東漢時代44 光武帝(四十四) 公孫述滅亡 36年(2)

今回は東漢光武帝建武十二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
困窮した公孫述が延岑に「どうするべきだ(事当奈何)?」と問いました。
延岑が言いました「男児なら死中に生を求めるべきです。どうして坐したまま窮せるでしょう。財物は容易に集められます。惜しんではなりません(不宜有愛)。」
公孫述は全ての金帛を投じて敢死(決死)の士五千余人を募り、延岑に配しました。
延岑は市橋で偽の旗幟を立て、戦鼓を鳴らして戦いを挑みました。同時に秘かに奇兵を出して呉漢軍の後ろに送り、呉漢を襲って破ります。
呉漢は川に転落し、馬の尾につかまってなんとか危機を脱しました(緣馬尾得出)
 
呉漢軍の食糧が残り七日分になりました。秘かに船をそろえて遁去(撤退。逃走)しようとします。
それを聞いた蜀郡太守南陽の人張堪(『資治通鑑』胡三省注によると、当時は成都がまだ落ちていませんが、東漢はあらかじめ蜀郡太守を置いて蜀の人々を招降懐柔していました)が走って呉漢に会いに行き、公孫述は必ず敗れるので、退師(撤兵)の策は相応しくないと説きました。
呉漢はこれに従い、わざと劣勢を見せて(示弱)敵を徴発しました。
 
冬十一月、臧宮が咸陽門に駐軍しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『後漢書呉蓋陳臧列伝(巻十八)』では「咸陽門」ではなく「咸門」としており、「成都北面東頭(北面東側)の門」と注釈されています。
これに対して『資治通鑑』胡三省注は、「咸陽門」の「陽」は余分で(衍陽字)、「北面東頭」の「東」は「西」とする説もある、と解説しています。
 
戊寅(十八日)、公孫述が自ら数万人を率いて呉漢を攻撃し、延岑に命じて臧宮を防がせました。
両軍が大戦して延岑が三合三勝(三戦三勝)しましたが、戦いは朝から日中(正午)に及び、軍士は食事も得られず、全て疲弊しました。
そこで呉漢が護軍高午、唐邯に鋭卒(精鋭)数万を率いて攻撃させました。
公孫述の兵が大いに乱れ、高午が陣内を走り回って公孫述を刺します。公孫述は胸を突かれて落馬し(洞胸墮馬)、左右の者に担がれて城に入りました。
公孫述は全軍の兵を延岑に属させ、その夜に死にました。
 
明旦(翌朝)、延岑が城を挙げて投降しました。
こうして蜀が平定されて東漢が天下を統一しました。但し北方にはまだ匈奴が擁立した盧芳がいます。
 
辛巳(二十一日)、呉漢が成都を屠し成都で虐殺を行い)公孫述の妻子を皆殺しにして公孫氏を全て滅ぼしました。更に延岑も族滅し、その後、兵を放って大掠(大略奪)しました。公孫述の宮室が焼かれます。
 
それを聞いた光武帝は怒って呉漢を譴責し、劉尚も責めてこう言いました「城が降って三日経ち、吏民が従服服従して、孩児(子供)、老母の口(人口)は万を数える。それなのに一旦にして兵をほしいままにさせて火を放った(放兵縱火)。これを聞いた者は酸鼻するだろう(聞之可為酸鼻)。尚(劉尚。汝)は宗室の子孫でしかもかつて吏職(官吏)だったのに、なぜこのような行いができるのだ(何忍行此)。仰いで天を視て、俯いて地を眺め(仰視天俯視地)、放麑と啜羹(下述)を観たら、二者のどちらに仁があるか(二者孰仁)。誠に敵将は斬っても民は弔うという義(斬将弔民之義)を失ってしまった。」
 
資治通鑑』胡三省注から「放麑」と「啜羹」について解説します。
昔、魯の孟孫が狩で麑(小鹿)を得ました。孟孫は秦西巴に麑を持たせます。しかし母の鹿が後を追って鳴いたため、秦西巴は憐れに思って麑を放しました。孟孫は怒って秦西巴を追い出しましたが、後にまた招いて自分の子の傅(師)にしました。これが「放麑」の故事です。
「啜羹」は魏の楽羊の故事です。楽羊が中山を攻めた時、中山の国君が楽羊の子を殺して羹を作り、楽羊に送って食べさせました。魏文侯は楽羊を称えて褚師贊に「楽羊はわしのために自分の子の肉も食べた」と言いましたが、褚師贊は「自分の子でも食べるのです。誰を食べないでしょう」と応えました。
後に楽羊が中山を攻略しましたが、文侯は楽羊の功を賞したものの、その心を疑いました。
「放麑」は仁、「啜羹」は不仁の故事です。
 
呉漢は東漢を代表する功臣の一人ですが、かつては南陽でも略奪暴行を行い、鄧奉の離反を招きました東漢光武帝建武26年)。名君と評価されている光武帝の時代に汚点を作った武将でもあります。
 
以前、公孫述が広漢の人李業を招いて博士にしようとしましたが、李業は頑なに病と称して起ちあがりませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、李業は西漢平帝時代に郎になりましたが、王莽が居摂したため病と称して官を去り、門を閉じて州郡の命に応じなくなりました。後に王莽が即位してから李業を酒士に任命しようとしましたが、李業はやはり病を理由に官に就かず、山谷に隠れて名迹(消息)を絶ちました。
胡三省は「王莽にも仕えなかったのだから、公孫述のために起きるはずがない」と書いています。
 
