東漢時代17 光武帝(十七) 劉永の死 27年(5)
庚辰(六月壬戌が初七日なので、庚辰は六月二十五日になるはずです。しかし『光武帝紀上』は「七月」に書いてます。「七月」が誤りか「庚辰」が誤りかは分かりません)、光武帝が詔を発しました「吏で六百石に満たず、下は墨綬を持つ長・相に至る者(『後漢書』の注によると、大きな県には県令を一人置き、秩は千石でした。その次は県長を置き、秩は四百石、小さい県は三百石でした。侯国の相の秩も同じです。『漢書・百官公卿表上』では、一万戸以上の県には県令を置き、秩は千石から六百石、一万戸より少ない県には県長を置き、秩は五百石から三百石としています。「吏で六百石に満たず、下は墨綬を持つ長・相に至る者(吏不満六百石,下至墨綬長相)」というのは、六百石の県令から県長、国相にいたる地方の官員を指します。)は、罪があっても先に(判決の指示を)請え(原文「有罪先請」。県長・県令や国相を優遇する政策です)。
男子で八十歳以上と十歳以下の者、および婦人で従坐(連座)した者のうち、自身が不道(謀反)を行ったのではない者、詔で名捕(逮捕の指名)を受けていない者は、皆(牢に)繫げてはならない。験問(調査審問。真実を検証すること)が必要な者は速やかに験せよ(調べよ)。女徒は雇山して家に帰らせよ(「雇山」は山で樹木の伐採をする人夫を雇うことです。釈放の代わりに人夫を雇用する金を納めさせました)。」
蓋延が睢陽を包囲して百日が経ちました。
佼彊は西防に奔って守りを固めました。
耿弇が自信を持って光武帝に進言しました(従容言於帝)。「耿弇自ら北に向かい、まだ動員されていない上谷の兵を集め、漁陽で彭寵を定め、涿郡で張豊を取り、還って富平・獲索の勢力を収め、東の張歩を攻めて斉地を平定することを請う」という内容です。
光武帝は耿弇の雄壮な計画を評価して同意しました。
百官を置いて九城を擁し、衆は十余万に及びます。
『資治通鑑』胡三省注によると、廬江には十二城があり、李憲はそのうちの九城を得ました。
光武帝が太中大夫・来歙(来歙は既に登場しましたが、『資治通鑑』胡三省注はここで来姓について書いています。「郲」の先祖は子姓で商代の支孫に当たります。郲を食邑にしたため地名が氏になり、後に難を避けて郲邑を去りました。「阝」は「邑」の意味なので、邑を去った時に「来」になったようです。漢代に軑侯・来蒼がいました)に言いました「今、西州(隗囂)がまだ附かず、子陽(公孫述の字)が帝を称し、道里は阻遠(険しくて遠いこと)で、諸将は関東の事に務めている。西州の方略を思うが、所在がわからない(西州に対する方針を考えたいが、どうなっているのかが分からない。原文「未知所在」)。」
来歙が言いました「臣はかつて隗囂と長安で遇ったことがあります。彼が始めて起った時は、漢を名としていました(漢朝復興を名分としていました)。臣は威命を奉じて(天子の使者になって)、丹青の信(明確な約束)によって(道を)開くことを願います。隗囂は必ず手を縛って自ら帰順するでしょう(束手自帰)。そうなれば公孫述は自滅する形勢になるので(自亡之勢)、図るに足りません。」
光武帝は納得して来歙を隗囂に送る使者にしました。
隗囂は漢に対して功績があり、また鄧禹の爵署を受けていたため(東漢光武帝建武元年・25年、隗囂は東漢に叛した馮愔の軍を破り、鄧禹から西州大将軍に任命されました)、議論した腹心の多くが使者を送って京師(雒陽)と通じるように勧めました。
そこで隗囂は上奏文を奉じて雒陽の宮闕を訪ねました。
次回に続きます。