東漢時代46 光武帝(四十六) 劉氏四王 37年(1)

今回は東漢光武帝建武十三年です。二回に分けます。
 
丁酉 37
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春正月庚申(初一日)、大司徒侯霸が死にました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
戊子(二十九日)光武帝が詔を発しました「往年既に郡国に勅令し、異味(珍味)が献御(献上)されることがあってはならないとしたが、今になっても止まない。ただ豫養(あらかじめ育てること)導択(精選すること)の労があるだけでなく、道上の煩擾(煩労)をもたらし、通る場所で疲費(疲弊と浪費)を招いている。よって(郡国が異味を献上しても)、太官(『資治通鑑』胡三省注によると、太官令が一人おり、秩は六百石でした。御膳飲食(皇族の食事)を担当します)に命じて再び受けさせないようにする(其令太官勿復受)。明確に勅令を下して(明勑下)、遠方の口実(糧食。食品)は宗廟に薦める(納める)ものとし、今後も旧制と同じようにする。」
 
当時、異国から名馬を献上する者がおり、その馬は一日に千里を走りました。また、百金に値する宝剣を献上する者もいました。
光武帝は詔を発して剣を騎士に下賜し、馬には鼓車(儀仗で鼓を載せる車)を牽かせました。
光武帝はかねてから音楽を聴くことを好まず、手には珠玉(装飾品)を持ちませんでした(贅沢を好みませんでした)
 
光武帝がかつて狩猟に出た時、夜になって車駕が還りました。
上東門候(『資治通鑑』胡三省注によると、上東門は洛陽城東面の北側の門です)を勤める汝南の人郅惲が門を閉じて入城を拒否します。
光武帝は従者に命じて門の間から顔を見させました。しかし郅惲は「火の明りが遠すぎる(火明遼遠)」と言って詔(開門の命令)を受け付けません。
光武帝は引き返して東中門(『資治通鑑』胡三省注によると、東面の中門です)から入城しました。
 
翌日、郅惲が上書して光武帝を諫めました「昔、文王は遊田(狩猟)を楽しもうとしませんでした(『尚書無逸』が元になっています。原文は「不敢槃于遊田、以万民惟正之供」ですが、後半の「以万民惟正之供」は理解が困難です。「正」は「政治」、「供」は「恭敬」と考えて、「遊田に溺れることなく、万民のために恭しく政治を行った」と読むこともありますが、無理があるようです。もしくは、「惟正之供」は税収を意味するので、「以万民惟正之供,不敢槃于遊田」と置き換えて「民から得た税収を使って狩猟に溺れることはなかった」と読むこともあります)。しかし陛下は遠く山林で狩りをして、夜が昼を継いでいます(昼から夜になっています。原文「夜以継夜」)社稷宗廟はどうするのでしょうか(其如社稷宗廟何)。」
上書が提出されると光武帝は郅惲に布百匹を下賜し、東中門候を参封尉に落としました。
資治通鑑』胡三省注によると、雒陽十二城門には各門に候一人がおり、秩は六百石でした。参封尉は参封の県尉で、『後漢書百官志四』によると県尉の秩は四百石から二百石です。参封県は琅邪郡に属しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
二月、捕虜将軍馬武を虖沱河に駐屯させて匈奴に備えました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
盧芳が雲中を攻めましたが、久しくしても攻略できませんでした。
その間に九原を留守していた盧芳の将隨昱が盧芳に迫って東漢に投降しようとしました。
盧芳はそれを知って十余騎と共に逃亡し、匈奴に入ります。
 
後漢書光武帝紀下』は「盧芳が五原から逃亡して匈奴に入った」と書いています。五原は郡で、九原は五原郡に属す県です。盧芳は五原郡九原県を都にしていました東漢光武帝建武五年29年参照)
 
盧芳の衆は全て隨昱に帰順しました。随昱は宮闕を訪ねて東漢に降ります。
光武帝は詔を発して随昱を五原太守に任命し、鐫胡侯に封じました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
朱祜が上奏しました「古では、人臣は封を受けても王爵を加えませんでした。」
後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』では建武十五年39年)に朱祜がこの上奏をしていますが、恐らく列伝の誤りで、『資治通鑑』は本年の事としています(本年は建武十三年です)
 
