東漢時代27 光武帝(二十七) 馬援帰順 29年(7)

今回も東漢光武帝建武五年の続きです。
 
[二十四] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
東漢が初めて太学を立てました。
太学は士人のための学校です。『資治通鑑』胡三省注によると、洛陽城の旧開陽門外にあり、皇宮から八里離れていました。講堂の長さは十丈、広さは三丈ありました。
 
光武帝の車駕が皇宮に還り、太学を訪ねました。
古典に法り(稽式古典)、礼楽を修めて明らかにし(脩明礼楽)、文物が光彩を放って見るべきものがありました(原文「煥然文物可観矣」。ここでの「文物」は礼教等の制度を指すと思われます)
 
光武帝は博士弟子にそれぞれ差をつけて賞賜を与えました。
 
[二十五] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
十一月壬寅、大司徒伏湛が免官され、尚書令・侯霸が大司徒になりました。
 
侯霸は太原の人閔仲叔の名声を聞いて雒陽に招きました。
しかし閔仲叔が来ても侯霸は政事に言及せず、いたずらに辛苦を労うだけでした。
閔仲叔が恨んで言いました「嘉命を蒙ったばかりの時は喜びかつ懼れました(且喜且懼)。しかし今、明公に会ったら、喜懼が共に去りました。仲叔(私)は問うに足らないと思っているのでしょうか。それならば招くべきではありません(不当辟也)。招いたのに問わないのは、人才を失うことです(辟而不問是失人也)。」
閔仲叔は別れを告げて退出し、自分を弾劾する文書を提出して去りました(原文「投劾而去」。「投劾」は官員が辞任する手段の一つです)
 
[二十六] 『資治通鑑』からです。
以前、五原の人李興、隨昱(『資治通鑑』胡三省注によると、隨侯の後代です。また、杜伯の玄孫が晋の大夫になり、隨を食邑にしました。これを隨会(范会。士会)といいます)、朔方の人田颯、代郡の人石鮪、閔堪がそれぞれ挙兵して将軍を自称しました。
匈奴単于(呼都而尸道皋単于が使者を送って李興等と和親し、盧芳を漢の地に還らせて帝に立てようと欲しました(盧芳は既に匈奴によって漢帝に立てられていますが東漢光武帝建武元年・25年参照)、盧芳自身は匈奴にいます。今回、中原に帰して正式に漢帝に立てることにしました)
李興等は兵を率いて単于庭に至り、盧芳を迎えました。
 
十二月、盧芳や李興等が共に入塞しました。
盧芳は天子を自称して九原県(五原郡の県です)を都に定め、五原、朔方、雲中、定襄、雁門の五郡を奪い、守(郡守)(県令)を置きました。
この後、盧芳等は胡兵と共に北辺を侵して苦しめました。
 
[二十七] 『資治通鑑』からです。
馮異が関中を治めて約三年が経ちました(出入三歳)。上林に人が集まって都(都市)のように繁栄します。
ある人が光武帝に奏章(上奏文)を献上して言いました「馮異は威権が至重で、百姓が帰心しており、咸陽王を号しています。」
光武帝はこの奏章を馮異に示しました。
馮異は恐れて上書し、謝罪の辞を述べます。
光武帝は詔を発してこう応えました「将軍は国家に対して、義においては君臣となり、恩においては父子のようである。何を嫌い何を疑って懼意(恐れ)を抱く必要があるのか(何嫌何疑而有懼意)。」
 
[二十八] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
隗囂は自分の能力を誇って智謀を飾り、いつも自分を西伯西周文王)と比べていました。そこで、諸将と議して王を称そうとします。
しかし鄭興が言いました「昔、文王は天下を三分してその二を有しましたが、まだ殷商王朝に服事しました。武王は八百諸侯が謀らなくても同会(集合)したのに、なお兵を還して時を待ちました。高帝は征伐が累年(連年)に及びましたが、なお沛公として行師(用兵)しました。今、(隗囂の)令徳(美徳)は明らかですが、世に宗周の祚(天が周王朝に与えた福)がありません。威略が振るっていますが、まだ高祖の功がありません。それなのに未可の事(するべきではない事。できない事)を挙げようと欲したら、明らかに禍患を速めることになります(昭速禍患)。そのようにしてはならないのではありませんか(無乃不可乎)。」
隗囂はあきらめました。
 
後に隗囂は広く職位を置いて(大量の官員を任命して)自分の地位を尊高(尊貴高貴)にしました。
鄭興が言いました「中郎将、太中大夫、使持節官(皇帝の符節を持つ官員)は皆、王者の器(王者の権利)であり、人臣が制に当たるところではありません(人臣が制定することではありません)。実に対して益がなく、名において損なうことがあるのは、尊上の意(天子を尊ぶ本意)ではありません。」
隗囂はこれ(実益がなく名を損なうこと)を嫌って中止しました(病之而止)
 
当時、関中の将帥が光武帝にしばしば上書し、蜀を撃てる状況にあることを報告しました。
光武帝はこれらの書を隗囂に示し、蜀を撃たせて信義を証明させることにしました。
しかし隗囂は上書して、「三輔は単弱(孤立して弱小)であり、劉文伯(盧芳が劉文伯を自称しています)が辺境にいるので、まだ蜀を謀るのは相応しくない」と盛んに述べました。
光武帝は隗囂が両端を持つことを欲しており(双方と関係を保とうとしており)、天下統一を願っていないと知り、少しずつ礼を削って君臣の儀を正しました(今までは隗囂に送る書等で対等な国に対する礼を用いてきましたが、今後は君主が臣下に対する礼を用いることにしました)
 
