東漢時代22 光武帝(二十二) 彭寵の死 29年(2)

今回は東漢光武帝建武五年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』からです。
二月壬申(二十七日)光武帝が商(殷)の後代として章昭侯孔安を殷紹嘉公に改封しました。
 
西漢成帝綏和元年(前8年)孔子の子孫に当たる孔吉、または孔何斉が殷王室の祭祀を受け継ぐことになり、殷紹嘉侯に封じられました。その後、すぐに爵位が侯爵から公爵に改められます。
西漢平帝元始四年4年。王莽摂政時代です)、殷紹嘉公孔吉(または孔何斉)が宋公になりました。
王莽即位後の新始建国元年9年)、王莽が宋公孔弘を章昭侯に落としました。
今回、章昭侯孔安が西漢時代の殷紹嘉公に戻されました。
孔吉と孔何斉は親子の関係であることがはっきりしていますが、その後を継いだ孔弘と孔安についてはよくわかりません。
後漢書』の注は「孔安は孔吉の後裔」としか書いていません。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
彭寵の妻がしばしば悪夢を見たり、多数の怪変(怪異。異変)を見ました。卜筮や望気の者は皆、「兵が中から起きる」と言います。
彭寵は子后蘭卿が東漢の人質になってから帰ってきたため東漢光武帝建武二年26年参照)信用しておらず、兵を率いて外地に駐留させていました。内部に彭寵と親しい者がいなくなります。
 
ある日、彭寵が便室(休憩用の部屋)で斎戒しました。
彭寵が臥して眠りにつくと、蒼頭(奴隷)の子密等三人がその隙に寝床の上で彭寵を縛り、外の官吏に「大王は斎禁(斎戒)しているから、全ての官吏を休ませることにした(皆使吏休)」と告げました。
また、彭寵の命と偽って奴婢を縛り、それぞれ別の場所に置きました。
その後、彭寵の命と称してその妻を呼びました。部屋に入った妻が驚いて「奴(奴隷)が反した!」と言ったため、子密等は妻の頭をつかんで頰を打ちます。
彭寵が急いで叫びました「速く諸将軍のために辦装せよ(趣為諸将軍辦装)!」
「諸将軍」は子密等を指します。「辦装」は旅の仕度です。彭寵は子密達に家財を与えて逃走の機会を与え、命を助けられることを望みました。
 
二人の奴隷が妻を連れて正室に入り、宝物を奪いました。一人の奴隷が彭寵を見張ります。
彭寵が見張りの奴隷に言いました「まだ幼い汝は(原文「若小児」。「若」は「汝」です)わしが以前から愛してきた。今回は子密に迫劫(脅迫。強制)されただけだ。わしの縄を解いたら(解我縛)、娘の珠(彭珠)を汝の妻とし、家中の財物を全て汝に与えよう。」
小奴は心中で彭寵の縄を解こうと思いましたが、戸外を見ると子密が彭寵の話を聞いていたため解けませんでした。
 
金玉衣物が集められ、彭寵がいる場所で荷造りがされました。被馬(鞍等の馬具をつけた馬)も六頭準備されます。
子密等は彭寵の妻に二つの縑囊(絹の袋)を縫わせました。
 
昏夜の後(日が暮れてから)、子密等が彭寵の手を解き、城門の将軍に命令を告げる記(文書)を作らせました。そこにはこう書かれています「今、子密等を派遣して子后蘭卿がいる場所に到らせる。稽留(停留)してはならない。」
書ができると子密等は彭寵と妻の頭を斬り、妻が縫った囊(袋)の中に入れ、記(文書)を持って馳けました。城を出て雒陽の宮闕を訪ねます。
 
翌朝、閤門(宮殿の門)が開かないため、官属が壁を乗り越えて中に入りました。彭寵の死体を見つけて驚き恐れます(首は子密等が持っていきました)
 
彭寵の尚書韓立等が共に彭寵の子彭午を王に立てましたが、国師(彭寵が置いた官です。『資治通鑑』胡三省注によると、王莽の制度を踏襲したようです)韓利が彭午の首を斬り、祭遵を訪ねて降りました。彭寵の宗族は皆殺しにされます。
こうして漁陽が平定されました。
 
