東漢時代31 光武帝(三十一) 馮異の進撃 30年(3)

今回も東漢光武帝建武六年の続きです。
 
[十七] 『後漢書光武帝紀下』からです。
以前、楽浪の人王調が郡を占拠して東漢服従しませんでした。
秋、東漢が楽浪太守王遵を派遣して王調を撃たせると、郡吏が王調を殺して投降しました。
 
[十八] 『後漢書光武帝紀下』からです。
光武帝が前将軍李通に二将軍を率いて出撃させました。
李通は西城で公孫述と戦って破りました。
 
[十九] 『後漢書光武帝紀下』からです。
九月庚子(初四日)、楽浪で謀反大逆を犯した者でも、殊死已下(死刑以下の罪。恐らく死刑は含まれません)を赦しました(赦楽浪謀反大逆殊死已下)
 
[二十] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
丙寅晦、日食がありました。
執金吾朱浮が上書して言いました「昔、堯舜の盛(盛世)においても三考(三年ごとに官吏の功績を査定する制度です)を加え、大漢の興(興隆)においても功效(功労)を重ね(累功效)、吏は皆、積久(久しく累積すること。ここでは長い間、官位にいるという意味です)して、(官位が)長子長孫に及びました(『資治通鑑』胡三省注は例として「倉氏」「庫氏」を挙げています。どちらも官名が氏になりました)。当時の吏職(官吏)はどうしてことごとく治めることができ、論議の徒はどうして喧譁(喧噪。批難)しなかったのでしょう。恐らく、天地の功は倉卒(急ぐこと)にできず、艱難の業は日を重ねる(累日)必要があるからです。しかし最近は守宰(郡県の長)が頻繁に換易(交替)されており、新しい者を迎えて代わるために(迎新相代)道路で疲労しています(官吏の交代が頻繁なため、送迎のために道を奔走して疲労しています)。これ(官吏の状況)を考察するに(尋其)、視事(政務)の日が浅くてその職を昭見(明らかに示すこと)するには足らないのに、既に厳切(厳しい譴責)を加えています。その結果、人(官吏)は自分を保てなくなり、挙劾(検挙弾劾)に迫られ、刺譏(批難)を懼れるので、争って偽りで飾って虚誉を望むようになっています。これが日月失行の応(日食)を招いた原因です。物が突然成長したら必ず夭折し(夫物暴長者必夭折)、功がすぐに成ったら必ず速く壊れます(功卒成者必亟壊)。もしも長久の業を摧して(破壊して)速成の功を造ろうとするなら、陛下の福にはなりません。陛下が経年(一年。または数年)の外に意を遊ばせ、一世(三十年)後の治理を望み、天下の幸甚となることを願います。」
光武帝はこの言を採用しました。
この後、牧守の交代が大きく減らされました。
 
[二十一] 『後漢書光武帝紀下』からです。
冬十月丁丑、光武帝が詔を発しました「我が徳が薄く不明なため、寇賊が害を為し、強弱が侵しあい(彊弱相陵)、元元(民衆)が居場所を失っている。『詩(小雅十月之交)』にはこうある『日月が凶を告げ、その行(規則)を用いなくなる(善政が行われなかったら、日月が凶兆を告げて通常な運行をしなくなる。原文「日月告凶,不用其行」)。』(朕は)永くその咎を念じ、心中で慚愧して不安を抱いている(内疚於心)。よって、公卿に命じて賢良方正を各一人挙げさせる。百僚は並んで(全て)封事(密封した上書)を提出し、隠し事をしてはならない(無有隠諱)。有司は職を修め、法度を遵守することに務めよ。」
 
[二十二] 『後漢書光武帝紀下』からです。
十一月丁卯、光武帝が詔を発し、王莽時代の吏人(吏民)で奴婢に落とされたものの、旧法に応じていない者(法に則らず、不当に奴婢にされた者)は、全て免じて庶人にしました。
 
[二十三] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
十二月壬辰(二十七日)光武帝が大司空宋弘を罷免しました。
 
[二十四] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
癸巳(二十八日)光武帝が詔を発しました「最近は師旅(軍)がまだ解散せず、用度(経費)が不足していたため、十一の税(収入の十分の一を納める税制)を行っていた。しかし今は軍士が屯田し、食糧の蓄えが少しずつ溜まっている(糧儲差積)。よって郡国に命じて今から三十分の一を田租として徴収させ(收見田租三十税一)、旧制のようにする。」
今回施行されることになった「三十税一」というのは、西漢景帝時代の税率です西漢景帝前元年156年参照)
 
[二十五] 『資治通鑑』からです。
諸将が隴山を下ってから、光武帝が詔を発して耿弇を漆(県名)に、馮異を邑に、祭遵を汧に駐軍させました。呉漢等は引き上げて長安に駐屯します。
 
馮異が軍を率いて邑に向かっている間に、隗囂が勝ちに乗じて兵を出しました。王元と行巡(行が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、周に大行人という官があり、その後代が「行」を氏にしました。また、『後漢書光武帝紀下』の注によると、漢代に行祐という者がおり、趙相になりましたに二万余人の兵を率いて隴山を下りさせ、分かれて邑を攻略させます。
 
馮異が兵を駆けさせて先に邑を占拠しようとしました。すると諸将がこう言いました「虜兵は盛んなうえ勝ちに乗じているので、鋒を争うべきではありません。便地(形勢が有利な地)で止まって駐軍し、ゆっくり方略を考えるべきです。」
馮異が言いました「虜兵は境に臨んで小利に忸𢗗しており、深入を欲している(「忸𢗗は「慣れること」「前事を繰り返すこと」です。この文全体で「虜兵は国境で小利を得たので、勝ちに乗じて深入りを欲している」という意味になります)。もし(敵が)邑を得たら三輔が動揺する。『攻める者は足らず、守る者は余りある』というものだ(攻めるより守る方が有利だという意味です。原文「夫攻者不足,守者有余」。孫子の言葉が元になっています)。今、先に城を占拠するのは、安逸によって疲労した敵を待つためであり(以逸待労)、争うためではない(直接交戦するためではない)。」
馮異は秘かに城内に入ると、城門を閉じて旗鼓をしまいました。
 
馮異が入城したことを知らない行巡は城下に駆けました。
馮異が行巡の不意に乗じて、突然戦鼓を打ち、旗を立てて出撃します。
行巡の軍は驚乱奔走し、馮異がそれを追撃して大破しました。
 
後漢書光武帝紀下』はこう書いています。
「隗囂が将行巡を派遣して扶風を侵犯させた。征西大将軍馮異がこれを拒んで破った。」
資治通鑑』胡三省注および『中国歴史地図集(第二冊)』によると、邑は右扶風に属します。
 
資治通鑑』に戻ります。
祭遵も王元を汧で破りました。
 
東漢軍の勝利を見て、北地の諸豪長耿定等が全て隗囂に叛して降りました。
光武帝は詔を発して馮異を義渠に進軍させます。
 
馮異は盧芳の将賈覧と匈奴の奧鞬日逐王を破りました。
北地、上郡、安定も全て東漢に降りました。
 
 
 
次回に続きます。