東漢時代41 光武帝(四十一) 来歙暗殺 35年(1)
乙未 35年
『後漢書・光武帝紀下』は二月に上述の詔を発した後、「己酉、南陽を行幸する。還って章陵を行幸し、園陵を祀る。庚午、車駕が宮に還る」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、この年の二月は壬申朔で、己酉と庚午はどちらも三月になります。『光武帝紀下』は「己酉」の前に「三月」が抜けています。
劉祉が死んだ時は四十三歳でした。諡号は恭王です。封国に行けなかったため、洛陽北芒に埋葬されました。
岑彭が津郷に駐屯し、しばしば田戎等を攻めましたが、勝てませんでした。
岑彭が数千艘の戦船を装備しました。しかし呉漢は、「諸郡から集めた棹卒(船を操る兵)は多くの糧穀を消費する」と考えて舟師を解散させようとしました。
岑彭は蜀兵が盛んなのでこれを解散させるべきではないと判断し、光武帝に上書して状況を報告しました。
光武帝が岑彭に答えました「大司馬(呉漢)は歩騎を用いることに慣れており、水戦には明るくない(不曉水戦)。荊門の事は一律、征南公(征南大将軍・岑彭)を重とするだけだ(岑彭の意見を尊重する。原文「一由征南公為重而已」)。」
閏三月、岑彭が軍中に令を出し、浮橋を攻める者を募りました。先に橋に登った者には上賞を与えると約束します。
偏将軍・魯奇が応じて前に進みました。
この時は東風が激しく吹いていました(東風狂急)。魯奇の船は長江を逆流して川上に向かい、直接、浮橋にぶつかります。しかし江中に立てられた欑柱(密集した木の柱)に反把鉤(外を向いた鉤)がついていたため、魯奇の船は去れなくなりました(『資治通鑑』胡三省注によると、船が欑柱で進路を塞がれましたが、鉤が船に刺さっているため、退却もできなくなりました)。
進退に窮した魯奇等は勢いに乗って決死の覚悟で戦いました(乗勢殊死戦)。炬(たいまつ)を放って浮橋を焼くと、風が強くなって火が燃えあがり(風怒火盛)、橋楼が焼け崩れます。
そこで岑彭の全軍が風に乗って並進を始めました。向かう所で抵抗する者がなく、蜀兵は大乱に陥り、溺死者が数千人に上ります。東漢軍は任満を斬り、程汎を生け捕りにしました。
田戎は逃走して江州を守ります。
『光武帝紀下』の「岑彭が率いた三将軍」は呉漢を抜いた「劉隆、臧宮、劉歆」を指すようです。
『後漢書・呉蓋陳臧列伝(巻十八)』に「呉漢が征南大将軍・岑彭等を率いて公孫述を討った。岑彭が荊門を破り、長駆して江関に入った時、呉漢は夷陵に留まって露橈船を準備した(下述)」とあるので、呉漢は荊門の戦いに参加しなかったようです。
また、『光武帝紀下』の「任満を獲た」というのは、「首を獲た」という意味です。
岑彭自身は輔威将軍・臧宮、驍騎将軍・劉歆を率いて、長駆して江関に入ります。
軍中に虜掠(略奪)を禁止したため、経由した地の百姓が皆、牛酒を奉じて迎労(迎え入れて労うこと)しましたが、岑彭はそれも辞退して受け取りませんでした。百姓は大いに喜び、争って門を開いて投降します。
岑彭が郡界から出る時は、後から来た将軍が太守の号を受け継ぎます。
また、岑彭が官属の中から州中の代理の長吏(守州中長吏)を選びました(「長吏」は県の長官です。州牧は岑彭、州内の太守は岑彭や後続の将軍、諸県の長官は官属が代行しました)。
岑彭が江州に至りました。
江州は城が堅固で食糧も多いので、すぐに攻略するのは困難です。
そこで岑彭は馮駿を留めて江州城(田戎)を包囲させてから、自ら舟師を率いて公孫述討伐を開始しました。戦勝の勢いに乗って、直接、墊江(『資治通鑑』胡三省注によると、巴郡に属す県です)に向かい、平曲を攻め破って米数十万石を収めます。
『後漢書・光武帝紀下』はここで「威虜将軍・馮駿が田戎を江州で包囲した。岑彭は舟師を率いて公孫述を討ち、巴郡を平定した」と書いていますが、江州(『後漢書・光武帝紀下』の注によると巴郡に属す県です)が陥落するのは翌年(建武十二年・36年)の事です。「巴郡を平定した(平巴郡)」というのは、巴郡全域ではなく、巴郡に属す墊江、平曲等の県を平定したという意味のようです。但し、『資治通鑑』胡三省注は平曲の位置を「不明(地闕)」としています。
『資治通鑑』に戻ります。
呉漢は夷陵に留まって露橈(戦船の一種。人は船中で守られており、櫓だけが外に出ている船です)を準備しており、装備が整ってから岑彭に続いて進軍を再開しました(十二月に三万人の舟師を率いて夷陵を発ちます)。
夏四月丁卯、東漢が大司徒司直の官を省きました。
夏、先零羌が臨洮を侵しました。
馬援が来歙の推挙によって隴西太守になり、先零羌を撃って大破しました。
六月、中郎将・来歙が虎牙大将軍・蓋延、揚武将軍・馬成等を率いて進軍しました。王元、環安を攻撃して大破し、下辨を攻略します。
来歙等は勝ちに乗じて進軍を続けました。
蜀の人々が大いに懼れました。そこで環安が間人(間諜。刺客)を送って来歙を刺殺しました。
刺客に襲われた来歙は息が絶える前に急いで人を駆けさせて蓋延を招きました。
蓋延は来歙を見ると伏して悲哀し、仰ぎ見ることができません。
来歙が蓋延を叱咤して言いました「虎牙(虎牙大将軍・蓋延)はなぜそのようであるのだ(何敢然)!今、使者(来歙。天子の命を受けた者)が刺客に中り、国に報いられなくなったので、巨卿(蓋延の字)を呼んで軍事を属そう(託そう)と欲したのに、逆に児女子(女や子供)に倣って涕泣するのか!刃は我が身にあるが(刃は来歙に刺さったままです)、兵を指揮して公を斬れないと思っているのか(不能勒兵斬公邪)!」
蓋延は涙を収めてなんとか立ち上がり(收涙強起)、来歙の誡(命)を受けました。
来歙が自分で表(上奏文)を書きました「臣は夜、人定(「人定」は深夜の意味です)の後に、何者かに賊傷(殺傷)され(為何人所賊傷)、臣の要害に中りました。臣は自分を惜しいとは思いませんが、職を奉じたのに全うできず、朝廷の羞と為してしまったこと(奉職不称以為朝廷羞)を誠に恨みます。
理国(国を治めること)とは、賢人を得ることを本(根本)とするものです。太中大夫・段襄は骨鯁(実直)なので任用できます。陛下の裁察(判断・明察)を願います。また、臣の兄弟は不肖なので、いずれは罪を被る恐れがあります(終恐被罪)。陛下が(彼等を)哀憐し、しばしば教督(教育監督)を賜ることを請います。」
来歙は筆を棄ててから刃を引き抜き、息絶えました。
揚武将軍・馬成を守中郎将(中郎将代理)に任命して来歙の職務を代行させます。
来歙の喪(霊柩)が雒陽に還りました。
乗輿(皇帝)も縞素(喪服)で弔に臨み、送葬しました。
次回に続きます。