東漢時代42 光武帝(四十二) 岑彭暗殺 35年(2)
劉良は城門で中郎将・張邯と道を争いました。張邯を叱咤して車を還らせ、更に門候(『資治通鑑』胡三省注によると、城門校尉が雒陽十二城門を管理しており、各門に候が一人いました)を叱責して罰として前に向かって数十歩走らせます(使前走数十歩)。
劉良は尊貴な皇族(尊戚貴重)でしたが、鮑永がそれを恐れず弾劾したため、朝廷が粛然としました。
鮑永は扶風の人・鮑恢を招いて都官従事にしました。
鮑永が管轄の県を巡行して霸陵に至りました。
西の扶風に至ると、牛を殺して苟諫の冢(墓)に供えました(以前、鮑永が殺されそうになった時、苟諫が鮑永を守りました。玄漢劉玄更始二年・24年参照)。
太中大夫・張湛が答えました「仁は行動の宗(宗旨。最も重要なこと)であり、忠は義の主です(仁者行之宗,忠者義之主也)。仁において旧を棄てず、忠において君を忘れないのは、行動の崇高なる姿です(崇高な行動です。原文「仁不遺旧,忠不忘君,行之高者也」)。」
光武帝は納得して不満を解消しました。
光武帝が自ら兵を率いて公孫述の征討に向かいました。
秋七月、長安に駐軍しました。
また、将・侯丹に二万余人を率いて黄石で防がせました。
八月、岑彭が延岑に対抗するため、臧宮に降卒(投降した兵)五万を率いて涪水から平曲に遡らせました。
その後、岑彭は昼夜兼行して(晨夜倍道兼行)二千余里進み、直接、武陽を攻めて攻略します。
更にそこから精騎を駆けさせて広都を襲いました。成都から数十里しか離れていません。
東漢軍の勢いは風雨のようで、至る場所で蜀軍が奔散しました。
これ以前に公孫述は漢兵が平曲にいると聞いたため、大軍を送って迎撃させました。
しかし急行した岑彭が武陽に至って延岑軍の後ろに回ると、蜀地の人々が震撼し、公孫述も大いに驚いて杖で地を撃ちながら「これは何の神だ(神のような速さだ。原文「是何神也」)!」と言いました。
延岑は沈水で兵を盛んにしました(大軍を集めました)。
「沈水」は『後漢書・光武帝紀下』の記述で、『後漢書・呉蓋陳臧列伝(巻十八)』では「沅水」としています。『光武帝紀下』の注に「沉水や沅水とする版本もあるがどちらも誤り」とあるので、『呉蓋陳臧列伝』は誤りのようです。
輔威将軍・臧宮の軍は兵が多いのに食糧が少なく、輸送も間に合わなかったため、降者(投降した兵)が皆、散畔(離散背反)を欲しました。
郡邑の人々もまた堡塁に集まって成敗を観望(傍観)します。
臧宮は兵を退こうとしましたが、反乱を招くこと恐れました。
ちょうど光武帝が謁者を派遣し、兵を率いて岑彭を訪ねさせました。七百頭の馬を連れています。
臧宮は矯制(偽造した皇帝の命令)を使ってそれを奪い、自軍を充たしました。
その後、臧宮は朝も夜も兵を進めました。多数の旗幟を立て、山に登って戦鼓を敲いたり喚声を挙げます。右岸に歩兵、左岸に騎兵が並び(または左右の岸に歩騎が並び。原文「右歩左騎」)、船を牽きながら江を進んで(川を逆流するので陸上の兵が船を牽く必要があります)、呼声が山谷を震わせました。
延岑は計らずも漢軍が突然現れたため、山に登って眺望し、大いに震恐しました。
臧宮が兵を放って攻撃をしかけ、沈水で延岑軍を大破します。斬首された者や溺死した者は万余人に上り、川の水が濁るほどでした。
延岑は成都に奔り、その衆は全て投降しました。
臧宮が兵馬や珍宝をことごとく奪います。
臧宮は自ら勝ちに乗じて敗北した兵を追撃しました。投降した者は十万を数えます。
臧宮軍が平陽郷に至ると、王元が衆を挙げて降りました。
公孫述は書を見て嘆息し、近親の者に見せました。
太常・常少、光禄勳・張隆等は皆、公孫述に投降を勧めます。
しかし公孫述は「廃興は命(天命)である。降伏する天子がいるか(豈有降天子哉)!」と言いました。
左右の者はこの後、敢えて進言しなくなり、常少や張隆は憂慮のために死んでしまいました。
公孫述が間人(間諜。刺客)に亡奴(逃亡した奴僕)を装わせ、岑彭の陣に投降させました。
夜、間人が征南大将軍・岑彭を刺殺します。
太中大夫・監軍・鄭興が岑彭の営を臨時で監督し(領其営)、呉漢が到着するのを待って指揮権を渡しました。
岑彭は軍を厳格に治めており、わずかでも民を侵すことがありませんでした(持軍整斉秋豪無犯)。
光武帝は任貴が献上した貢物を岑彭の妻子に下賜しました。
蜀の人々も岑彭を慕っており、廟を建てて祭祀を行いました。
揚武将軍・馬成等が河池を破り、武都郡を平定しました。
しかし馬成と隴西太守・馬援が深く進入して羌族を討撃し、大破しました。
投降した羌族は天水、隴西、扶風に遷されました。
本文に戻ります。
しかし馬援が上書してこう言いました「破羌以西は城が多くて堅牢なので、容易に依固(拠点にして守りを固めること)できます。また、その田土は肥壤(肥沃)で、灌漑が流通しています。もしも羌を湟中に住ませたら、害を為して止まなくなるので(為害不休)、放棄してはなりません。」
光武帝は馬援の意見に従いました。
三千余人の民が金城に帰ったため(『後漢書・馬援伝』によると、光武帝が武威太守に詔を発し、武威に移っていた金城の客民を全て帰らせました。この三千余人は武威から金城に戻った民です。『馬援伝』の注によると、武威太守は梁統です)、馬援は長吏(県の官吏)を置き、城郭を修築し、塢候(塢壁。堡塁)を建て、溝洫(水路)を開き、耕牧を奨励しました。郡中の人々が業(家業。農業)を楽しむようになります(馬援は隴西太守ですが、隣の金城郡を復興させました。『資治通鑑』は触れていませんが、『後漢書・光武帝紀下』によると、金城郡は翌年の光武帝建武十二年(36年)に一時廃されて隴西郡に併合され、その翌年に再び設けられます。馬援が金城を復興させたのは建武十二年から十三年にかけての事かもしれません)。
また、馬援が塞外の氐・羌を招いて按撫したため、皆、帰順しました。
馬援が彼等の侯王や君長の地位を回復するように上奏し、光武帝は全て同意しました。
光武帝は馬成の軍を撤兵させました。
十二月、大司馬・呉漢が夷陵から三万人の舟師を率いて長江を遡り、公孫述討伐に向かいました。
郭伋が京師を通った時、光武帝が政治の得失について問いました。
当時は官位にいる者の多くが郷曲故旧(同郷の旧友・知人)だったため、郭伋は敢えてこれに言及しました。
この年、朔方牧を廃して并州に併せました。
また、州牧が毎年京師に還って奏事(報告)するという制度を止めました。
次回に続きます。