東漢時代23 光武帝(二十三) 班彪の諫言 29年(3)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
岑彭が夷陵を攻めて攻略しました。田戎は逃亡して蜀に入ります。田戎の妻子や士衆数万人が捕えられました。
公孫述は田戎を翼江王に封じました。
 
岑彭が蜀討伐を謀りましたが、長江両岸は食糧が少なく(夾川穀少)、水の勢いがはげしいため水運も困難でした(水険難漕)
そこで威虜将軍馮駿を江州に、都尉田鴻を夷陵に、領軍李玄を夷道に留めて駐軍させ、岑彭自身は兵を率いて還り、津郷に駐屯して荊州の要会(要衝)に当たりました。
また、諸蛮夷を諭して投降を誘い、帰順した君長には上奏して賞賜を与えること(または「封侯すること」)を告げました(喩告諸蛮夷降者奏封其君長)
 
後漢書光武帝紀上』は「光武帝征南大将軍岑彭に二将軍を率いて津郷で田戎を討伐させ、これを大破した」と書いていますが、『後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』には「光武帝が岑彭と傅俊に南の田戎を撃たせて大破した。夷陵を攻略し、追撃して秭帰に至った。田戎は数十騎と共に逃亡して蜀に入り、岑彭がその妻子や士衆数万人を全て獲た」とあります。
光武帝紀上』の「岑彭が二将軍を率いた(岑彭率二将軍)」という記述は誤りで、岑彭と傅俊の二人が田戎を撃ったようです。
また、『光武帝紀上』の注によると津郷は江陵県の東にあったので、夷陵の東南に位置します。秭帰は夷陵の西です。田戎は夷陵を出て東南の津郷で東漢軍を迎撃したものの、敗れたため夷陵を棄てて更に西に奔ったようです。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
夏四月、旱害と蝗害がありました。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
隗囂が班彪に問いました「かつて周が亡んで戦国が並争し、数世の後に定まった。従横(縦横)の事が今の世にも再び起きるということではないか(今からまた合従連衡の戦国時代になるのではないか)。それとも一人が天命を受けて復興するのだろうか(将承運迭興在於一人也)。」
班彪が言いました「周の廃興と漢は異なります(殊異)。昔、周は爵を五等し、諸侯が政事を行ったため(諸侯従政)、本根(王室)が微弱になってから、枝葉(諸侯)が強大になり、その結果、末流(晩期)には従横の事が起きたのです。これは勢数の然です(形勢と天命による必然の結果です)。漢は秦制を受け継ぎ、(周制を)改めて郡県を立てたので、主(天子)に専己専制。独断)の威があり、臣には百年の柄(長久の大権。世襲による権勢)がありませんでした。成帝に至ってから、外戚の権勢を借り(假借外家)、哀平が短祚(在位時間が短いこと)で、国嗣が三絶したため(成帝、哀帝、平帝の三代にわたって後嗣ができませんでした)、王氏が擅朝して(朝廷で専横して)、号位を窺うことができましたが、危は上から起こり、傷が下に及ばなかったので(漢の皇室が危難を招いただけで民が害されたわけではないので)、即真の後に(王莽が天子の位に即いてから)、天下で首を長くして嘆息しない者はいませんでした(原文「莫不引領而歎」。「引領」は「首を長くして期待する」という意味で、民が漢の治世を望んだことを指します)。その結果、十余年の間に中外が騷擾し、遠近が共に発し、假号(偽の名号)が雲合して皆が劉氏を称し、謀らなくても辞を同じにしました(皆が漢の復興を唱えました)。今の世は、雄桀(英雄豪傑)で州域を擁す者も皆、六国の世業の資(戦国時代の六国のような代々積み重ねた資本)がなく、しかも百姓が謳吟思仰しているので(百姓が漢の徳を歌い、思念敬慕しているので)、漢が必ず復興するのは明らかです(原文「已可知矣」。直訳すると「既に知ることができる」です)。」
 
