東漢時代39 光武帝(三十九) 護羌校尉 33年(2)

今回は東漢光武帝建武九年の続きです
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝が中郎将来歙に命じて長安に駐屯している諸将を全て監護させました。太中大夫馬援が副(副官)になります。
来歙が上書しました「公孫述は隴西と天水を藩蔽としているので、延命して息を繋げることができています(延命假息)。今、二郡を平蕩(平定)すれば、公孫述の智計が窮します。更に多くの兵馬を選び、資糧を儲積(蓄積)するべきです。今、西州(隗囂)は破れたばかりで(実際は前年に東漢が隗囂に敗れて撤退しました。「西州が破れた」というのは「隗囂が死んだ」という意味かもしれません)兵も人も疲饉疲労飢餓)しているので、もしも財穀によって招けば、その衆を集めることができます。臣は国家が出費とするところが一つではなく、用度(費用)が不足していることを知っています。しかし(西征のために財穀を使うのは)やむを得ないことです。」
光武帝は納得して詔を発し、汧に六万斛の穀物を蓄えさせました。
 
秋八月、来歙が征西大将軍馮異等五将軍を監督して天水の隗純を討伐しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
東漢の驃騎将軍(驃騎大将軍)杜茂が繁畤で盧芳の将賈覧と戦いましたが、杜茂軍が敗北しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
東漢が再び護羌校尉の官を置きました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
王莽時代の末年から諸羌が塞内に入って生活するようになり、金城に属す県の多くが占有されました。
隗囂は討伐する力がなかったため、逆に慰納(慰問懐柔)してその衆を徴発し、東漢に対抗しました。
 
司徒掾(『資治通鑑』胡三省注によると、司徒掾属は三十一人おり、掾は比三百石、属は比二百石でした)班彪が光武帝に進言しました「今、涼州部には全て降羌(投降した羌人)がいます。羌胡は被髪(髪を束ねないこと。冠を被らないこと)左衽(向かって左の襟が上になる着方。漢服は向かって右の襟が上になります)ですが、漢人と雑居しており、習俗が異なって言語も通じないため、しばしば小吏や黠人(狡猾な人)侵奪を受けて窮恚無聊(「窮恚」は困窮して怨みを抱くこと、「無聊」は頼るものがないほど窮すことです)し、その結果、反叛を招いています。蛮夷の寇乱とは全てこれが原因です。旧制では、益州部には蛮夷騎都尉を置き(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢武帝西南夷に道を開いて都尉を置きました)、幽州部には領烏桓校尉(護烏桓校尉)を置き、涼州部には護羌校尉を置き(護烏桓護羌校尉は比二千石で、下に長史一人、司馬二人がいました。それぞれ六百石です)、皆、符節を持って領護(統括守護)し、その怨結(紛糾)を治め、歳時(毎年一定の時期)に巡行し、疾苦としていることを問いました。また、しばしば使訳(情報を伝達する使者。通訳できる使者)を派遣して、関係を通じて動静を把握し(通導動静)、塞外の羌夷を吏(漢の官吏)の耳目にしたので、州郡はこれによって警備することができました。今、また(制度を)戻して旧制のようにし、威防(威厳と防備)を明らかにするべきです。」
光武帝はこの意見に従って牛邯を護羌校尉に任命しました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この頃、盗(盗賊)が陰貴人(陰麗華)の母鄧氏と弟の陰訢を殺しました。
光武帝はとても悲傷し、陰貴人の弟陰就を宣恩侯に封じました。
 
資治通鑑』は書いていませんが、『後漢書皇后紀上』によると、光武帝はこの時、陰貴人の父陰陸を追封して宣恩哀侯とし、陰就に宣恩侯を継がせました。また、殺された陰訢を宣義恭侯に追封しました。
皇后ではなく貴人の父を追封するのは異例なことです。
 
資治通鑑』に戻ります。
光武帝は陰就の兄に当たる侍中陰興も招いて封侯しようとしました。しかし印綬を陰興の前に置くと、陰興は固辞してこう言いました「臣にはまだ先登陷陳の功(先に城壁を登ったり敵陣を落とす功。「陳」は「陣」です)がないのに、一家数人が並んで爵土を蒙ったら、天下を不満にさせるので(令天下觖望)、誠に願うところではありません。」
光武帝は陰就を称えてその志を奪いませんでした(意志を尊重しました)
 
陰貴人が陰興に封侯を断った理由を問いました。
陰興が言いました「外戚の家とは謙退を知らないことに苦しむものです外戚家苦不知謙退)。娘が嫁ぐ時は侯王(王侯)に配すことを欲し(嫁女欲配侯王)(息子が)婦人を娶る時は公主を待ち望んでいるので(取婦眄睨公主)、愚心(私の心)は実に不安です。富貴には極(際限)があり、人は満足を知るべきです。夸奢(驕慢奢侈)はますます観聴(世論)に譏られるところとなります。」
陰貴人はこの言葉に感じ入りました。この後、自分を抑えて深く謙譲し(深自降挹)、終生、宗親のために官位を求めることがありませんでした。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
光武帝が寇恂を招いて潁川から帰還させ、漁陽太守郭伋を潁川太守に任命しました。
 
郭伋は山賊の趙宏、召呉等数百人を招いて降し、全て帰郷して農籍に附かせました。
その後、郭伋が自ら専命の罪(勝手に命令を出した罪。投降した山賊を放ったことを指します)を弾劾しましたが、光武帝咎めませんでした。
 
後に趙宏、召呉等の党人が郭伋の威信を聞いて、遠く離れた江南や幽州、冀州からも期することなく続々と投降しました(不期俱降,駱駅不絶)
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
莎車王康が死んで弟の賢が立ちました。
賢は拘彌王と西夜王を殺し、康の二子を二国の王にしました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、拘彌国は西漢の杅です。西夜国は雒陽から一万四千四百里離れていました。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、東漢が関都尉(函谷関都尉)を廃止しました光武帝建武十九年・43年に再設されます)
 
 
 
次回に続きます。