東漢時代21 光武帝(二十一) 垂恵攻略 29年(1)
己丑 29年
光武帝が来歙に符節を持たせ、馬援を隴右まで送らせました。
「馬援は拒蜀侯・国遊先と共に使者の任務を与えられた。国遊先が長安に至ったが、仇家に殺されてしまった。その弟が隗囂の雲旗将軍だったため、来歙は(隗囂や国遊先の弟の)怨恨を恐れて馬援と共に長安に還った。」
どちらの記述を見ても、誰がどこに行ったのかがよくわかりません。
馬援は東進を続けて雒陽の光武帝に謁見しました。
光武帝は来歙を答礼の使者に任命しましたが、国遊先が殺されたため、来歙は隗囂や国遊先の弟の怨恨を恐れて隗囂の近臣である馬援と共に西に向かいました。最後に「長安に還った」としているのは、「隴右に還った」の誤りかもしれません。
国遊先と周遊(周游)が同一人物かどうかは分かりません。
本文に戻ります。
隗囂は馬援と臥起(起居)を共にし、東方の事を問いました。
馬援が言いました「以前、朝廷に至った時、上(陛下。光武帝)は数十回引見し(『資治通鑑』胡三省注は『東観漢記』から引用して「十四回引見した」と解説しています)、接見する度に燕語(歓談)して夕(夜)から旦(朝)に至りました。才明勇略で他者が匹敵できる人ではありません(非人敵也)。しかも心を開いて誠を示し、隠すことがありません(無所隠伏)。闊達(度量が大きいこと)で大節を多とし(重視し)、高帝とほとんど同じです。経学を広く読み(経学博覧)、政事においては文辨(文辞が優れていること)で、前世で比べられる者はいません。」
隗囂が問いました「卿が思うに高帝と較べたらどうだ(卿謂何如高帝)?」
馬援が言いました「及びません(不如也)。高帝は『無可無不可(『論語』の言葉です。行動する前から可不可、善し悪しを決めないという意味です)』というものですが、今上(今の陛下。光武帝)は吏事(政務)を愛し、行動は節度に則り、しかも飲酒を好みません。」
隗囂は不快になって「卿の言の通りなら逆に勝っているのではないか」と言いました。
馬援は高帝と光武帝に対する評価で高帝が上としました。しかし人格的には光武帝の方が優れているようにも聞こえます。これは、高帝は度量が大きくて元から帝王の気質を持っていたのに対し、光武帝は努力によって天子になった勤勉の人である、という差を指摘しています。馬援にとっては、勤勉な光武帝よりも天性の帝王である高帝の方が上だったようです。
隗囂が不快になったのは、馬援の回答がはっきりしなかったからという原因が考えられますが、それ以上に、光武帝を褒め続ける馬援に対して反感を抱いたのだと思われます。隗囂も西方に割拠する英雄なので、表面上は光武帝に協力しながら実際には野心を抱いていても不思議ではありません。
この後、隗囂は徐々に東漢から離れ、最後は敵対することになります。
馬武が蘇茂と周建に敗れて奔走しました。王霸の営を通った時、大声で救援を求めます。
しかし王霸は「賊兵は盛んなので出れば必ず両敗する(王覇が援軍を出したら両軍とも敗れる)。自分で努力するだけだ(努力而已)」と言い、営門を閉じて塁壁を堅めました。
王覇の軍吏がそろって馬武を援けるように主張しましたが、王霸はこう言いました「蘇茂の兵は精鋭でその衆も多いから、我が吏士は心中で恐れている。また、捕虜(捕虜将軍・馬武)とわしは互いに頼りにしており(與吾相恃)、両軍が一つにならなければ失敗の道となる(此敗道也)。今、営を閉じて固く守り、援けないことを示せば、賊は必ず勝ちに乗じて軽率に進み、捕虜(馬武)も救援がなければ倍の力を出して戦うだろう(其戦自倍)。こうすれば蘇茂の衆が疲労し、我々がその疲弊を攻めれば(吾承其敝)、克つことができる。」
はたして蘇茂と周建は全軍を出して馬武を攻撃しました。両軍は長い時間、交戦します。
それを見て、王霸の軍中で数十人の壮士が断髪して戦いを請いました。そこで王霸は営塁の後門を開いて秘かに精騎を出し、蘇茂等の背後を襲わせました。
蘇茂と周建は前後に敵を受けて驚乱し、敗れて逃走します。
王霸と馬武はそれぞれの営に帰りました。
蘇茂と周建がまた兵を集めて戦いを挑みましたが、王霸は堅臥(兵を動かさないこと)して出撃せず、士卒を労って倡楽(歌舞・遊楽)を為しました。
蘇茂が営内に雨のように矢を放ち、王霸の前の酒樽に命中しましたが、王霸は安定して坐ったまま動きません。
軍吏が皆こう言いました「蘇茂は前日既に破れたので、今は容易に撃てます。」
王霸が言いました「それは違う(不然)。蘇茂は客兵(外地の兵)として遠くから来たので糧食が不足している。だからしばしば戦いを挑み、一時の勝利を求めているのだ。今、営を閉じて士を休ませるのは、『戦わずに人の兵を屈服させる(不戦而屈人兵)』というものである。」
蘇茂と周建は戦ができないため営(垂恵城を指すと思われます。あるいは、垂恵城外に営を構えていたのかもしれません)に引き還しました。
その夜、周建の兄の子・周誦が反して垂恵の城門を閉ざし、蘇茂等の入城を拒みました。
周建は道中で死に、蘇茂は下邳に奔って董憲と合流します。
劉紆は佼彊に奔りました。
こうして馬武と王覇が垂恵を攻略しました。
次回に続きます。