう書かれています。  
蘇竟は字を伯況といい、扶風平陵の人です。西漢平帝の時代に、『易経』に明るかったことから博士になり、『書』を講じる祭酒(講書祭酒)になりました(王莽が六経のそれぞれに祭酒を置きました。『後漢書』の注によると秩は上卿に匹敵します。蘇竟は『易』によって博士になりましたが「尚書祭酒」になりました)
蘇竟は図緯(予言や易占)を得意とし、百家の言(学説)に通じることができました。
王莽の時代、劉歆等と共に書物を典校(整理校定)しました。
後に代郡中尉に任命されました。当時は匈奴が擾乱しており、北辺の多くの地がその禍を被っていましたが、蘇竟は最後まで一郡を保ちました。
光武帝が即位してからも蘇竟をそのまま代郡太守に任命し、辺塞を固めて匈奴を防がせました。
建武五年29年。本年は建武三年です)冬、盧芳が北辺諸郡を攻略しました。
光武帝は偏将軍隨弟(隨が姓、弟が名です)を代郡に駐屯させます。
蘇竟は病が篤かったため、兵を随弟に属させ、京師を訪ねて謝罪しました。
光武帝は蘇竟を侍中に任命しましたが、数カ月後、蘇竟は病のため免じられました。
以前、延岑の護軍鄧仲況が兵を擁して南陽陰県を占拠し、寇を為しました(反乱軍になりました)。劉歆の兄の子劉龔は鄧仲況の謀主になっています。
蘇竟は当時、南陽にいました。劉龔を諭すために書を送ります(書の内容は省略します)
また、鄧仲況にも書を送って諫めました(『後漢書』は劉龔に送った書は紹介していますが、鄧仲況に送った書は記載していません)
蘇竟の勧めによって鄧仲況と劉龔が東漢に投降しました。
蘇竟は生涯自分の功績を誇って自慢したことがなく、隠居して道術(道義、学術)を楽しみ(潜楽道術)、『記誨篇』やその他の文章を書いて世に伝えられました。
七十歳になって家で死にました。
 
資治通鑑』は蘇竟を「前侍中(元侍中)」と書いています。
上述の通り、『後漢書蘇竟楊厚列伝』によると、蘇竟が侍中になるのは建武五年冬以後の事で、蘇竟が劉龔等を諭した時には、侍中を免じられて南陽にいました。
よって蘇竟が劉龔等を諭したのは本年建武二年)ではなく建武五年以後の事のようです。
 
また、『後漢書蘇竟楊厚列伝』は劉龔を「劉歆の兄の子」としていますが、『資治通鑑』では「劉歆の孫」となっています。『後漢書蘇竟楊厚列伝』の注釈には「前書および『三輔決録』は共に『劉向の曾孫』としており、ここで『劉歆の兄の子』としているのとは異なる」と書かれています。
『前書』は『漢書』を指すはずですが、劉龔に関する記述は見つけられませんでした。
『三輔決録』は東漢趙岐の書で、「巻二」に「劉龔は劉向の曽孫」と書かれています。
資治通鑑』は「劉向の曽孫」という記述から「劉歆の孫(劉歆は劉向の子です)」としたのだと思われますが、劉向には劉歆の他に劉伋(長子)と劉賜(次子)という子もいたので(劉歆は三子です『漢書楚元王伝(巻三十六)』参照)、劉向の曾孫が劉歆の孫かどうかは特定できません。
 
[二十二] 『資治通鑑』からです。
秦豊が鄧(『資治通鑑』胡三省注によると、鄧は南陽郡に属す県で、春秋時代の鄧国です)で岑彭に対抗しました。
 
秋七月、岑彭が秦豊を撃って破りました。
岑彭が進軍して黎丘で秦豊を包囲します。
また、別に積弩将軍傅俊を派遣し、兵を率いて江東を攻略させました。揚州がことごとく平定されます。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『後漢書光武帝紀上』の記述は少し異なり、こう書いています「秋七月、征南大将軍岑彭が三将軍を率いて秦豊を討ち、黎丘で戦って大破した。秦豊の将蔡宏を捕えた」。
 
恐らく『光武帝紀上』の「黎丘」は「鄧」の誤りです。
以下、『後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』からです。
光武帝が岑彭に傅俊、臧宮、劉宏等と三万余人を率いて南の秦豊を討たせました。岑彭は黄郵(『後漢書馮岑賈列伝』の注によると、南陽新野県に属す聚の名です)を攻略します。
秦豊は大将蔡宏と共に鄧で岑彭を拒みました。
数カ月経っても岑彭が進軍できなかったため、光武帝が怪しんで譴責しました。懼れた岑彭は夜の間に兵馬を指揮して軍中に申令(号令)し、翌朝、西進して山都(県名)を撃つと宣言しました。
同時に捕虜の監視を緩めてわざと逃亡できるようにします。
捕虜が帰って秦豊に報告したため、秦豊はすぐに全軍で西に向かって岑彭を迎撃しました(岑彭と秦豊は鄧で対峙しており、鄧の東南に黎丘があります。山都は鄧の西にあり、岑彭が西に向かうという情報を流したため、秦豊も急いで西に向かいました)
すると岑彭は秘かに兵を発して沔水(鄧の南にあります)を渡らせ、阿頭山で秦豊の将張楊を撃って大破しました。川谷の間で木を伐って道を開き、直接、黎丘を襲います。秦豊の諸屯の兵(黎丘周辺各地に駐屯している兵)が撃破されました。
秦豊はそれを聞いて大いに驚き、馳せ帰って黎丘を援けました。
 
岑彭と諸将は東山を利用して営を造りました。
夜、秦豊と蔡宏が岑彭を攻撃しましたが、岑彭があらかじめ備えを設けていたため、兵を出して逆に秦豊等を撃ちました。秦豊は敗走し、蔡宏は追撃に遭って斬られました。
光武帝は岑彭を舞陰侯に改めました(岑彭は更始時代に帰徳侯に封じられていました。新王莽地皇四年・玄漢劉玄更始元年・23年参照)


秦豊の相趙京が宜城を挙げて投降しました。趙京は成漢将軍に任命され、岑彭と共に黎丘で秦豊を包囲しました。

 
 
 
次回に続きます。