東漢時代26 光武帝(二十六) 斉平定 29年(6)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。
 
[二十三(続き)]  張歩の大軍が臨菑大城の東に至ると、耿弇が光武帝に上書して言いました「臣は臨菑を占拠し、塹(堀)を深くして塁を高くしました。張歩は劇県から攻めて来たので疲労飢渴しています。(彼が)進むことを欲したら誘ってこれを攻めます。去ることを欲したら後を追ってこれを撃ちます。臣は営に依って戦い、精鋭(精気鋭気)を百倍にし、安逸によって疲労した敵を待ち(以逸待労)、実によって虚を撃つので(以実撃虚)、旬日の間(十日間)で張歩の首を獲ることができます。」
 
耿弇はまず菑水の辺に出ました。
資治通鑑』胡三省注によると、淄水は泰山莱蕪県原山の東北を源流とし、臨菑県の東を流れています。
 
耿弇はそこで重異に遭遇しました。
突騎が進攻を欲しましたが、耿弇は敵の先鋒を挫いたら張歩が敢えて進軍しなくなることを恐れ、わざと弱い姿を見せて敵の士気を盛んにさせることにしました。兵を率いて小城に帰り、城内で兵を整えます。
また、都尉劉歆と泰山太守陳俊を分けて城下で布陣させました。
 
張歩は士気が盛んになり、直接、耿弇の営を攻めて劉歆等と合戦しました。
耿弇は王宮の破壊された高台に登って城下を眺めており(『資治通鑑』胡三省注によると、臨菑は斉国の都だったため、斉王の宮殿があり、その中に破壊された台がありました)、劉歆等の鋒交(交戦)を見て、自ら精兵を率いて出撃しました。東城の下で張歩の陣を横から衝き、張歩軍を大破します。
飛矢が耿弇の股に命中しましたが、佩刀で矢を切断したため、左右で知る者はいませんでした。
耿弇は日が暮れてから兵を収めました。
 
翌朝、耿弇が再び兵を率いて出撃しました。
 
この時、光武帝は魯にいました。耿弇が張歩に攻撃されたと聞き、自ら救いに行きます。
光武帝が到着する前に陳俊が耿弇に言いました「劇虜(張歩)は兵が盛んです。暫く営を閉じて士を休め、上(陛下)が来るのを待つべきです。」
耿弇が言いました「乗輿(皇帝の車)がもうすぐ到着する。臣子は牛を撃ち、酒を濾過して(牛を殺し、酒を準備して。原文「撃牛釃酒」)百官を待つべきなのに、逆に賊虜を君父に送ろうと欲するのか(または「君父のために賊虜を残そうと欲するのか」。原文「反欲以賊虜遺君父邪」)。」
耿弇は兵を率いて大戦しました。
戦いは朝から黄昏に及び、耿弇軍がまた大勝します。殺傷した者は数え切れず、溝塹が全て死体で埋まりました。
 
耿弇は張歩が困窮して間もなく撤退すると判断し、あらかじめ左右両翼に伏兵を置いて待機させました。
人定の時(深夜)、果たして張歩が撤退を始めます。しかし伏兵が現れて激しく攻撃し(縦撃)、鉅昩水(『資治通鑑』胡三省注によると、鉅昩水は巨洋水、巨蔑水ともいいます)の辺まで追撃しました。前後八九十里に倒れた死体が連なります。
耿弇は輜重二千余輌を回収しました。
 
張歩は劇に還り、兄弟はそれぞれ兵を率いて分散しました。
 
数日後、車駕(皇帝の車)が臨菑に至り、光武帝自ら軍を労いました。群臣が大会(大集会、または大宴会)を開きます。
光武帝が耿弇に言いました「昔、韓信が歴下を破って開基し(基礎を開き)、今、将軍が祝阿を攻めて発迹(興起。功名を立てること)した。これは皆、斉の西界であり、(二人の)功は充分匹敵する(功足相方)。しかし韓信は既に降った者(斉王田広)を襲撃したが(西楚覇王四年漢王四年203年参照)、将軍は単独で勍敵(強敵)を抜いた。その功は韓信よりも難しい。
また、田横は酈生を亨したが(煮殺したが)、田横が降ると高帝は衛尉(酈商)に詔して仇とさせなかった(原文「不聴為仇」。高帝は酈商が田横に報復することを禁じました。西漢高帝五年202年参照)。張歩も以前、伏隆を殺したが東漢光武帝建武三年27年参照)、もしも張歩が命に帰しに来るのなら、わしは大司徒(伏湛)に詔してその怨を赦させよう。そうすれば事がまた韓信の時と)同じようになる。
将軍は以前、南陽にいる時にこの大策を建てた東漢光武帝建武三年27年の冬、耿弇が光武帝に従って舂陵に行き、自ら斉の平帝を請いました)。常に落落難合(計画が粗略、または大きすぎて実現が困難なこと)だと思っていたが、志がある者は、最後には事を成就してしまうものである。」
 
光武帝が劇に進み、耿弇が再び張歩を追撃しました。張歩は(劇を棄てて)平寿に奔ります。そこに蘇茂が一万余人を率いて救援に来ました。
蘇茂が張歩を責めて言いました「南陽の兵は精鋭で、延岑は戦を善くしましたが、耿弇が走らせました東漢光武帝建武三年27年、延岑が南陽を攻めて数城を得ましたが、耿弇に敗れて走りました)。大王はなぜすぐにその営を攻めたのですか?茂(私)を呼んだのに待てなかったのですか!」
張歩が言いました「非常に慚愧している(原文「負負」。『資治通鑑』胡三省注によると、この「負」は「慚愧」の意味で、「負負」と重ねているのは強調を表します)。言うことはない(無可言者)。」
 
光武帝は張歩と蘇茂に使者を送り、どちらかを斬って降った者は列侯に封じると告げました。
その結果、張歩が蘇茂を斬って耿弇の軍門を訪ね、肉袒して投降します。
耿弇は伝車で行在所(皇帝が駐屯している場所)に送り、自らは兵を率いて平寿城を占拠しました。
十二郡の旗鼓を立て、張歩の兵をそれぞれ故郷の郡旗の下に向かわせます(令歩兵各以郡人詣旗下)。張歩の衆はまだ十余万人おり、輜重も七千余輌ありました。耿弇ははこれらを全て解散して郷里に送り帰しました。
 
張歩の三人の弟もそれぞれ所在する地の獄に行き、自ら繋がれました。
光武帝は詔を発して全て赦し、張歩を安丘侯に封じ、妻子と共に雒陽に住ませました。
 
当時、琅邪がまだ平定されていませんでした。
光武帝は泰山太守陳俊を琅邪太守に遷しました。
陳俊が入境するとすぐに盗賊が全て解散しました。
 
耿弇が再び兵を率いて城陽に入り、五校の余党を降しました。
こうして斉地がことごとく平定されます。
耿弇は兵を整えて京師に凱旋しました(振旅還京師)
耿弇は将として四十六郡を平定し、三百城を屠し(皆殺しにし)、挫折したことがありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代27 光武帝(二十七) 馬援帰順 29年(7)