隗囂が言いました「先生が言う周漢の形勢はその通りだ(生言周漢之勢可也)。しかしただ愚人が劉氏の姓号に習識していることを見て(民衆が劉氏の統治に慣れているのを見て)、漢が復興すると言うのは疏(完全ではないこと)であろう(疏矣)。昔、秦がその鹿(天下の比喩です)を失い、劉季劉邦西漢高帝)が逐ってそれを捕まえたが(逐而掎之)、当時の民も漢を知っていたのか(秦が滅んでから漢が天下を取ったが、当時の民は漢の存在を知らなかった。王莽が滅んだ今も、民が知らない新しい王朝が開かれてもいいのではないか)?」
班彪は『王命論』を著して風切(厳しく諫めて諭すこと)しました「昔、堯が舜に禅譲した時、こう言いました『天の暦数は爾躬(汝の身)にある。』舜もこれを禹に命じました(告げました)。稷契の代は皆、唐(堯舜)を輔佐しまたが、湯(商王成湯と西周武王)に至って天下を有しました。劉氏は堯の祚(帝位)を受け継ぎ、堯が火徳に拠ったため漢もそれを継承して、赤帝子の符がありました。よって鬼神に福饗(鬼神が祭祀を受け入れて福を与えること)されることになり、天下が帰往(帰順)するところとなったのです。これを元に言うなら(由是言之)、世局を変える基礎がなく(運世無本)、功徳が記録されていないのに(功徳不紀)、屈起(興起)してその位(帝王の地位)にいることができた者は見たことがありません。
俗人は高祖が布衣から興ったのを見ても、その理由に達しておらず(その理由を理解できず。原文「不達其故」)、ひどい場合は天下を逐鹿に喩え(天下を取ることを鹿を逐うことに喩え)、幸いにも(駆けるのが)速かったからこれを得た(幸捷而得之)と思っており、神器(帝位)には命があり、智力智慧と力)では求められないということを知りません。悲しいことです(悲夫)。これが世に多くの乱臣賊子が現れる原因です。
餓饉の流隸(流亡する卑賎な民)は道路で飢寒に苦しんでおり、彼等が願うのは一金に過ぎませんが、(その一金すら得られず)最後は溝壑(谷や川)で死んで屍が棄てられています(転死溝壑)。なぜでしょうか(何則)?貧窮にも命があるからです。天子の貴(尊貴な地位)、四海の富、神明の祚(帝位)に至っては、なおさらそれらを得て妄りに処す(その地位にいる)わけにはいきません(可得而妄処哉)。よって、たとえ災難に遭遇して(国の混乱に遭遇して。原文「遭罹阨会」)その権柄を盗み取り(竊権柄)、勇が韓信、英布のようで、強が項梁、項籍項羽のようで、成(成果。成功)が王莽のようだったとしても、最後は潤鑊(釜茹での刑)伏質(腰斬、斬首)、亨醢(「亨」は釜茹での刑、「醢」は死体を肉醤にされる刑です)分裂(分肢)の刑を受けることになります。幺麼(微小)で数子韓信、英布等)にも及ばないのに、天位に対して闇奸(陰謀による簒奪)しようと欲する者ならなおさらでしょう。
昔、陳嬰の母は陳嬰の家が世々貧賎だったため、富貴は不祥と考え、陳嬰が王になることを止めさせました(秦二世皇帝二年208年参照)。王陵の母は漢王が必ず天下を取ると知り、剣に伏して死ぬことで王陵を固勉しました(王陵の意志を堅固にさせて励ましました。秦王子嬰元年西楚覇王元年漢王元年206年参照)。匹婦(庶民の婦人)の明によってでも、なお事理の致(精緻。真髄)を推しはかり、禍福の機(要)を探ることで、宗祀を無窮に全うし(保ち)、策書(書籍。記録)を春秋史書。歴史)に垂らすことができます(歴史に功績を残すことができます)。大丈夫の事(事業)ならなおさらです。このようであるので、窮達(困窮と顕達)には命があり、吉凶は人によるのです(吉凶は人がどう行動するかで決まります)。陳嬰の母は廃(失敗の道理)を知り、王陵の母は興(興隆の道理)を知っていました。この二者を明らかにすれば(審此二者)、帝王の分(名分)が決します(誰が帝王に相応しいかが分かります)
そのうえ、高祖は寬明かつ仁恕で、人を知って善く任使(任用)しました。食事の時でも口から食べ物を吐き捨てて(当食吐哺)子房張良の策を受け入れ、足を洗うのを止めて(抜足揮洗)酈生(酈食其)の説に揖礼し、韓信を行陳(陣中)で挙げ、亡命中の陳平を収めたので、英雄が陳力(貢献。尽力)し、群策がことごとく挙げられました。これは高祖の大略であり、帝業を成した理由です。霊瑞符応に至っては、そのような事は非常に多数あります(甚衆)。だから淮陰韓信や留侯張良はこれを天授であって人力ではない(高帝が天子になったのは天命を授かったのであって人力のおかげではない)と言いました。英雄が誠に覚寤(覚悟。覚醒。道理を悟ること)を知り、超然と遠くを眺め(超然遠覧)、淵然(淵の底のように深いこと)と深くを認識し(淵然深識)、王陵、陳嬰の明分(本分を明確に把握すること)を収め、韓信、英布の覬覦(野心)を絶ち、逐鹿の瞽説(妄言)を拒み(距逐鹿之瞽説)、神器が天授されているかを明らかにし(審神器之有授)、望むべきではないことを貪ろうとせず(毋貪不可冀)、二母(陳嬰と王陵の母)に笑われることがなければ、福祚(福禄)を子孫に流し(伝え)、天禄(天が与えた福)が永終(長久)になるでしょう。」
結局、隗囂が班彪の諫言を聴かなかったため、班彪は隗囂を避けて河西に移りました。
 
河西の竇融は班彪を従事(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では将軍府および司隸、刺史、郡守に従事がいました)に任命し、とても礼重しました。
この後、班彪は竇融のために画策し、専心専意、漢に仕えるように勧めます。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代24 光武帝(二十四) 秦豊の死 29年(4)