東漢時代30 光武帝(三十) 隗囂離反 30年(2)

今回は東漢光武帝建武六年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
馮異が長安から雒陽に還って入朝しました。
光武帝が公卿に言いました「彼はわしが起兵(挙兵)した時の主簿だ(馮異は光武帝が挙兵して潁川を攻略した時に投降し、主簿に任命されました。新王莽地皇四年玄漢劉玄更始元年23年参照)。わしのために荊や棘の道を切り開いて(披荊棘)関中を定めた。」
謁見が終わると珍宝と銭帛を下賜し、詔を発してこう言いました「倉卒(緊迫した時)の蕪蔞亭での豆粥と虖沱河での麦飯に対して(どちらも玄漢劉玄更始二年24年参照)、久しく厚意(厚情)に報いなかった。」
馮異が稽首して謝辞を述べました「臣が聞くには、管仲桓公にこう言いました『君桓公が鉤を射られた事を忘れず、臣が檻車を忘れないことを願います。』斉国はこれに頼りました(これによって覇を称えることができました)。臣も今また国家(天子)が河北の難を忘れないことを願います。小臣は巾車の恩を忘れることがありません(馮異は巾車郷で捕えられて光武帝に帰順しました)。」
 
馮異は雒陽に十余日滞在しました。
その後、光武帝が馮異に命じて妻子と共に西に還らせました。

[] 『資治通鑑』からです。
申屠剛と杜林が隗囂から離れて光武帝に帰順しました。
光武帝は二人とも侍御史に任命しました。
また、昨年、河南に来た鄭興を太中大夫にしました。
 
後漢書申屠剛鮑永郅惲列伝(巻二十九)』には、光武帝建武七年(翌年)に「詔書によって申屠剛を招いた詔書徵剛)」と書かれています。
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「翌年は隗囂が公孫述の臣になるので、詔書の必要がない詔書は臣民に対して下されます。敵対勢力に対して詔書を発することはありません)(申屠剛の帰順は)この年の事とするべきである(当在此年)」と解説しています。
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月、公孫述が田戎を江関から出させました。田戎の故衆(旧部下)を招いて荊州を取ろうとします。しかし田戎は荊州を攻略できませんでした。
 
光武帝が隗囂に詔を下し、天水から蜀を討伐させようとしました。
しかし隗囂は上書してこう言いました「白水(『資治通鑑』胡三省注によると、白水県の関の名です)が険阻で桟閣(桟道。崖に造られた道です)が敗絶(破損断絶)しています。また、公孫述の性は厳酷で、上下が互いに嫌っているので(上下相患)、その罪悪が孰著(熟著。顕著)になるのを待って攻めるべきです。これが大呼響応の勢(形勢)です。」
「大呼響応の勢」について『資治通鑑』胡三省注がこう書いています「人が大呼したら響いて必ず応じる。ここでは、公孫述の上下が乖離するのを待ってから攻めれば、必ず内応する者が現れると言っている。」
 
光武帝は隗囂を用いることができないと知り、討伐を謀りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
公孫述が将任満を派遣して南郡を侵しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏四月丙子(初八日)光武帝長安行幸(『資治通鑑』胡三省注によると、長安は雒陽の西九百五十里に位置します)、初めて長安の高廟を拝謁しました(今までは雒陽の高廟を祀っていました)
その後、十一園陵西漢歴代帝王の陵墓)で祭祀を行いました。
後漢書光武帝紀下』の注が十一陵を紹介しています。高祖長陵、恵帝安陵、文帝霸陵、景帝陽陵、武帝茂陵、昭帝平陵、宣帝杜陵、元帝渭陵、成帝延陵、哀帝義陵、平帝康陵です。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝が建威大将軍・耿弇、虎牙大将軍・蓋延等七将軍を派遣し、隴道から蜀(公孫述)を討たせることにしました。その前に、中郎将来歙に璽書詔書を持たせ、隗囂に諭旨(皇帝の命令)を与えに行かせました(隗囂に公孫述遠征の兵を出させました)
しかし隗囂はまた多数の疑故(疑惑や困難等を理由にした口実)を設け、久しくしても決断しません(冘豫不決)
来歙が怒って隗囂を問い正し、こう言いました「国家(天子)は君が臧否(善悪。得失)を知っており、廃興に通暁していると判断したから、手書によって心意を現した(暢意)。足下は忠誠を推し、すでに伯春(隗囂の子隗恂の字)を派遣して委質(忠誠を誓うこと)したのに、逆に佞惑の言を用いることを欲して、族滅の計を為すのか!」
来歙が前に進んで隗囂を刺そうとしました。
隗囂は立ちあがって(朝堂の中に)入り、兵を指揮して来歙を殺そうとします。
来歙はゆっくり符節を持ち、車に乗って去りました。
 
