東漢時代33 光武帝(三十三) 匈奴 30年(5)

今回で東漢光武帝建武六年が終わります。
 
[二十七] 『資治通鑑』からです。
以前、馬援は隗囂が漢に対して二心を抱こうとしていると聞き、しばしば書を送って責譬(譴責して諭すこと)しました。しかし書を得た隗囂は更に怒りを増します(隗囂は馬援が東漢に帰順したため、元々怨怒していました)
隗囂が兵を発して東漢に背くと、馬援が光武帝に上書しました「臣と隗囂は本来、誠に交友しており、初めて臣を東に派遣した時、臣にこう言いました『元々漢のためになることを欲していたから、足下に観察しに行ってほしい。汝の意が可であれば、専心することにしよう(馬援が観て問題ないようなら専心して東漢に仕えよう)。』臣は帰還してから赤心(誠心)によって報告し、誠に善に導くことを欲して、不義によって欺くことはできせんでした(非敢譎以非義)。ところが隗囂は自ら姦心を抱き、盗賊が家の主人を憎むように(原文「盗憎主人」。盗賊は警備が厳しい家の主人を憎みます。悪人が善人を逆恨みするという意味です)、怨毒の情を臣に帰しました。臣が発言しないことを欲したら上(陛下)に聞かせられないので(臣が詳しく説明しなかったら陛下に策を与えることができないので。原文「臣不欲言,則無以上聞」)、行在所(皇帝がいる場所)を訪ねて滅囂の術を極陳(尽力して述べること)できることを願います。」
光武帝が馬援を招き(馬援は上林苑内で屯田していました)、馬援が謀画(策謀計画)を詳しく進言しました。
 
光武帝は隗囂の支党を離散させるため、馬援に突騎五千を率いて往来遊説させました。隗囂の将高峻、任禹等や下は羌豪に及ぶ者達にまで禍福を述べさせます。
資治通鑑』胡三省注は「説客は単車で使者として向かえば足りるが、光武帝は馬援に突騎五千を率いさせ、兵威を誇示して隴右諸将に示し、帰順を謀らせようとした」と解説しています。
 
馬援は隗囂の将楊広にも書を送って隗囂を曉勧(諭して勧めること)させようとしましたが、楊広は答えませんでした。
書信の内容は別の場所で紹介します。

東漢時代 馬援の書


諸将は疑議がある度にいつも馬援に発言を請い、皆、とても馬援を敬重していました。
 
[二十八] 『資治通鑑』からです。
隗囂が上書して光武帝に謝罪し、こう言いました「吏民が『大兵がすぐに至る』と聞いて驚恐自救(自衛)し、臣囂はそれを禁止することができませんでした。兵に大利がありましたが東漢軍に大勝しましたが)、敢えて臣子の節を廃すことはできず、自ら(兵の後を)追って還らせました(五月に東漢軍が敗れた時のことを指します)。昔、虞舜が父につかえて、大杖なら走り、小杖なら受けました(帝舜の父が舜を譴責する時、父が大杖を使ったら舜は逃げ隠れし、小杖を使ったら罰を受けました。大杖から逃げたのは父に罪を犯させないためです)。臣は不敏(聡明ではないこと)ですが、どうしてその義(道理)を忘れることがあるでしょう。今、臣の事は本朝にあります(朝廷の決定にかかっています)。死を賜ったら死に、刑を加えられたら刑を受けます。もし改めて心を洗うことができたら、死んで骨になっても不朽です(死んでも忠心は変わりません。原文「如更得洗心死骨不朽」)。」
 
東漢の有司(官員)が「隗囂の言は傲慢である」と考えて人質になっている子(隗恂)を誅殺するように請いました。
しかし光武帝は隗恂を殺すのが忍びず、再び来歙を汧に派遣して隗囂に書を下賜しました「昔、柴将軍はこう言った『陛下西漢高帝)は寬仁なので、諸侯で亡叛した者がいても、後に帰順したらいつも位号を戻して誅殺しなかった(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢高帝時代に柴武が韓王信に送った言葉です)。』今、手を束ねて再び恂の弟を闕庭に帰属させれば(隗恂の弟も人質として雒陽に送れば)、爵禄は全て獲得でき、浩大の福がある。わしは年が四十近くなり(吾年垂四十)、兵中(軍中)に十歳(十年)もいるので、浮語虚辞(中身のない虚言。巧言)を嫌う。欲しないのなら(隗恂の弟を送りたくないのなら)答える必要はない(即不欲勿報)。」
隗囂は光武帝が自分の詐(偽り)を見抜いていると知り、公孫述に使者を派遣して臣と称しました。
 
[二十九] 『資治通鑑』からです。
匈奴と盧芳が辺境を侵して止むことがありませんでした。
光武帝は帰徳侯(玄漢劉玄更始二年24年参照)を派遣して匈奴との旧好を回復させようとしました。
しかし単于(呼都而尸道皋単于は驕倨(驕慢傲慢)で、使者を送って光武帝の命に応えたものの、以前と同じように寇暴(侵略暴行)しました。
 
後漢書光武帝紀下』は『資治通鑑』と異なり、こう書いています「匈奴が使者を送って来献した。光武帝は)中郎将を派遣して報命させた(「報命」は使者として他国を訪問することです)。」
光武帝紀下』の注によると、中郎将は符節を持ち(擁節)、秩は比二千石でした。
 
この出来事は『後漢書南匈奴列伝(巻八十九)』に詳しく書かれています。
まず光武帝が帰徳侯劉颯を匈奴に派遣しました。これに応えて匈奴も使者を送って来献します。
そこで漢はまた中郎将韓統に報命させ、金幣を贈って旧好を通じさせようとしました。
しかし単于は驕踞で、自分を冒頓単于と比べており、使者に対する辞語が悖慢(傲慢無礼)でした。それでも光武帝は以前と同じように匈奴に接します。
かつては使命(皇帝の命を受けた使者)が常に往来していましたが、当時は匈奴がしばしば盧芳と共に北辺を侵すようになっていました。
 
[三十] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、郡国の都尉官を廃しました。
また、東漢になって始めて列侯を自分の封国に赴かせました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代34 光武帝(三十四) 鄭興の上書 31年(1)