隗囂が馬援や来歙と仲が善かったため、光武帝は頻繁に来歙や馬援を使者として往来させ、隗囂に入朝を勧めました。入朝したら重爵を与えることを約束します。
隗囂も立て続けに使者を送りましたが、深く謙譲の辞を使って(深持謙辞)「功徳が無いので四方が平定するのを待って閭里に退伏します(故郷で隠居します)」と伝えました(入朝を辞退しました)
 
光武帝はまた来歙を送って隗囂の子を入侍させるように説得しました。
隗囂は劉永も彭寵も破れて滅亡したと聞いていたため、長子隗恂を来歙に従わせて宮闕に送りました。
光武帝は隗恂を胡騎校尉に任命し、鐫羌侯に封じました。
資治通鑑』胡三省注によると、胡騎校尉は西漢武帝が置きました。秩二千石です。
 
隗恂が雒陽に行くことになった時、鄭興も隗恂について東に向かい、故郷に帰って父母の葬儀を行うことを請いました。『後漢書鄭范陳賈張列伝(巻三十六)』によると、鄭興は河南開封の人です。
隗囂は鄭興の帰郷に同意せず、その舍(住居)を遷して秩礼(秩禄と礼遇)を増やしました。
すると鄭興は隗囂に会いに行ってこう言いました「今、父母がまだ埋葬されていないので、引退を乞いました(乞骸骨)。もしも秩を増やして舍を移されたために途中で考えを変えて留まったら(中更停留)、親を餌にしたことになります(親を利用して厚遇を求めたことになります)。これは無礼の甚だしいものであり、将軍はどうしてこのような者を用いるのでしょうか。妻子を留め、一人で帰って埋葬することを願います。将軍はまた何を猜疑するのでしょうか。」
隗囂は鄭興と妻子を共に東に向かわせました。
 
馬援も家属を連れて隗恂に従い、雒陽に帰順しました。馬援に従う賓客が非常に多かったため、上林苑内での屯田の許可を求めます。
光武帝はこれに同意しました。
 
後漢書馬援列伝(巻二十四)』によると、馬援は雒陽に移って数カ月が経っても光武帝から職任(官職任務)を与えられませんでした。馬援は三輔の地が広くて土が肥沃なうえ、自分が率いてきた賓客がとても多かったため、上書して上林苑内での屯田を求め、光武帝に許可されました。
 
隗囂の将王元は天下の成敗がまだわからないと判断し、内事(中原の東漢に仕えること)に専心することを願わず、隗囂にこう言いました「昔、更始が西に都を建てると、四方が響応して天下が喁喁(元は魚が上を向いて口を開く様子ですが、人々が恭順するという意味で使われます)とし、これを太平と言いました。しかし一旦に壊敗すると、将軍(隗囂)は危うく身を置く場所もなくなりました。今、南には子陽(公孫述)がおり、北には文伯(盧芳)がおり、江湖海岱渤海から泰山に至る一帯。または山海各地)の王公は十数人もいます。それなのに儒生(鄭興や班彪等)の説を牽いて(採用して)千乗の基(諸侯、大国の基礎)を棄て、危国(危険な国)に羈旅(寄居。頼ること)して万全を求めるのは、転覆した車の軌跡をたどる(循覆車之軌)のと同じです。今の天水は完富(富裕)で士馬も最強なので、元(私)は一丸泥(少数の兵力)をもって大王のために東の函谷関を封じることを請います。これは万世における一時の好機です(万世一時也)。もしも計がそこに及ばないのなら(函谷関に兵を出す計を用いないのなら)、暫く士馬を畜養(養うこと)し、険阻な地形に拠って自らを守り(拠隘自守)、長期持久して(曠日持久)四方の変を待つべきです。そうすれば、王位を図って成功せず敗れたとしても、なお覇を称えるには足ります(図王不成其敝猶足以霸)。重要なのは、魚は淵から脱してはならず、神龍が勢を失ったら蚯蚓(みみず)と同じであるということです。」
隗囂は心中で王元の計に納得したため、既に自分の子を人質にして東漢に送っていましたが、険阨な地形にたよって一方(一国)専制することを欲しました。
 
申屠剛が隗囂を諫めて言いました「愚(私)が聞いたところでは、人が帰す者に天が(福を)与え、人が叛す者は天に棄てられる(人所帰者天所與,人所畔者天所去)といいます。本朝光武帝は誠に天が福したところであり、人力によるものではありません。今、璽書詔書がしばしば到り、国を委ねて信を帰し(特に信頼し)、将軍と吉凶を共にしようと欲しています。布衣(庶民)の交わりでも没身(終生)に渡って然諾(許諾)したことを裏切らないという信義があるので、万乗の者ならなおさらです。今、何を畏れ何を利として(漢に従うことに対して何を畏れ、蜀に従うことに対して何の利があると考えて)、このように久しく疑って(躊躇して)いるのでしょうか。突然、非常の変があったら、上は忠孝に背き、下は当世に慚愧することになります。まだ至っていない(実現していない)豫言(予言)は元々常に虚のものです(実態がないものです)。しかし事が既に至ったら、全てが間に合わなくなります。よって忠言至諫を行い、それが用いられることを望みます。誠に愚老の言を反覆(熟考)することを願います。」
隗囂は申屠剛の諫言を聴き入れませんでした。
この後、游士や長者が隗囂から離れていくようになります。
 
 
 
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東漢時代28 光武帝(二十八) 周党 29年(8)