東漢時代34 光武帝(三十四) 鄭興の上書 31年(1)

今回は東漢光武帝建武七年です。二回に分けます。
 
辛卯 31
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
春正月丙申、光武帝が中都官や三輔郡国に詔を発し、繫囚(牢に繋がれた囚人)を釈放させました。殊死(死刑)以外の者は全てその罪を裁かないことにします。
また、見徒(服役している囚徒)は刑を免じて庶民にし、耐罪亡命の者(『後漢書光武帝紀下』の注によると、一年の刑を「罰作」といい、二年以上の刑を「耐」といいます。「耐罪亡命」は二年以上の刑を科されて逃亡した者です)は官吏が氏名を記録して刑を除きました(以文除之)
 
光武帝がまた詔を発しました「世が厚葬を徳とし、薄終を鄙(低劣)としているため、富者を奢僭(過度な奢侈)にさせ、貧者に単財(財を使い果たすこと)させて、法令ではこれを禁じることができず、礼義でも止めることができず、倉卒(非常事態)になって始めてその咎を知る(乱世になって、または盗掘に遭って、始めて厚葬の誤りを知る。原文「倉卒乃知其咎」)。よって天下に布告し、忠臣、孝子、慈兄、悌弟に薄葬送終の義を知らせる。」
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
二月辛巳、護漕都尉官を廃止しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
三月丁酉(初四日)光武帝が詔を発しました「今、国に衆軍(大軍)があり、しかも多くが精勇なので、当面は軽車、騎士、材官、楼船士および軍假吏を廃止するべきである。よって、還って民伍(民の立場)に復すことを命じる。」
こうして郡国の軽車、騎士、材官等を解散させて民に戻しました。
後漢書光武帝紀下』の注によると、西漢高帝が天下の郡国に命じて強弩を引ける者(能引関蹶張)、勇力があって武猛の者(材力武猛)を選ばせ、軽車、騎士、材官、楼船()にしました。通常は立秋の後に講肄課試(講習試験。選抜)が行われ、それぞれ定員数が決まっています。平地では車騎を、地形が険しい山地では材官を、水泉では楼船を用いました(材官は予備兵の意味もありますが、ここでは歩兵を指します)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
公孫述が隗囂を朔寧王に立てました。
資治通鑑』胡三省注によると、「朔寧」は「北辺を寧静(安寧)にする」という意味です。
 
隗囂は兵を往来させて公孫述を援護する姿勢を見せました(為之援勢)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
癸亥晦、日食がありました。
 
光武帝は正殿を避けて生活し(原文「避正殿」。天に対する謙虚な姿勢を見せるために正殿から離れて起居しました)、兵を休ませ、五日間にわたって政治を行いませんでした(謹慎しました)
 
光武帝が言いました「我が徳が薄いため災を招き、讁(譴責)が日月に現れた。戦慄恐懼して何も言うことがない(夫何言哉)。今、愆(過失)を念じてその咎が消えることを願う(庶消厥咎)。よって、有司に命じてそれぞれの職任を修め、法度を奉遵し、元元(民衆)を恵茲させる。百僚は各々封事(密封した上書)を提出し、避けることがあってはならない(無有所諱)。上書する者は『聖』と言ってはならない(上書で「聖」という文字を使ってはならない。日食があったため「聖」という文字を使うのは相応しくないと考えました)。」
 
太中大夫鄭興が上書しました「国に善政がなければ、謫(譴責)が日月に現れるものです(謫見日月)。要は人の心に順じ(因人之心)、人を選んで位にいさせる(適切な人選をして官位を与える。原文「択人処位」)ことにあります。今、公卿大夫の多くが漁陽太守郭伋を挙げて大司空に相応しいとしていますが、(陛下は)すぐに決定していません。道路では流言があり、皆が『朝廷は功臣を用いようと欲している』と言っていますが、功臣を用いたら人と位が釣り合わなくなります(原文「人位謬矣」。功臣が大臣の官職に相応しいとは限りません)。陛下が上は唐・虞(堯・舜)を師とし、下は斉・晋を観ることで、自分を屈して衆に従う徳を成し、群臣の譲善の功(優れた人物に官位を譲るという功徳)を成就させることを願います(『資治通鑑』では「願陛下屈己従衆,以済群臣譲善之功」ですが、『後漢書鄭范陳賈張列伝(巻三十六)』では「願陛下上師唐虞,下覧斉晋,以成屈己従衆之徳,以済群臣譲善之功」です。ここは『後漢書』に従いました)
頃年(近年)、日食の多くは晦(月の最後)にあり、時に先んじて(日と月が)合わさっているのは(通常、日食は朔日に起きます)全て月の運行が疾い(速い)からです。日は君の象(象徴)で、月は臣の象です。君が亢急(急迫)したら臣下が促迫(緊迫。切迫)し、そのため月の運行が疾くなります。今、陛下は高明ですが群臣は惶促(恐れて焦ること)しています。柔克の政に留思(留念。関心を抱くこと)し、『洪範』の法に垂意(注意。留意)するべきです。」
「柔克の政」というのは柔軟な態度で事を成就させる政治の姿です。『洪範』の法は『尚書洪範』の教えで、『洪範』に「高明柔克(柔克を高揚する)」という言葉があります。
光武帝は自ら勤勉に政事を行っており、厳急すぎて利を損なうこともしばしばありました(頗傷厳急)。鄭興が上奏文で光武帝の亢急(急迫)に言及したのはそのためです。
 
夏四月壬午(十九日)光武帝が詔を発しました「最近、繰り返し陰陽が錯乱して日月が互いに隠しあっている(陰陽錯謬日月薄食)。百姓に過(過失)があっても、予一人(皇帝の自称)にあるので(皇帝の責任なので。「百姓有過在予一人」)、天下に大赦する。公、卿、司隷、州牧は賢良・方正をそれぞれ一人挙げて公車(官署名)に派遣せよ。朕が覧試(接見試験)しよう。」
こうして大赦が行われました。
 
[六] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
五月戊戌(初五日)、前将軍李通を大司空に任命しました。
 
[七] 『後漢書光武帝紀下』からです。
甲寅21日)光武帝が吏人に詔を発しました。饑乱に遭ったり、青州や徐州の賊に身の自由を奪われたため、奴婢や下妻(妾)になった者は、その去就を自由に決めさせ(欲去留者恣聴之)、官吏が拘制(拘束)して還らせなかったら、人を売った者とみなして裁くことにしました(以売人法従事)
 
 
 
次回に続きます。