東漢時代35 光武帝(三十五) 陳元の上書 31年(2)

今回は東漢光武帝建武七年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
大司農江馮が上書して言いました「司隸校尉に三公を督察させるべきです。」
司空掾陳元(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽の厭難将軍陳欽の子です)が上書して言いました「臣が聞くに、臣を師とする者は帝であり、臣を賓客とする者は覇者である(師臣者帝,賓臣者霸)といいます。よって武王は太公呂尚を師とし、斉桓は夷吾管仲を仲父とし、近くでは高帝が相国の礼を優し(相国に対する礼を厚くし。『資治通鑑』胡三省注によると、相国は蕭何を指します。高帝は蕭何に「剣履上殿(剣を帯びて靴を履いたまま殿上に登ること)」「入朝不趨(入朝の際、小走りなる必要がないこと)」の特権を与えました。西漢高帝六年201年参照)、太宗(文帝)が宰輔の権を借りました(申屠嘉が文帝の寵臣鄧通を譴責した時、文帝は人を送って申屠嘉に赦しを請いました西漢文帝後二年162年参照)。これを「宰相から生殺の権限を借りた」と表現しています)。亡新王莽に及ぶと、漢の中衰に遭い、(王莽が)国柄を専操(専断)して天下を偸み(盗み)ましたが、(王莽は)自分を例にしたため(大臣の身で国を奪ったことを前例としたため。「況己自喩」)、群臣を信用せず、公輔の任を奪い、宰相の威を損ない、刺挙(検挙)を明とし、激訐(他者の隠し事や過失を暴露して譴責すること)を直とし、ひどい場合は陪僕(奴僕)がその君長を告発し、子弟がその父兄の変を告訴しました。罔(網)が緊密で法が厳しく(罔密法峻)、大臣は手足を置く場所もなくなりましたが、それでも董忠の謀(新王莽地皇四年玄漢劉玄更始元年23年参照)を禁じることができず、その身は世人の殺戮に遭いました(身為世戮)。今は四方がまだ混乱しており(尚擾)、天下が一つになっておらず、百姓が観聴して皆、耳目を張っています。陛下は文西周文王と武王)聖典を修め、祖宗の遺徳を襲い(受け継ぎ)下士に対して心を労し下士に関心を持ち。原文「労心下士」)、節を屈して(腰を低くして)賢人を待遇するべきであり、誠に有司を使って公輔の名(三公の名声と実態があっているかどうか)を監察させるべきではありません。」
光武帝は陳元の意見に従いました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
酒泉太守竺曾の弟が怨恨に報いるために人を殺しました。
資治通鑑』胡三省注は『東観漢記』から引用して「竺曾の弟竺嬰が怨みに報い、属国侯王胤等を殺した」と書いています。
 
竺曾は弟が人を殺したため、自ら官を辞して郡を去りました。
竇融は承制(皇帝の替わりに命令を出すこと)によって竺曾を武鋒将軍に任命し、代わりに敦煌太守辛肜を酒泉太守にしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この夏は雨水が続きました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』からです。
漢忠将軍王常を横野大将軍にしました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
秋、隗囂が歩騎三万を率いて安定を侵し、陰槃に至りました。
馮異が諸将を率いて隗囂を防ぎます。
隗囂は別将に命じて隴山を下らせ、汧で祭遵を攻めさせました。
しかし両路(馮異がいる陰槃と祭遵がいる汧)とも利がなかったため引き還しました。
 
後漢書光武帝紀下』は「隗囂が安定を犯した。征西大将軍・馮異と征虜将軍・祭遵が撃退した」と書いています。
 
資治通鑑』に戻ります。
光武帝が自ら隗囂を征討することにしました。まず、竇融に連絡して師期(出征の日程)を約束します。
しかし雨に遇って道が遮断され、隗囂の兵も退いたため、光武帝は征討を中止しました。
 
光武帝が来歙に命じ、王遵(隗囂の将)を招くために書を送らせました。王遵は東漢に帰順します。
光武帝は王遵を太中大夫に任命し、向義侯に封じました。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀下』からです。
八月丁亥、元河閒王劉邵を河閒王にしました。
 
西漢の河間王(河閒王)は景帝の子劉徳の家系ですが、王莽の時代に途絶えました。最後の河間王は劉尚です。
今回封王された「元河閒王劉邵」というのは、更始帝が封じたのではないかと思われますが、詳細はわかりません。建武十三年37年)に再述します。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
冬、盧芳がある出来事(詳細は不明です)によって五原太守李興の兄弟を誅殺しました。
 
盧芳の朔方太守田颯と雲中太守喬扈(『資治通鑑』胡三省注によると、喬氏は匈奴の貴人の姓で、代々輔相(大臣)を勤めました)がそれぞれ郡を挙げて東漢に降りました。光武帝は二人の職をそのままにしました(領職如故)
 
[十五] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、長水射声の二校尉の官を廃しました。
後漢書光武帝紀下』の注によると、「長水」は地名で胡騎が駐屯していました。「射声」は夜でも音を聞いただけで矢を射ることができるという意味です。どちらも西漢武帝が置きました。
 
光武帝紀下』では光武帝建武十五年39年)に「屯騎、長水、射声」の三校尉が再び設けられており、注釈に「建武七年に廃された」と書かれています。
この年に廃されたのは三校尉だったようです。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
光武帝は図讖(預言書)を好んだため、鄭興と郊祀の事について議論した時、こう言いました「わしは讖によって決断したいと思うが、どうだ?」
ところが鄭興は「臣は讖を為しません」と答えました。
光武帝が怒って言いました「卿が讖を為さないのは、これを非とするからか(否定するからか。原文「非之邪」)?」
鄭興が懼れ慌てて言いました「臣には書において学んだことがないものもあります。非とすることろではありません(図讖は学んだことがないだけで、否定しているのではありません)。」
光武帝は怒りを静めました。
 
[十七] 『資治通鑑』からです。
南陽太守杜詩の政治は清平で、利を興して害を除いたため、百姓が利便を得ました。また陂池(溜池)を修築し、広く土田(田地)を開拓したおかげで、郡内の家々が富裕になりました(比室殷足)
そのため、当時の人々は杜詩を召信臣西漢元帝竟寧元年33年参照)に譬え、南陽では「前に召父がおり、後に杜母がいる(前有召父,後有杜母)」と語られました。
 
 
 
次回に続きます。