東漢時代41 光武帝(四十一) 来歙暗殺 35年(1)

今回は東漢光武帝建武十一年です。二回に分けます。
 
乙未 35
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
春二月己卯(初八日)光武帝が詔を発しました「天地の性(生命)では人が最も貴いものだ(天地之性人為貴)。よって、殺したのが奴婢だとしても(奴婢を殺したとしても)減罪してはならない。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
三月己酉(初九日)光武帝南陽行幸し、故郷の章陵(元春陵郷)に還りました。
庚午(三十日)、車駕光武帝が皇宮に還りました。
 
後漢書光武帝紀下』は二月に上述の詔を発した後、「己酉、南陽行幸する。還って章陵を行幸し、園陵を祀る。庚午、車駕が宮に還る」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、この年の二月は壬申朔で、己酉と庚午はどちらも三月になります。『光武帝紀下』は「己酉」の前に「三月」が抜けています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この頃、城陽劉祉(元舂陵侯劉敞の嫡子)が死にました。
 
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、本年、病を患った劉祉が城陽王の璽綬を返上し、列侯の身分で先人の祭祀を奉じることを願いました。光武帝は自ら劉祉の疾に臨みます光武帝自ら看病しました)
劉祉が死んだ時は四十三歳でした。諡号は恭王です。封国に行けなかったため、洛陽北芒に埋葬されました。
建武十三年37年)光武帝が劉祉の嫡子劉平を蔡陽侯に封じて(王ではなく侯です)劉祉の祭祀を継承させました。また劉平の弟劉堅を高郷侯に封じました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
岑彭が津郷に駐屯し、しばしば田戎等を攻めましたが、勝てませんでした。
光武帝は呉漢を派遣し、誅虜将軍劉隆等三将を率いて荊州兵合計六万余人、騎馬五千頭を動員させてから、荊門で岑彭と合流させました。
 
岑彭が数千艘の戦船を装備しました。しかし呉漢は、「諸郡から集めた棹卒(船を操る兵)は多くの糧穀を消費する」と考えて舟師を解散させようとしました。
岑彭は蜀兵が盛んなのでこれを解散させるべきではないと判断し、光武帝に上書して状況を報告しました。
光武帝が岑彭に答えました「大司馬(呉漢)は歩騎を用いることに慣れており、水戦には明るくない(不曉水戦)。荊門の事は一律、征南公(征南大将軍岑彭)を重とするだけだ(岑彭の意見を尊重する。原文「一由征南公為重而已」)。」
 
閏三月、岑彭が軍中に令を出し、浮橋を攻める者を募りました。先に橋に登った者には上賞を与えると約束します。
偏将軍魯奇が応じて前に進みました。
この時は東風が激しく吹いていました(東風狂急)。魯奇の船は長江を逆流して川上に向かい、直接、浮橋にぶつかります。しかし江中に立てられた欑柱(密集した木の柱)に反把鉤(外を向いた鉤)がついていたため、魯奇の船は去れなくなりました(『資治通鑑』胡三省注によると、船が欑柱で進路を塞がれましたが、鉤が船に刺さっているため、退却もできなくなりました)
進退に窮した魯奇等は勢いに乗って決死の覚悟で戦いました(乗勢殊死戦)。炬(たいまつ)を放って浮橋を焼くと、風が強くなって火が燃えあがり(風怒火盛)、橋楼が焼け崩れます。
そこで岑彭の全軍が風に乗って並進を始めました。向かう所で抵抗する者がなく、蜀兵は大乱に陥り、溺死者が数千人に上ります。東漢軍は任満を斬り、程汎を生け捕りにしました。
田戎は逃走して江州を守ります。
 
後漢書光武帝紀下』は「征南大将軍岑彭が三将軍を率いて公孫述の将田戎、任満と荊門で戦い、大破して任満を獲た」と書いています。
後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』には「岑彭が呉漢および誅虜将軍劉隆、輔威将軍臧宮、驍騎将軍劉歆と(中略)荊門で合流した」と書かれており、『資治通鑑』は列伝から引用しています。
光武帝紀下』の「岑彭が率いた三将軍」は呉漢を抜いた「劉隆、臧宮、劉歆」を指すようです。
後漢書呉蓋陳臧列伝(巻十八)』に「呉漢が征南大将軍岑彭等を率いて公孫述を討った。岑彭が荊門を破り、長駆して江関に入った時、呉漢は夷陵に留まって露橈船を準備した(下述)」とあるので、呉漢は荊門の戦いに参加しなかったようです。
また、『光武帝紀下』の「任満を獲た」というのは、「首を獲た」という意味です。
 
岑彭は劉隆を南郡太守に任命するように上奏しました(原文「彭上劉隆為南郡太守」。『資治通鑑』胡三省注は「先に劉隆に南郡を守らせてから(南郡太守の職責を負わせてから)上奏した」と解説しています)
岑彭自身は輔威将軍臧宮、驍騎将軍劉歆を率いて、長駆して江関に入ります。
軍中に虜掠(略奪)を禁止したため、経由した地の百姓が皆、牛酒を奉じて迎労(迎え入れて労うこと)しましたが、岑彭はそれも辞退して受け取りませんでした。百姓は大いに喜び、争って門を開いて投降します。
 