公孫述は李業を招けないことを羞じとし、大鴻臚尹融に詔命を持って李業を脅迫させました。「もし起き上がるなら公侯の位を授けるが、起き上がらないようなら毒酒を下賜する」と伝えます。
尹融が李業に譬旨(天子の意思を教えて諭すこと)して言いました「今は天下が分崩(分裂崩壊)している。誰が是非を知っているだろう(孰知是非)。それなのに区区とした身で不測の淵(測り知れない深淵。危険な場所)を試すのか。朝廷は(汝の)名徳を貪慕しており、官位を空にして(曠官缺位)今で七年になる。四時(四季)の珍御(貢献された珍味)も君を忘れたことがない。上は知己(自分を理解する者。公孫述)を奉じ、下は子孫のために行動するべきだ。身も名も共に全うできるのは、優れたことではないか(不亦優乎)。」
李業が嘆息して言いました「古の人は危険な国に入らず、乱れた国に住まなかったものだ(「危邦不入,乱邦不居」。『論語』の言葉です)(私が出仕しないのは)このためである(為此故也)。君子とは危険に遭ったら命を授けるものだ(「見危授命」。『論語』の言葉です)。どうして高位重餌(貴重な餌。厚禄)で釣ろうとするのだ。」
尹融が言いました「室家(家族)を呼んでこれを計るべきだ。」
李業が言いました「丈夫が心中でこれを断って久しい。妻子が何を為すのだ(何妻子之為)。」
李業は毒を飲んで死にました。
公孫述は賢人を殺したという名(評判。評価)を恥じたため、使者を送って弔祠(弔祭)し、百匹の礼物を贈りました(原文「賻贈百匹」。「賻贈」は弔問時に礼物を贈ることです。「百匹」は恐らく「絹百匹」だと思います)
しかし李業の子李翬は逃走して受け取りませんでした。
 
公孫述は巴郡の人譙玄(『資治通鑑』胡三省注によると、曹の大夫が譙を食邑にしたため、邑名が氏になりました)も招きました。
資治通鑑』胡三省注によると、譙玄は西漢平帝時代に繡衣使者になり、天下を巡行して風俗を観察しました。しかし王莽が居摂したため、使者の車を棄てて家に帰り、隠遁しました。
 
譙玄も招きに応じなかったため、公孫述はまた使者を派遣して毒薬で脅迫しました。
巴郡太守が自ら譙玄の廬(家)を訪ねて動くように勧めましたが、譙玄はこう言いました「志を守って崇高を全うできるなら(保志全高)、死んでも恨むことがあるだろうか(死亦奚恨)!」
譙玄が毒薬を受け取ろうとしました。
しかし譙玄の子譙瑛が激しく泣いて太守に叩頭し(「泣血叩頭」。「泣血」は涙が枯れて血が出るほど激しく泣くという意味です)、家の銭千万を献上して父の死を贖うことを願いました。
太守が譙玄父子のためにこれを請い、公孫述は同意しました。
 
公孫述は蜀郡の王皓と王嘉も招きました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢平帝時代に王皓は美陽令に、王嘉は郎になりましたが、王莽が帝位を簒奪したため、二人とも官を棄てて西に帰りました。
 
公孫述は二人が来ないことを恐れて、先に二人の妻子を繋ぎました。
使者が王嘉に言いました「速く仕度すれば(速装)、妻子を全うできる(守ることができる)。」
しかし王嘉は「犬馬でも主を認識できる。人ならなおさらだ」と答えました。
 
王皓はこれ以前に自刎して首を使者にわたしていました。公孫述は怒って王皓の家属を誅殺しました。
それを聞いた王嘉は嘆息して「後になってしまった(後之哉)」と言い、使者に向かったまま、剣に伏して死にました。
 
犍為の人費貽も公孫述に仕えようとせず、漆を体に塗って癩癩病の姿になり、狂ったふりをして逃走しました。
同郡の任永、馮信も青盲(目の病。視力が低下して物がはっきり見えなくなる病)と称して徵命(召集の命)を辞退しました。
 
光武帝は蜀を平定してから、詔を発して既に死んだ常少に太常の位を、張隆に光禄勳の位を贈りました(二人は前年、公孫述に投降を勧め、後に憂死しました)
譙玄は既に死んでいたため、中牢(少牢。羊と豚を犠牲に使う祭祀の規格です)で祭祀を行い、所在地に命じて譙玄の贖罪のために納めた銭を家に返却させました。
また、李業の閭(里門)を表彰しました(「表李業之閭」。里門に石碑等を立てて李業を表彰しました)
 
費貽、任永、馮信は光武帝に招かれました。しかし任永と馮信はちょうどこの頃、病で死んだため、費貽だけが出仕して合浦太守になりました。
 
光武帝は公孫述の将程烏と李育に才幹があると判断し、どちらも擢用(抜擢重用)しました。
西土の人々は皆悦び、帰心しない者がいませんでした。
 
以前、王莽が広漢の人文斉を益州太守に任命しました。
文斉は農業を奨励して兵を訓練し(訓農治兵)、群夷(諸異民族)を降集(降して収容すること)したため、甚だ和を得ました(郡内が非常に和睦しました)
公孫述の時代、文斉は険阻な地形を利用して郡を固守しました(固守拒険)
公孫述が妻子を拘留して封侯することを約束しても文斉は降ろうとしません。
後に文斉は光武帝が即位したと聞いて、間道から使者を送って状況を報告し、東漢政府と連絡を取り合いました。
蜀が平定されると、光武帝は文斉を招いて鎮遠将軍に任命し、成義侯に封じました。
 
 
 
次回に続きます。