東漢時代19 光武帝(十九) 隗囂と馬援 28年(2)

今回は東漢光武帝建武四年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
光武帝が詔を発して耿弇に彭寵を攻撃させました。
しかし耿弇は父の上谷太守耿況に彭寵と同等の功績光武帝を助けた功績)があり、また、自分の兄弟も京師にいなかったため(耿弇の兄弟が京師にいれば人質になるので、光武帝は耿弇が裏切ることはないと思って信用します。逆に誰も京師にいなかったら、人質がいないので光武帝に謀反を疑われる恐れがあります)一人で進軍しようとはせず、雒陽を訪ねる許可を求めました。
光武帝が詔を発して答えました「将軍は宗族を挙げて国の為めとなり、功效(功績)が最も顕著である(尤著)。何を嫌い何を疑って(何嫌何疑)徴されることを(雒陽に呼ばれることを)欲し求めるのか。」
これを聞いた耿況は耿弇の弟耿国を雒陽に送って入侍させました。
 
この時、祭遵が良郷に、劉喜が陽郷に駐屯していました。『資治通鑑』胡三省注によると、良郷、陽郷とも涿郡に属す県です。
 
彭寵が匈奴兵を率いてこれを攻撃しようとしましたが、耿況が子の耿舒を送って匈奴兵を襲わせました。匈奴兵が敗れて二王が斬られます。
彭寵は退走しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
六月辛亥(初二日)、車駕光武帝が雒陽の皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
秋七月丁亥(初八日)光武帝が譙を行幸しました。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では「六月に譙を行幸した」と書いています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従っています。
 
光武帝が捕虜将軍馬武と偏将軍王霸を派遣して垂恵の劉紆と周建を包囲させました。
 
資治通鑑』は王覇を「騎都尉」としていますが、『光武帝紀上』では「偏将軍」です。
後漢書銚期王霸祭遵列伝(巻二十)』にはこうあります「建武元年25年)王霸を偏将軍に任命し、臧宮と傅俊の兵を指揮させる。臧宮と傅俊は騎都尉にする。建武二年、富波侯に改封する(これ以前は王郷侯です)建武四年(本年)秋、光武帝が譙を行幸し、王霸と捕虜将軍馬武に命じて東進させ、垂恵の周建を討たせる。」
騎都尉になったのは臧宮と傅俊なので、『資治通鑑』の誤りのようです。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
董憲劉永が海西王に立てました)の将賁休が蘭陵を挙げて東漢に投降しました。
それを聞いた董憲が郯を出て蘭陵を包囲します。
 
東漢の虎牙大将軍・蓋延と平狄将軍山陽の人龐萌が楚(『資治通鑑』胡三省注によると、この「楚」は彭城を指します)におり、賁休の救援に行く許可を請いましたが、光武帝は二人を戒めてこう言いました「直接、郯に向かって撃てば(直往擣郯)、蘭陵(の包囲)は自ずから解ける。」
 
しかし蓋延等は蘭陵城が危いと判断しました。蓋延が龐萌を率いて蘭陵救援に向かいます。
董憲は東漢軍を迎撃してわざと敗退しました。
蓋延等はその機に包囲を破って城に入りました。
 
翌日、董憲が大軍を出して包囲しました。
懼れた蓋延等は急いで包囲を突破し、走って郯攻撃に向かいました。
光武帝が蓋延等を譴責して言いました「先日、先に郯に向かうことを欲したのは、その不意を狙ったからだ(以其不意故耳)。今、既に奔走し、賊の計も既に確立しているのに(郯も守りを固めているのに)、どうして(蘭陵の)包囲を解けるだろう(囲豈可解乎)。」
蓋延等は郯に到着しましたが、やはり勝てませんでした。
逆に董憲が蘭陵を攻略して賁休は殺されました。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
八月戊午(初十日)光武帝が寿春を行幸しました。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀上』からです。
東漢の太中大夫徐惲が勝手に臨淮太守劉度を殺しました。
徐惲は罪に坐して誅されました。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
光武帝が揚武将軍南陽の人馬成に誅虜将軍南陽の人劉隆等三将軍を率いて会稽、丹陽、九江、六安四郡の兵を動員させ、李憲を攻撃させました。
 
九月、馬成等が舒で李憲を包囲しました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
王莽時代の末年、天下が混乱しましたが、臨淮大尹河南の人侯霸はその郡を保全しました。
光武帝が侯霸を招いて寿春で会い、尚書令に任命しました。
当時の朝廷には故典(古い典籍)がなく、旧臣もわずかしかいませんでした。
侯霸は故事に習熟しており、遺文を集めて記録し、前代の善政(優れた政策)法度を條奏(一つ一つ上奏すること)して施行しました。
 