光武帝が詔を発して岑彭を守益州益州牧代理)に任命し、攻略した全ての郡で太守の政務を兼任させました(行太守事)
岑彭が郡界から出る時は、後から来た将軍が太守の号を受け継ぎます。
また、岑彭が官属の中から州中の代理の長吏(守州中長吏)を選びました(「長吏」は県の長官です。州牧は岑彭、州内の太守は岑彭や後続の将軍、諸県の長官は官属が代行しました)
 
岑彭が江州に至りました。
江州は城が堅固で食糧も多いので、すぐに攻略するのは困難です。
そこで岑彭は馮駿を留めて江州城(田戎)を包囲させてから、自ら舟師を率いて公孫述討伐を開始しました。戦勝の勢いに乗って、直接、墊江(『資治通鑑』胡三省注によると、巴郡に属す県です)に向かい、平曲を攻め破って米数十万石を収めます。
 
後漢書光武帝紀下』はここで「威虜将軍馮駿が田戎を江州で包囲した。岑彭は舟師を率いて公孫述を討ち、巴郡を平定した」と書いていますが、江州(『後漢書光武帝紀下』の注によると巴郡に属す県です)が陥落するのは翌年建武十二年36年)の事です。「巴郡を平定した(平巴郡)」というのは、巴郡全域ではなく、巴郡に属す墊江、平曲等の県を平定したという意味のようです。但し、『資治通鑑』胡三省注は平曲の位置を「不明(地闕)」としています。
 
資治通鑑』に戻ります。
呉漢は夷陵に留まって露橈(戦船の一種。人は船中で守られており、櫓だけが外に出ている船です)を準備しており、装備が整ってから岑彭に続いて進軍を再開しました(十二月に三万人の舟師を率いて夷陵を発ちます)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
夏四月丁卯、東漢が大司徒司直の官を省きました。
後漢書』の注によると、西漢武帝が丞相司直を置き、丞相が大司徒に改められてからも司直は残されましたが、今回廃されました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏、先零羌が臨洮を侵しました。
馬援が来歙の推挙によって隴西太守になり、先零羌を撃って大破しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
公孫述が王元を将軍に任命し、領軍環安(環が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、楚の環列尹(官名。宮城を警護する官)の後代です。また、楚には賢者環淵がいました)と共に河池で東漢軍を防がせました。
 
六月、中郎将来歙が虎牙大将軍蓋延、揚武将軍馬成等を率いて進軍しました。王元、環安を攻撃して大破し、下辨を攻略します。
来歙等は勝ちに乗じて進軍を続けました。
 
蜀の人々が大いに懼れました。そこで環安が間人(間諜。刺客)を送って来歙を刺殺しました。
刺客に襲われた来歙は息が絶える前に急いで人を駆けさせて蓋延を招きました。
蓋延は来歙を見ると伏して悲哀し、仰ぎ見ることができません。
来歙が蓋延を叱咤して言いました「虎牙(虎牙大将軍蓋延)はなぜそのようであるのだ(何敢然)!今、使者(来歙。天子の命を受けた者)が刺客に中り、国に報いられなくなったので、巨卿(蓋延の字)を呼んで軍事を属そう(託そう)と欲したのに、逆に児女子(女や子供)に倣って涕泣するのか!刃は我が身にあるが(刃は来歙に刺さったままです)、兵を指揮して公を斬れないと思っているのか不能勒兵斬公邪)!」
蓋延は涙を収めてなんとか立ち上がり(收涙強起)、来歙の誡(命)を受けました。
 
来歙が自分で表(上奏文)を書きました「臣は夜、人定(「人定」は深夜の意味です)の後に、何者かに賊傷(殺傷)され(為何人所賊傷)、臣の要害に中りました。臣は自分を惜しいとは思いませんが、職を奉じたのに全うできず、朝廷の羞と為してしまったこと(奉職不称以為朝廷羞)を誠に恨みます。
理国(国を治めること)とは、賢人を得ることを本(根本)とするものです。太中大夫段襄は骨鯁(実直)なので任用できます。陛下の裁察(判断明察)を願います。また、臣の兄弟は不肖なので、いずれは罪を被る恐れがあります(終恐被罪)。陛下が(彼等を)哀憐し、しばしば教督(教育監督)を賜ることを請います。」
来歙は筆を棄ててから刃を引き抜き、息絶えました。
 
来歙の死を聞いた光武帝は大いに驚き、書を読みながら涙を流しました(省書攬涕)
揚武将軍馬成を守中郎将(中郎将代理)に任命して来歙の職務を代行させます。
 
来歙の喪(霊柩)が雒陽に還りました。
乗輿(皇帝)も縞素(喪服)で弔に臨み、送葬しました。

後漢書李王鄧来列伝(巻十五)』によると、来歙に羌隴を平定した功績があったため、光武帝は汝南の当郷県を征羌国に改めて来歙を追封し、節侯の諡号を贈りました。来歙の子来褒が侯位を継ぎます。



次回に続きます。