東漢時代 馬援の書

馬援が隗囂の将楊広に書を送って隗囂に曉勧(諭して勧めること)させようとしました。

東漢時代33 光武帝(三十三) 匈奴 30年(5)

 
以下、『資治通鑑』から馬援の書の内容です。
「援(私)が窺い見るに(竊見)、四海は既に定まり、兆民(万民)が情を同じくしています(万民が漢に帰心しています)。しかし季孟(隗囂の字)(境界を)封鎖して背反しており(閉拒背畔)、天下の表的(標的)になっています。(私は)海内が切歯(憤怒)し、屠裂(殺害して死体を切り刻むこと)を思っている(願っている)のではないかと常に懼れているので、恋恋と(隗囂に)書を送り、惻隠の計(誠心による計。「惻隠」は困難に遭った人に同情するという意味です)を到らせました。ところが聞くところによると季孟は罪を援(私)に帰し、王游翁(『資治通鑑』胡三省注によると、游翁は王元の別字です。王元の本来の字は恵孟といい、二つの字があったようです)の諂邪の説を納れて、自ら函谷以西は足を挙げるだけで平定できる(挙足可定)と言っています。しかし今の形勢から観たら、果たしてどうでしょうか(竟何如邪)

(私)は最近、河内に至り、伯春(隗囂の子恂)を訪ねて慰問しました。その時、ちょうど西方から戻った彼(伯春)の奴(奴濮)吉に会いました。(吉が)言うには、(吉が西州に入った時)伯春の小弟仲舒が遠くで吉を眺め見たので、伯春に他否がないか問おうとしましたが(伯春の安否を問おうとしましたが)(仲舒は)話すこともできず、曉夕(朝から夜まで)号泣していました。また、(吉が)その家(隗囂の家)悲愁の状態を(私に)話しましたが、それは言葉にできないほどでした。怨讎とは、刺すことはできても毀滅することはできません(原文「怨讎可刺不可毀」。恐らく、怨讎を抱いたら、個人に対して報復することはできても、完全になくすことはできないという意味です)。援(私)はこれ(隗囂の家の悲愁を聞いて、知らず知らずに涙を流していました(不自知泣下也)。援(私)はかねてから季孟の孝愛が曾(曾参閔子騫孔子の弟子です)でも越えられないことを知っています。自分の親に対して孝の者が、どうして自分の子に対して慈(愛)を抱かないでしょう。三木(首枷、手枷、足枷。刑具)を抱いている子がいるのに、(隗囂は)跳梁妄作して自ら『分羹の事(羹(あつもの)を分けた故事。戦国時代、魏の楽羊が中山国を攻めたため、中山の国君は楽羊の子を殺して羹を作り、楽羊に送りました(東周威烈王十八年408年参照)。また、項羽劉邦の父を釜茹でにしようとした時、劉邦は「一杯の羹を分けてもらえれば幸いだ」と答えました(西楚覇王四年漢王四年203年参照)。)』と同じくするのでしょうか。

季孟は、平生から兵衆を擁すのは父母の国を保全して墳墓を完全なままにしておきたいからだと言っていました。また、士大夫を厚く遇したいだけだとも言っていました。しかし今、全うしたいと思っているもの(国土)が破亡されようとしており、完全を保ちたいと欲しているもの(墳墓)が傷毀されようとしており、厚遇したいと思っている者が逆に薄遇されようとしています(隗囂が道理に背いて滅んだら、隗囂に従った士大夫が薄遇されることになります)。季孟はかつて子陽(公孫述)を折愧(折辱。侮辱)してその爵を受けませんでしたが、今は態度を改めて共に陸陸(碌碌。凡庸無能な様子)とし、彼に帰順しに行こうとしています(『資治通鑑』は「往附之」ですが、『後漢書馬援列伝(巻二十四)』では「欲往附之」です)これでは顔を為すのが難しくなるでしょう(面目がなくなるでしょう。慚愧することになるでしょう。原文「将難為顔乎」)。もし(公孫述が)また重質によって(隗囂を)責めたら(隗囂を責めてまた人質を要求したら)、主はどこから子を得てこれを与えるのでしょうか(隗囂は誰を人質として送るのでしょうか。原文「当安従得子主給是哉」)。往時には子陽が(隗囂を)単独で王として待遇しようとしましたが、春卿(あなた。楊広)がこれを拒否しました。今、既に老に帰したのに(年老いたのに)、更に頭を低くして、小児曹(小児等)と同じ槽櫪(馬槽。馬の餌を置く入れ物)で食べ、怨家の朝(朝廷)に肩を並べて側身(肩身を狭くすること。不安で小さくなること)しようと欲するのですか。

今は国家東漢の朝廷)が春卿(あなた)に期待する意思が深いので、牛孺卿(孺卿は牛邯の字です)や諸耆老の大人(諸々の年長者)も使って共に季孟を説得するべきです。もし計画に従わなかったら、誠に率先して去るべきです(真可引領去矣)。先日、輿地図(地図)を開いて天下の郡国百六カ所を見ました。どうして区区とした二邦(『資治通鑑』胡三省注によると、隴西と天水を差します)をもって諸夏の百四に当たろうと欲するのでしょうか。春卿は季孟に仕えており、外には君臣の義があり、内には朋友の道があります。君臣という関係から言えば、元々諫争して当然です。朋友という関係から語るなら、切磋(ぶつかり合ってお互いを良くすること)があるべきです。成功しないと知りながらただ萎腇咋舌(「萎腇」は萎縮、柔弱の意味で、「咋舌」は恐れて言葉が出ないことです)し、(『資治通鑑』『後漢書馬援伝』とも「手」ですが、「叉手」の誤りではないかと思われます。「叉手」は手を胸の前で重ねて上下させる礼(拱手)、または腕を組んで手出しをしないことです)して族(族滅)に従う者がいるでしょうか。今に及んで計を成したとしても、まだ大善となりますが(殊尚善也)、これを過ぎたら少味(まずい食事)を欲することになります。しかも来君叔(君叔は来歙の字です)は天下の信士で朝廷が重んじていますが、その意は依依(恋々。捨てられない心情)としていて常に独りで西州(隗囂)のために発言しています。援(私)が思うに、朝廷は特にこの件において信を立てようと欲しており、約束に背くことは間違いなくありません(必不負約)。援(私)は久しく留まることができないので、速く返答を与えられることを願います(願急賜報)。」

結局、楊広は回答しませんでした。