東漢時代18 光武帝(十八) 張豊の死 28年(1)
戊子 28年
壬申(十一日)、懐から雒陽に還りました。
延岑が再び順陽を侵しました。
光武帝は鄧禹に兵を率いて攻撃させます。
鄧禹が延岑を破り、延岑は漢中に奔りました。
公孫述が延岑を大司馬に任命し、汝寧王に封じました。
『後漢書・鄧寇列伝(巻十六)』には少し詳しく書かれています「延岑は東陽で敗れてから秦豊と合流した(前年)。四年(本年)春、延岑が再び順陽一帯を侵したため、光武帝が鄧禹を派遣し、復漢将軍・鄧曄と輔漢将軍・于匡を監護させて鄧で延岑を撃破した。追撃して武当に至り、また破った。延岑は漢中に奔り、余党は全て東漢に降った。」
『後漢書・隗囂公孫述列伝(巻十三)』では異なる記述になっています「延岑と田戎が併せて秦豊と合流し、秦豊は自分の娘を二人に嫁がせた(秦豊が娘を延岑に嫁がせたことは前年に書きました。田戎は次の記述で秦豊と連合します。恐らくその時に秦豊の娘を娶りました)。後に秦豊が敗れたため、二人とも公孫述に降った。公孫述は延岑を大司馬に任命して汝寧王に封じ、田戎を翼江王に封じた。」
このように『隗囂公孫述列伝』では延岑と田戎が共に公孫述に降って封王されたと書いていますが、実際は、延岑は秦豊が滅ぶ前に公孫述に降っています。田戎は翌年に公孫述を頼って封王されます。
すると妻の兄・辛臣が彭寵、張歩、董憲、公孫述等が得た郡国を図示して田戎に言いました「雒陽の地は掌に過ぎません(狭いという意味です。原文「如掌耳」)。暫く兵を止めて(按甲)変化を観るべきです。」
ところが田戎が出ていくと辛臣が田戎の珍宝を盗み、間道を通って先に岑彭に投降してしまいました。
しかも辛臣は田戎を招く書を送ってこう告げました「速く降るべきだ(宜以時降)。前計(以前に定めた方針)にこだわる必要はない!」
田戎は辛臣が自分を売ったと疑い、亀の甲羅を焼いて投降するべきかを卜いました。その結果、甲羅の真ん中で割れました(原文「兆中坼」。凶兆のようです)。
しかし岑彭が攻撃して破ったため、田戎は夷陵に逃げ還りました。
そこで呉漢や陳俊、王梁を派遣し、臨平で五校を撃破しました。
『資治通鑑』に戻ります。
この時、鬲県の五姓(『資治通鑑』胡三省注によると鬲県の「強宗豪右(強郷。豪族)」です。五氏いたようです)が共に守長(『資治通鑑』胡三省注によると、「守長」は「守鬲県長(鬲県長代理)」の意味で、正官ではありません)を駆逐し、城を占拠して東漢に反しました。
諸将が争って攻撃しようとしましたが、呉漢がこう言いました「鬲を背反させたのは守長の罪だ。敢えて軽率に兵を進める者は斬る(敢軽冒進兵者斬)。」
城中の五姓は大喜びして次々に投降します。
諸将が感服して言いました「戦わずに城を降すのは、衆(常人)が及ぶことではありません。」
本文に戻ります。
しかし伏湛が諫めて言いました「今、兗・豫・青・冀は中国の都(中原の都市。重要な地)なのに、寇賊が従横(縦横)してまだ従化(服従・教化)に及んでいません。これに対して漁陽は辺外の地で荒耗(荒涼)としています。どうして先に図るに足るでしょう(豈足先図)。陛下が近くを捨てて遠くに務め、容易なことを捨てて困難を求めようとしているのは、誠に臣が困惑するところです。」
光武帝は親征を中止して帰還しました。
これは『資治通鑑』の記述です。
本文に戻ります。
祭遵が先に到着し、張豊を急攻して捕えました。
張豊は方術を好みました。かつてある道士(『資治通鑑』胡三省注によると、西都(西漢)は方士といい、東都(東漢)は道士と呼びました)が「張豊は天子になるはずだ」と言い、五綵囊(五色の袋)で石を包んで張豊の肘に繋ぎ、「石の中に玉璽がある」と告げました。
張豊はこれを信じて謀反しました。
今回捕えられて斬首されることになりましたが、張豊はまだ「肘の石に玉璽がある」と言いました。
傍の者が石を打って割りましたが、玉璽は出てきません。
張豊はやっと騙されたと知り、天を仰いで嘆息して「死んで当然だ。恨みはない(当死無恨)」と言いました。
次回に続きます。