東漢時代33 光武帝(三十三) 匈奴 30年(5)
以前、馬援は隗囂が漢に対して二心を抱こうとしていると聞き、しばしば書を送って責譬(譴責して諭すこと)しました。しかし書を得た隗囂は更に怒りを増します(隗囂は馬援が東漢に帰順したため、元々怨怒していました)。
隗囂が兵を発して東漢に背くと、馬援が光武帝に上書しました「臣と隗囂は本来、誠に交友しており、初めて臣を東に派遣した時、臣にこう言いました『元々漢のためになることを欲していたから、足下に観察しに行ってほしい。汝の意が可であれば、専心することにしよう(馬援が観て問題ないようなら専心して東漢に仕えよう)。』臣は帰還してから赤心(誠心)によって報告し、誠に善に導くことを欲して、不義によって欺くことはできせんでした(非敢譎以非義)。ところが隗囂は自ら姦心を抱き、盗賊が家の主人を憎むように(原文「盗憎主人」。盗賊は警備が厳しい家の主人を憎みます。悪人が善人を逆恨みするという意味です)、怨毒の情を臣に帰しました。臣が発言しないことを欲したら上(陛下)に聞かせられないので(臣が詳しく説明しなかったら陛下に策を与えることができないので。原文「臣不欲言,則無以上聞」)、行在所(皇帝がいる場所)を訪ねて滅囂の術を極陳(尽力して述べること)できることを願います。」
馬援は隗囂の将・楊広にも書を送って隗囂を曉勧(諭して勧めること)させようとしましたが、楊広は答えませんでした。
書信の内容は別の場所で紹介します。
東漢時代 馬援の書
諸将は疑議がある度にいつも馬援に発言を請い、皆、とても馬援を敬重していました。
隗囂が上書して光武帝に謝罪し、こう言いました「吏民が『大兵がすぐに至る』と聞いて驚恐自救(自衛)し、臣囂はそれを禁止することができませんでした。兵に大利がありましたが(東漢軍に大勝しましたが)、敢えて臣子の節を廃すことはできず、自ら(兵の後を)追って還らせました(五月に東漢軍が敗れた時のことを指します)。昔、虞舜が父につかえて、大杖なら走り、小杖なら受けました(帝舜の父が舜を譴責する時、父が大杖を使ったら舜は逃げ隠れし、小杖を使ったら罰を受けました。大杖から逃げたのは父に罪を犯させないためです)。臣は不敏(聡明ではないこと)ですが、どうしてその義(道理)を忘れることがあるでしょう。今、臣の事は本朝にあります(朝廷の決定にかかっています)。死を賜ったら死に、刑を加えられたら刑を受けます。もし改めて心を洗うことができたら、死んで骨になっても不朽です(死んでも忠心は変わりません。原文「如更得洗心死骨不朽」)。」
しかし光武帝は隗恂を殺すのが忍びず、再び来歙を汧に派遣して隗囂に書を下賜しました「昔、柴将軍はこう言った『陛下(西漢高帝)は寬仁なので、諸侯で亡叛した者がいても、後に帰順したらいつも位号を戻して誅殺しなかった(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢高帝時代に柴武が韓王信に送った言葉です)。』今、手を束ねて再び恂の弟を闕庭に帰属させれば(隗恂の弟も人質として雒陽に送れば)、爵禄は全て獲得でき、浩大の福がある。わしは年が四十近くなり(吾年垂四十)、兵中(軍中)に十歳(十年)もいるので、浮語虚辞(中身のない虚言。巧言)を嫌う。欲しないのなら(隗恂の弟を送りたくないのなら)答える必要はない(即不欲勿報)。」
匈奴と盧芳が辺境を侵して止むことがありませんでした。
そこで漢はまた中郎将・韓統に報命させ、金幣を贈って旧好を通じさせようとしました。
この年、郡国の都尉官を廃しました。
また、東漢になって始めて列侯を自分の封国に赴かせました。
次回に続きます。