光武帝は子密を不義侯に封じました。
資治通鑑』は権徳輿(唐代の政治家、文学者)の評価を載せています。
「伯通(彭寵の字)の叛命(謀反)も子密の戕君(君主殺害)も同じく乱に帰し(どちらも乱臣の行為であり)、その罪は隠すことができず、それぞれに法を行って王度(王の制度)を明らかに示すべきである。しかし逆に五等の爵を与え、しかもまた『不義』を侯名とした。不義によって挙げるのなら侯にしてはならない。このように侯にしてもいいのなら、漢の爵位は善を勧めるに足らなくなってしまう。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
光武帝が扶風の人郭伋を漁陽太守に任命しました。彭寵の代わりです。
郭伋は離乱(離散混乱)の後を受け継ぎ、民を養って兵を訓練し、威信を開示(顕示。広く示すこと)しました。そのおかげで盗賊が銷散(消散)し、匈奴が遠迹(遠くに離れること)し、在職した五年間で戸口が倍増しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
光武帝が光禄大夫樊宏に命じ、符節を持って上谷の耿況を迎えさせました。
光武帝は耿況に「辺郡は寒苦なので久しく住居するに足らない」と告げます。
耿況が京師に至ると光武帝は甲第(上等の邸宅)を下賜し、奉朝請(春と秋の朝会に参加する特権)を与えて牟平侯に封じました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
大司馬呉漢が建威大将軍耿弇と漢忠将軍王常を率いて平原で富平、獲索の賊を撃ち、大破しました。余党を追討して勃海に至ります。投降した者は四万余人に及びました。
光武帝はこれを機に詔を発し、耿弇に二将軍を率いて張歩を討伐させました。
後漢書耿弇列伝(巻十九)』によると、二将軍は騎都尉劉歆と太山(泰山)太守陳俊です。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀上』からです。
三月癸未、広陽王劉良(光武帝の叔父)を趙王に遷し、国に就かせました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
東漢の平敵将軍(または「平狄将軍」)龐萌は遜順(謙遜和順)な性格だったため、光武帝が信愛して常に「六尺の孤(幼い孤児)を託し、百里の命百里四方を治める命。諸侯に立てることを意味します)を寄せることができるのは、龐萌がそれである」と言って称賛しました。
 
この頃、光武帝が龐萌に命じて蓋延と共に董憲を撃たせました。
ところが蓋延だけに詔書が下されて龐萌には及びませんでした。龐萌は蓋延が自分を讒言したと思って疑心を抱き、ついに反して蓋延軍を襲います。
龐萌は蓋延を破って董憲と連合し、自ら東平王と号して桃郷の北に駐屯しました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、『東観漢記』と『続漢書(司馬彪)には「龐萌が蓋延を攻めた。蓋延がこれと戦って破った。詔書が蓋延を慰労した」と書かれています。
後漢書呉蓋陳臧列伝(巻十八)』には「龐萌が反し、楚郡太守を攻めて殺した(下述します)。軍を率いて蓋延を襲い破った。蓋延は逃走して北の泗水を渡り、舟楫や津梁を破壊して何とか免れられた(僅而得免)」とあり、『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
 
本文に戻ります。
龐萌の謀反を聞いた光武帝は激怒しました。
自ら龐萌討伐の指揮をとり、諸将に書を与えてこう告げます「わしはかつて龐萌を社稷の臣とみなした。将軍がその言を笑わないはずがない(将軍得無笑其言乎)。老賊は族誅に当たる。それぞれ兵馬を磨き(厲兵馬)、睢陽に集結せよ!」
 
龐萌は彭城を攻めて破り、楚郡太守孫萌を殺そうとしました。
すると郡吏の劉平が太守の身の上に伏せて号泣し、代わりに死ぬことを請いました。劉平は体に七つの傷を負います。
龐萌は劉平の義心に感じて太守を放ちました。
太守は既に(気が)絶えていましたが、再び蘇生しました。喉が渇いたため飲物を求めると、劉平は傷口から血を流して飲ませました。
 
これは『資治通鑑』の記述です
上述の『後漢書呉蓋陳臧列伝(巻十八)』では「龐萌が楚郡太守を攻めて殺した(攻殺楚郡太守)」と書いており、『後漢書光武帝紀上』も「平狄将軍龐萌が反し、楚郡太守孫萌を殺して東の董憲に附いた」としていますが、『資治通鑑』ではこのように生き返っています。
後漢書劉趙淳于江劉周趙伝(巻三十九)』に詳細が書かれています。
平狄将軍龐萌が彭城で反し、郡守孫萌を攻めて敗りました。劉平はこの時、郡吏になっており、白刃を冒して孫萌の身の上に伏しました。七つの傷を負い、困頓疲労困憊)してどうすればいいか分からなくなり、号泣して「この身をもって府君(太守)に代わることを願う」と求めます。
賊は武器を収めて手を止め、「これは義士である。殺してはならない(勿殺)」と言って兵を解きました。
孫萌は傷がひどかったため気絶しましたが、暫くして蘇生し、喉が渇いたため飲物を求めました。劉平は自分の傷から血を流して飲ませます。
孫萌は数日後に死にました。劉平は自分の傷を包んでから孫萌の喪(死体)を抱えて本県(故郷の県)まで運びました。」
このように、「列伝」を見ると孫萌は一時は息を吹き返したものの結局死亡したことが分かります。
 
また、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では「楚郡太守孫萌」を「楚相孫萌」と書いています。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従っています。
 
 
 
次回に続きます。