東漢時代 馬援

東漢光武帝建武元年25年)東漢前期の名将馬援が登場しました。

東漢時代4 光武帝(四) 隗囂 竇融 25年(3)


今回は『後漢書馬援列伝(巻第二十四)』を元に馬援の生い立ちについて少し詳しく書きます。
 
馬援は字を文淵といい、扶風茂陵の人です。
その先祖趙奢が戦国時代に趙国の将になり、馬服君と号したため、子孫が馬を氏にしました。
西漢武帝の時代、馬援の先祖が二千石の官吏として邯鄲から遷されました。『後漢書』の注は「茂陵成懽里に遷った」としています。

馬援の曾祖父馬通は功績によって重合侯に封じられましたが、兄馬何羅の謀反西漢武帝後元元年

88年参照)に坐して誅殺されました。

そのため馬援の祖父と父の二世は顕官に就けませんでした。

後漢書』の注によると、曾祖父馬通は馬賓を生み、宣帝時代に郎の身分で符節を持ったため(以郎持節)、使君と号しました。使君は馬仲を生み、馬仲の官は玄武司馬に至りました。

馬仲が馬援を生みました。

馬援には三人の兄がいました。馬況、馬余、馬員といい、それぞれに才能があったため、王莽の時代に三人とも二千石になりました。
後漢書』の注によると、馬況の字は君平といい、河南太守になりました。馬余の字は聖卿といい、中塁校尉になりました。馬員の字は季主といい、増山連率になりました。
 
馬援は十二歳で父を失いました。
諸兄は幼い頃から大志を抱いていた馬援を奇異に思っていました。
馬援はかつて斉詩を教わりました(『後漢書』の注によると、潁川の蒲昌に師事しました)。しかし馬援の意(志)は章句を守ることができなかったため(詩の一章や一句にこだわる学問には志が向かなかったため。原文「意不能守章句」)、兄馬況に別れを告げて辺郡で田牧をすることを欲しました。
後漢書』の注は『東観漢記』を元に「馬況が家を出て河南太守になり、他の二人の兄も京師で官吏になったため、家用(家の経費)が不足した。そこで馬況に別れを告げて、辺郡で田牧をすることを欲した」と解説しています。しかし馬況が家の窮乏を救うこともなく長い間外にいたのだとしたら、馬援が馬況に別れを告げた(辞況)というのは不自然です。
 
馬況が馬援に言いました「汝の大才は晩くに成就するはずだ。良工は朴(加工していない木材)を人に見せることはない。暫くは好きなことをしていればいい。」
 
しかしちょうど馬況が死んだため、馬援は一年の喪に服し(行服期年)墓所から離れませんでした。
嫂を敬い、恭しく仕えて、冠を被らなければ(正装しなければ)(嫂の部屋)に入ることもありません。
 
後に郡督郵になり、囚人を司命府(司命は王莽が置いた官です)に送りました。
ところがこの時、囚人に重罪の者がいましたが、馬援はこれを哀れんで逃がしてしまいました。そのため北地に亡命します。
やがて大赦があったため、その地に留まって牧畜を始めました。多数の賓客が馬援に帰附し、役属が数百家になります。

後漢書』の注によると、馬援は北地を通って任氏の家で畜牧しました。馬援の祖父馬賓は元々天水に客居しており(北地も天水も涼州に属します)、父の馬仲も牧師令(畜牧を管理する官。恐らく辺境が任地だったのだと思われます)になり、当時、馬員も護苑使者(詳細はわかりません)を勤めていたため、故人(旧知)や賓客が北地に来た馬援を頼ったようです。

馬援は隴漢の間を転遊し、常に賓客にこう言いました「丈夫が志を立てたら、困窮したらますます堅強になり、老いたらますます壮健になるべきだ。」

その地で田牧を始めて数千頭の牛羊と数万斛の穀物を有すようになりましたが、感嘆して「財産を増やすことにおいて、貴いのは賑施(施し。救済)ができることだ。そうでなければ守銭虜に過ぎない」と言うと、財産を全て散じて兄弟や故旧(旧知)に分け与えました。自分自身は羊裘皮絝を身につけています。

 

王莽の末年、四方で兵が起きると、王莽の従弟にあたる衛将軍王林が広く雄俊の士を招きました。馬援や同県の原陟を召して掾に任命し、王莽に推挙します。王莽は原涉を鎮戎大尹に、馬援を新成大尹に任命しました。

しかし王莽が敗れたため、当時、増山連率だった馬援の兄馬員が馬援と共に郡を去り、再び涼州の地に逃げました(『後漢書』の注によると、王莽が天水を鎮戎に、漢中を新成に、上郡を増山に改名しました。大尹と連率は漢代の太守と同じです)

 
東漢の世祖光武帝が即位すると、馬員が先に洛陽を訪ねました。光武帝は馬員を再び郡に復帰させます(増山連率に戻しました)。後に馬員は官に就いたまま死にました。
馬援は西州に留まりました。
隗囂が馬援を甚だ敬重し、綏徳将軍に任命して共に籌策(策略。計策)を決するようになりました。