東漢時代43 光武帝(四十三) 呉漢の進撃 36年(1)
丙申 36年
春正月、大司馬・呉漢が公孫述の将・魏党と公孫永を魚涪津で破り、武陽を包囲しました。
公孫述は子壻(娘婿)に当たる将・史興を派遣して援けさせましたが、呉漢が迎撃して破ります。
呉漢軍が犍為境内に入りました。
犍為郡諸県は全て城を守って抵抗します。
光武帝が呉漢に詔を発し、広都を直接取るように命じました。公孫述の心腹を占拠するためです。
呉漢は軍を進めて広都を攻め、攻略しました。
更にそこから軽騎を送って成都の市橋を焼きます。
公孫述の将帥が恐懼しました。日夜、離叛が相次ぎます。
公孫述は離叛した者の家族を誅滅しましたが、禁じることができません。
光武帝は公孫述を必ず降伏させたいと欲していたため、再度詔を下して公孫述を諭し、こう伝えました「来歙、岑彭が害を受けたことで自ら疑う必要はない(来歙と岑彭を暗殺したからといって疑心を抱く必要はない)。今すぐ自ら訪れれば、宗族の安全を保つことができる(宗族完全)。詔書や手記はしばしば得られるものではない。」
しかし公孫述は最後まで投降の意思を持ちませんでした。
夏、甘露が南行唐に降りました。
六月、黄龍が東阿に現れました。
秋七月、威虜将軍・馮駿が江州を攻略して田戎を獲ました(原文「獲田戎」。「獲」は恐らく「首を斬った」という意味です)。
光武帝が呉漢を戒めてこう伝えました「成都には十余万の衆がいるから軽視できない。ただ広都を堅拠(堅守)して(敵が)攻めて来るのを待て。争ってはならない(勿與争鋒)。もし敢えて攻めて来ないようなら、公は営を転じて(移動して)圧迫せよ。その(敵の)力が疲弊するのを待ってからなら撃つことができる。」
しかし呉漢は戦勝に乗じて進軍を続け、自ら歩騎二万を率いて成都に迫りました。
成都城から十余里離れた場所で江を隔てて北岸に営を築き、浮橋を造ります。
また、副将の武威将軍・劉尚(『後漢書・呉蓋陳臧列伝(巻十八)』の注によると、「劉尚」は「劉禹」と書かれることもあります)に一万余人を率いて江南に駐屯させました。呉漢の営から二十余里も離れています(呉漢は南から成都に迫っています。呉漢が成都に近い北岸におり、劉尚は南岸に駐軍しました)。
それを聞いた光武帝は大いに驚き、呉漢を譴責して言いました「公に詳しく訓戒したばかりなのに(原文「比敕公千條万端」。「千條万端」は詳しく語るという意味です)、どうして事に臨んで勃乱(道理に背いて乱すこと)するのだ(何意臨事勃乱)!敵を軽視して深入りし、しかも劉尚と営を別けたら、事に緩急があっても(緊急事態が発生しても)互いに及ばなくなる(援けあえなくなる。原文「不復相及」)。もし賊が兵を出して公を牽制し(出兵綴公)、大衆(大軍)で劉尚を攻めて劉尚が破れたら、(呉漢も)敗れることになる。幸いにも他の事がないから(他に憂いるべきことはないから)、急いで兵を率いて広都に還れ。」
九月、光武帝の詔書が届く前に、公孫述が大司徒・謝豊、執金吾・袁吉に十許万(約十万)の衆を率いて出撃させ、二十余営に分かれて呉漢を攻撃させました。同時に別将に一万余人を率いて劉尚を牽制させました。呉漢と劉尚は互いに救援できなくなります。
呉漢は一日中大戦した末に、敗れて営壁に逃げ帰りました。謝豊が呉漢を包囲します。
呉漢は諸将を招いて激励し、こう言いました「わしと諸君は険阻な地を越えて(踰越険阻)千里を転戦し、敵地に深入りしてこの城下に至った。しかし今、劉尚と二カ所で包囲を受け、既に連携できない形勢になっており(勢既不接)、その禍は量り難い。そこで、潜師して(秘かに兵を出して)江南で劉尚と合流し、兵を併せて禦そう(対抗しよう)と思う。もしも同心一力となり、皆が力戦すれば(人自為戦)、大功を立てられる。しかしもしそうしなかったら(如其不然)、敗れるしかない(敗必無余)。成敗の機はこの一挙にかかっている。」
諸将は皆、「分かりました(諾)」と応えました。
呉漢は士卒を労って馬に餌を与え(饗士秣馬)、三日間営を閉じて外に出ず、多数の旛旗を立てて煙火も絶えさせませんでした。
夜、呉漢が枚(兵や馬が声を出さないためにくわえる木の板)をくわえて兵を指揮し、秘かに劉尚軍と合流しました。
謝豊等はそれに気づかず、翌日、兵を分けて江北に備えてから、自ら兵を指揮して江南を攻めました。
呉漢が全軍を率いて迎撃し、戦は旦(朝)から晡(申。午後三時から五時)に及びます。
その結果、呉漢軍が大勝して謝豊と袁吉を斬りました(『資治通鑑』は合戦の場所を明らかにしていませんが、『後漢書・光武帝紀下』は「呉漢が公孫述の将・謝豊を広都で大破して斬った」としています。戦地は広都県内に属していたようです)。
呉漢は兵を率いて広都(県城)に還り、劉尚を残して公孫述に対抗させました。
呉漢が戦況を詳しく報告して深く自分を譴責しました。
光武帝が応えて言いました「公が広都に還ったのは甚だその宜を得ている(非常に正しい判断だ)。公孫述は間違いなく劉尚を無視して公を攻めることができない(必不敢略尚而擊公也)。もし先に劉尚を攻めたら、公は広都から五十里離れた地に全ての歩騎を出して赴き、ちょうど(公孫述の)危困の時に当たるので(適当値其危困)、必ずこれを破ることができる(破之必矣)。」
その後、繁と郫を攻めて破り、呉漢と成都で合流しました。
後に有司(官員)が皇子の封爵について上奏した際(恐らく光武帝建武十五年・39年です)、光武帝は李通が最初に大謀を提唱したことを思い(劉縯・劉秀兄弟が挙兵した時、李通が劉秀と謀議して協力しました。新王莽地皇三年・22年参照)、即日、李通の少子・李雄を召陵侯に封じました。
次回に続きます。