尚、「臨淮大尹」は『後漢書伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝(巻二十六)』では「淮平大尹」となっています。『漢書地理志上』によると、王莽が「臨淮」を「淮平」に改名しました。
また、『後漢書光武帝紀上』の記述では、この頃、太中大夫徐惲が臨淮太守劉度を殺したため、罪に坐して誅殺されています(上述)
臨淮大尹侯霸が光武帝に招かれたため、劉度が代わりに臨淮太守になり、着任してすぐに殺されたのかもしれません。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
冬十月甲寅(初七日)、車駕が雒陽の皇宮に還りました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
隗囂が馬援を送って公孫述を視察させました。
馬援は公孫述と同じ里閈(里閭。郷里)だったため、かねてから仲がいい関係にありました(『資治通鑑』胡三省注によると、二人とも茂陵の人です)
馬援は蜀に入ったら平生(平時。いつも)と同じように公孫述と握手をして楽しく交流できると思っていました。しかし公孫述は陛衛(殿下を守る衛兵)を多数並べて馬援を招き入れ、交拝の礼(双方が拝礼する儀礼の後、馬援を宮殿から出して館(宿舎)に入らせました。
公孫述は改めて馬援のために都布単衣(「都布」は布の名称です)と交譲冠(古代の冠の一種です)を作り、百官を宗廟の中に集めて旧交の位(旧友の席)を設けます。
その後、公孫述は鸞旗(鸞鳥を刺繍した旗)、旄騎(帝王が外出する時は、髪を束ねず散乱させたままにした騎兵が先導しました。これを「旄騎」、または「髦頭」「旄頭騎」といいます)とともに警蹕(道を清めて警備すること)して車を出し、宗廟に着くと磬折(腰を曲げること。恭敬を示します)して中に入りました。多数の礼饗官属儀礼や酒宴を担当する官属。または礼宴に参加した官属)が迎え入れます。
公孫述は馬援を封侯して大将軍の位に就けようとしました。
馬援の賓客が皆、喜んで蜀に留まることを望みましたが、馬援は諭してこう言いました「天下の雌雄はまだ定まっておらず、公孫は哺(口の中の食べ物)を吐いて国士を走り迎えることがなく(原文「不吐哺走迎国士」。西周周公は食事中でも天下の士が来たら食べ物を吐き捨てて迎えに行ったといわれています)、成敗を図っても、逆に辺幅(儀表。見かけ)を修飾した。これは偶人形(人形)のようなものだ。彼がどうして久しく天下の士を留めるに足るだろうか(此子何足久稽天下士乎)。」
馬援は公孫述に別れを告げて帰りました。
 
馬援が隗囂に言いました「子陽(公孫述の字)は井戸の底の蛙に過ぎません(井底蛙耳)。それなのに妄りに自分を尊大にしています。東方(雒陽。東漢に専意した方がいいでしょう。」
そこで隗囂は馬援に書を持たせて雒陽に送りました。
 
馬援は雒陽に着いてから長い間待たされました。中黄門(『資治通鑑』胡三省注によると、中黄門は宦者で少府に属します)がやっと招き入れた時、光武帝は宣徳殿南廡(廊屋。堂の周りの建物)におり、幘を被って坐っていました(「幘」は頭巾です。正装では冠を被ります)
光武帝は馬援を迎えて、笑って言いました「卿は二帝の間を遨遊(漫遊。往来)した。今、卿に会ったが、私を大いに恥じ入らせた(私が及ばないのではないかと思うと恥ずかしい。原文「今見卿使人大慙」)。」
馬援は頓首して謝意を述べ、こう言いました「当今の世は、君が臣を選ぶだけでなく、臣も君を選ぶものです。臣と公孫述は同県の出身で若い頃から交遊がありました(少相善)。そこで最近、臣が蜀に至りましたが、公孫述は陛戟(殿下に衛兵を並べること)してから臣を進ませました。今、臣は遠くから来ましたが、陛下はなぜ刺客姦人ではないと判断してそのように簡易なのですか(なぜ警戒せず、簡単に接見したのですか)。」
光武帝がまた笑って言いました「卿は刺客ではない。説客に過ぎない。」
馬援が言いました「天下が反覆して名字を盗む者(帝王を僭称する者)は数え切れないほどいます。しかし今、陛下の恢廓大度(寛宏な度量)が高祖と同符(同等。相当)であるのを見て、帝王には自ずから真(本物)がいることを知りました。」
 
[十八] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
東漢の太傅卓茂が死にました。
 
 
 
次回に続きます。