東漢時代32 光武帝(三十二) 竇融 30年(4)
これより以前に竇融が弟の竇友を派遣して光武帝に上書しようとしました。その内容はこうです「臣は幸いにも先后の末属を託されることができ(『後漢書・竇融列伝(巻二十三)』によると、竇融の七世祖・董広国は孝文皇后(西漢文帝の皇后)の弟で、章武侯に封じられました)、累世二千石となり(代々二千石の官に就き)、臣もまた不相応にも将帥を経歴して(假歴将帥)、一隅(一地方)を守持(鎮守)しています。よって、劉鈞を派遣して肝膽(忠心)を口陳(口述)し(前年参照)、自ら内心を露わにして、長い間わずかな隠し事も無くしました(原文「自以底裏上露,長無纖介」。「底裏」は内心、「纖介」は些細な事です)。ところが璽書(詔書)は(竇融と)蜀・漢の二主による三分鼎足の権(権勢。形勢)や任囂、尉佗の謀を盛んに称しているので(前年、光武帝が竇融に送った詔書の内容です。竇融が分裂を望むならそうすればいいと言っています)、それを窺い見て(臣は)自ら痛傷(心痛)しています。臣融は無識ですが(見識がありませんが)、利害の際(時)、順逆の分(道理)は知っています(『資治通鑑』では「臣融雖無識無知,利害之際,順逆之分」ですが、『後漢書・竇融列伝』では「臣融雖無識,猶知利害之際,順逆之分」です。ここでは『後漢書』に従いました)。どうして真旧の主に背いて姦偽の人に仕え、忠貞の節を廃して傾覆(滅亡)の事を為し、已成の基(既に完成している基礎)を棄てて無冀の利(望みがない利益)を求めることがあるでしょうか。この三者は狂夫に問うても去就を知っています。どうして臣だけが別に心を用いる(動かす。二心を抱く)ことがあるでしょう(臣独何以用心)。よって、謹んで弟・友に闕を訪ねさせ、至誠を口陳します。」
竇友が高平まで来た時、ちょうど隗囂が反して道が通れなくなりました。
竇融は隗囂にも書を送ってこう伝えました「将軍は自ら厄会の際(災害が重なる時)、国家不利の時(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽の簒奪を指します)に遇いましたが、節を守って変わることなく(守節不回)、本朝の指示を仰ぎました(承事本朝)。融(私)等が高義に欣服(喜んで心服すること)し、将軍に従役することを願ったのは、正にそのためです(良為此也)。しかし忿悁(憤怒)の間に節を改めて考えを変え(改節易図)、成功を棄てて(原文「委成功」。「委」は「棄てる」の意味です)難就(成就が難しいこと)を造り、百年かけて累積したことを一朝にして破壊しました(百年累之一朝毀之)。惜しいことではありませんか(豈不惜乎)。恐らく執事者(執政する者。大臣)が功を貪るために謀を建てたので、このようになってしまったのでしょう。今、西州の地勢は局迫(狭窄)で、民兵も離散しているので、人を輔佐するのは容易ですが、自ら(国を)建てるのは困難です。もしも計が路を失ったのに帰ろうとせず、道を聞いてもまだ迷っているようでは、南の子陽(公孫述)に合流しないとしても、北の文伯(盧芳)に入るだけです(南の公孫述か北の盧芳と一つになるだけです。独立はできません)。虚交(実体のない交わり)に頼って強敵を軽視し(負虚交而易強禦)、遠い救援に頼って近くの敵(相手)を軽視しても(恃遠救而軽近敵)、その利は見えません。
兵を起こして以来、城郭が全て丘墟となり、生民(民衆)が溝壑(溝。川谷)に転じました(民が死んで溝壑に棄てられました)。幸いにも天運が少し還りましたが(天運が好転し始めていますが。原文「幸賴天運少還」)、将軍は再びその難を重ねています。これは積痾(長い病)を瘳(治癒)できなくさせ、幼孤(幼児・孤児)を再び流離させることなので、語るだけでも酸鼻を覚えます(言之可為酸鼻)。庸人(凡人)でも忍びないのですから、仁者ならなおさらでしょう。
融(私)が聞いたところでは、忠を為すのはとても容易ですが、宜(忠誠の程度、態度が適切なこと)を得るのは実に難しい(為忠甚易,得宜実難)といいます。人を憂いる様子が度を過ぎていたら、徳をもって怨を招くことになるので(憂人太過以徳取怨)、(臣が以上の)言を持って罪を獲ることになるのは理解しています。」
隗囂は竇融の諫言を聴きませんでした。
光武帝は竇融を深く嘉美します。
竇融はすぐに諸郡守と共に兵を指揮して金城に入り、隗囂の党に属す先零羌・封何等を撃って大破しました。
光武帝は竇融が信效(信義。信用を守って実際に行動すること)を顕著にしたため、ますます嘉しました。そこで、竇融の父の墳墓(『資治通鑑』胡三省注によると、竇融の祖父と父の墳墓は扶風にありました)を修築して太牢(牛・羊・豚各一頭の犠牲)で祀りました。
また、しばしば軽使を駆けさせて四方の珍羞(珍味)を贈りました。
武威太守・梁統は衆心が躊躇して迷うことを恐れ、人を送って張玄(隗囂の使者)を刺殺しました。
次回に続きます。