隗囂が牛邯に兵を率いて来歙を包囲させようとしました。
しかし隗囂の将王遵が諫めて言いました「君叔(来歙の字)は単車で遠方の使者になりましたが、陛下光武帝の外兄です(『資治通鑑』胡三省注は来歙を「光武帝の姑(父の姉妹)」の子としています。しかし『後漢書李王鄧来列伝(巻十五)』では「光武帝の祖姑(祖父の姉妹)」の子です。その場合は光武帝より一世代上になります)。殺しても漢にとって損はありませんが、族滅が後に続くことになります(族滅を招くことになります。原文「隨以族滅」)。昔、宋が楚使を捕えたため、析骸易子の禍(人骨を薪の代わりに焼き、子を交換して食すこと。大飢饉の意味です)を招きました春秋時代、宋が楚の使者を殺したため、楚が宋を包囲し、飢餓に陥らせました)。小国でも辱しめてはならないのですから、万乗の王に対してならなおさらです。伯春を命を重んじるべきです(重以伯春之命哉)。」
 
来歙の為人は信義があって言行が違えることがなく、往来遊説した内容は全て確証できました(皆可按覆)。西州士大夫は皆、来歙を信じて尊重していたため、多くが来歙をとりなす発言をします。
そのおかげで来歙は危険から逃れて東に帰ることができました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
五月己未(二十三日)、車駕光武帝長安から雒陽に還りました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
隗囂がついに東漢に叛して兵を動員しました。王元に命じて隴坻を拠点にさせ、木を伐って道を塞がせます。
 
このように『資治通鑑』では来歙が東に帰還してから王元を隴坻に送っていますが、『後漢書隗囂公孫述列伝(巻十三)』にはこう書かれています「光武帝は)来歙に璽書を奉じて喩旨させた。しかし隗囂は疑い懼れたため、すぐに兵を整えて、王元に隴坻を拠点にさせ、木を伐って道を塞ぎ、来歙を殺そうとした。来歙は逃げて帰ることができた。(東漢)諸将が隗囂と戦ったが、大敗してそれぞれ退却した(下文)。」
王元が隴坻に兵を出したのは、来歙を殺すためだったようです。
 
以下、『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
隗囂が反して兵を出したため、東漢の諸将(蓋延等)が隗囂(王元軍)と隴坻で戦いましたが、大敗しました。それぞれ兵を率いて隴山を下ります。
隗囂が急追しましたが、馬武が精騎を選んで後拒(殿軍)になり、数千人を殺したため、東漢諸軍はその間に帰還できました。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀下』からです。
辛丑(この月に「辛丑」の日はありません)光武帝が詔を発しました「天水、隴西、安定、北地の吏人で隗囂のために詿誤した者(そそのかされて過ちを犯した者)および三輔で赤眉の難に遭い、不道の罪を犯した者(原文「犯法不道者」。『後漢書』の注によると、罪がない一家三人を殺したら不道とされました)は、殊死以下(死刑以下)を皆赦除(赦免)する。」
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
六月辛卯(二十四日)光武帝が詔を発しました「官を設けて吏を置くのは(張官置吏)、民のためである。しかし今、百姓が難に遭い、戸口が耗少(減少)しているのに、県官(国家。朝廷)の吏職(官職)が置かれている状況はまだ複雑繁多である(所置尚繁)。よって司隸と州牧に命じ、それぞれ管轄する地の実情を明らかにして(各実所部)、吏員を省減(削減)させる。県国で長吏を置くに足らず、并合(併合)できる場所は、大司徒、大司空の二府に報告せよ。」
こうして詳しい上奏が行われ、四百余県が合併されたり減らされました。吏職も減損(削減)されて十分の一になりました(十置其一)
 
[十五] 『後漢書光武帝紀下』からです。
代郡太守劉興が盧芳の将賈覧を高柳で撃ちましたが、戦没しました。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この夏、蝗害がありました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代31 光武帝(三十一) 馮異の進撃 30年(3)