東漢時代37 光武帝(三十七) 隗囂の反撃 32年(2)
秋、大水(洪水)がありました。
八月、光武帝が上邽を発ち、昼夜兼行して東に駆けました。
また、岑彭等に書を与えてこう伝えました「両城(西城と上邽)がもし落ちたら、そのまま兵を率いて南の蜀虜を撃て。人は満足を知らないことに苦しむものだ(人苦不知足)。既に隴を平定したのにまた蜀を望む(既平隴,復望蜀)。毎回兵を発する度に頭須(髪や髭)が白くなってしまう(每一発兵,頭須為白)。」
ここから「隴を得て蜀を望む(既平隴,復望蜀)」という言葉ができました。「一つの欲求が満たされたら、すぐに次の欲求が生まれ、欲望にはきりがない」という意味です。
光武帝が執金吾・寇恂に言いました「潁川は京師に迫近(近接)しているからすぐに平定しなければならない。思うに(惟念)卿だけがこれを平定できる。九卿の高位から再び出陣して国を憂いてくれればよい(既に九卿の高位になったが、国を憂いてまた出撃してくれ。原文「従九卿復出以憂国可也」)。」
寇恂が応えました「潁川は陛下の隴・蜀での有事を聞いたので、狂狡(狡猾な者)がその間(隙)に乗じ、互いに詿誤(過ちを犯すこと。過ちに誘うこと)しただけです。もし乗輿(皇帝の車)が南に向かったと聞いたら、賊は必ず惶怖して死に帰します(死罪を受けに来ます。自ら出頭します。原文「帰死」)。臣は武器を持って先鋒になること(執鋭前駆)を願います。」
光武帝はこの意見に従って親征することにしました。
庚申(初六日)、車駕が南征しました。
果たして潁川の盗賊が全て投降します。
光武帝は寇恂を長社に留め、吏民を鎮撫して投降に来た残りの者も受け入れさせました。
東郡、済陰の盗賊も蜂起しました。
光武帝は李通と王常を送って撃たせました。
東郡では耿純が境内に入ったと聞き、盗賊九千余人が皆、耿純を訪ねて降りました。
大兵は戦わずに引き還します。
安丘侯・張歩が妻子を連れて臨淮に逃走しました(張歩は雒陽にいました)。弟の張弘、張藍と共に故衆(以前の部下)を招こうと欲して船で海に入ります。
しかし琅邪太守・陳俊が追討して張歩を斬りました。
十一月乙丑(十二日)、懐から雒陽に還りました。
西城で楊広が死に、隗囂が窮困しました。
王捷は城壁に登って漢軍にこう叫びました「隗王のために城を守る者は皆必ず死ぬが、二心は無い。諸軍がすぐに解散することを願う。自殺によってこれ(決死の覚悟)を明らかにすることを請う。」
王捷は自刎して死にました。
しかし呉漢等は多数の兵を集めて隗囂を力攻めにしようと考えていたため、諸郡から集めた兵を解散させませんでした。その結果、糧食が日に日に少なくなり、吏士が戦に疲れて逃亡者が増えました。
岑彭が谷水を塞いで西城に水を注ぎました。城はまだ水没しませんでしたが、城壁の上から一丈余しか残されていません。
この時、ちょうど王元、行巡、周宗が蜀(公孫述)の救兵五千余人を率いて、突然、高地から現れました。戦鼓を敲いて喚声を上げ、「百万の衆がもうすぐ到着する!」と叫びます。
漢軍は大いに驚いて混乱し、陣を構える余裕もありません。
呉漢軍は食糧が尽きたため、輜重を焼き、兵を率いて隴山を下りました。
蓋延と耿弇も前後して退きます。
隗囂が兵を出して諸営(諸軍)の後ろを撃ちましたが、岑彭が後拒(殿軍)になって防いだため、諸将はなんとか全軍そろって東に還ることができました。
祭遵だけは汧に駐屯しました。
呉漢、蓋延等はまた長安に駐軍し、岑彭は津郷に還ります。
温序に関して、『後漢書・独行列伝(巻八十一)』には「建武六年(30年)、温舒が謁者に任命され、護羌校尉に遷された。温序は行部(管轄の地を巡行すること)して襄武に至った時、隗囂の別将・苟宇に捕えられた」とあります。
しかし『後漢書・光武帝紀下』の注と『後漢書・西羌伝(巻八十七)』によると、西漢武帝が始めて護羌校尉を置きましたが、王莾の政乱によって廃されていました。建武九年(本年は建武八年です)になってやっと回復され、牛邯が任命されまが(翌年に述べます)、牛邯が死ぬとまた廃されます。
本文に戻ります。
苟宇等は温舒を何回も諭して(曉譬数四)投降させようとしました。
すると温序は激怒して苟宇等を叱咤し、こう言いました「虜がなぜ敢えて漢将を迫脅(脅迫)するのだ!」
温序は符節を持って数人を撃ち殺します。
苟宇の衆(部下)が争って温舒を殺そうとしましたが、苟宇が制止して言いました「この義士は節を守って死のうとしている(此義士死節)。剣を与えるべきだ。」
温序は剣を受け取ると髭を口に含んでから左右を顧みてこう言いました「賊に殺されることになったが、須(鬚)を土で汚してはならない。」
温序は剣に伏して死にました。
従事・王忠が温舒の喪(死体)を運んで雒陽に還りました。
この年、大水(洪水)がありました。
次回に続きます。