西漢高帝以来、歴代皇帝が諸侯王を封じましたが、ある者は西漢が滅ぶ前に断絶し、残った者も王莽によって廃されました。
資治通鑑』胡三省注によると、光武帝は自分が西漢景帝の血筋に当たるため、同じく景帝の子孫である長沙、真定、河間、中山の四王を回復させました。長沙王は劉興、真定王は劉得、河間王は劉邵、中山王は劉茂です。しかし今回、四王とも侯爵に改められることになりました。
 
以下、『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
丙辰(二十七)光武帝が詔を発しました「長沙王興、真定王得、河閒王(河間王)邵、中山王茂は皆、爵を襲って(継いで)王になったが、経義に応じていない(『後漢書光武帝紀下』の注は「血縁関係が遠くなっているので(服属既疏)、王を継承するのは相応しくない」と解説しています)。よって、興を臨湘侯に、得を真定侯に、邵を楽成侯に、茂を単父侯にする。」
こうして長沙王劉興、真定王劉得、河間王劉邵、中山王劉茂の爵が落とされて侯になりました。
 
四王について簡単に紹介します。
長沙王は定王劉発の家系で、劉舜の代で王莽によって廃されました(『漢書諸侯王表』参照)。その後、光武帝が劉興を長沙王に封じましたが、劉舜と劉興の関係も封王の年もはっきりしません。『欽定四庫全書後漢書年表同姓王侯(巻一)』では劉興を「光武の疎属(遠い親戚)」「建武初に封じられた」としています(あるいは「建武初」は「建武元年」かもしれません)
今回、劉興は長沙王を廃されて臨湘侯になりました。
 
真定王は常山憲王劉舜の家系で、劉舜の子・劉平が真定王に封じられました。諡号は頃王です。
その後、劉楊の代で王莽に廃されましたが(『漢書諸侯王表』参照)光武帝によって劉得が改めて真定王に封じられました。『補後漢書年表同姓王侯』には「真定王劉徳(劉得)」は「故真定王劉楊の子」で、「建武二年五月庚辰に封じられた」と明記されています。
今回、劉得は王を廃されて真定侯になりました。
 
河間王は献王劉得の家系です。劉尚の代で王莽に廃されました(『漢書諸侯王表』参照)
光武帝建武七年31年)に元河閒王(河間王)劉邵が改めて河閒王に封じられましたが、劉尚との関係ははっきりしません。『補後漢書年表同姓王侯』では劉邵を「光武の疎属」としています
今回、劉邵は王位を廃されて楽成侯になりました。
 
中山王は靖王劉勝の家系で、一時途絶えましたが、子孫の劉広漢が広平王に封じられました西漢哀帝建平三年4年)。しかし劉広漢一代で王莽に廃されました。
更始時代に劉茂が挙兵して「厭新将軍」を名乗りました(玄漢劉玄更始二年24年参照)
資治通鑑』胡三省注によると、劉茂は元氏王劉歙の従父弟(父の弟の子)です。『補後漢書年表同姓王侯(巻一)』は劉茂を光武帝の「族父」としています。
後に劉茂は東漢に帰順して中山王に封じられました(玄漢劉玄更始三年・25年参照)
今回、劉茂は王を廃されて単父侯に落とされました。『補後漢書年表同姓王侯』によると後に更に穣侯に遷されます。
 
丁巳(二十八日)、趙王劉良を趙公に、太原王劉章を斉公に、魯王劉興を魯公にしました。
劉良は光武帝の叔父、劉章と劉興は光武帝の兄劉縯の子です。
 
この時、宗室として封侯された者や国が断絶してから改めて封侯された者は合わせて百三十七人いました。
 
富平侯張純は張安世の四世孫で、王莽の世を経歴しましたが、敦謹(敦厚慎重)で法を遵守し、西漢時代からの爵位保全しました。
建武の初年に張純が率先して宮闕を訪ねたため、光武帝は侯位をそのままとしました。
しかし有司が反対して上奏しました「列侯が宗室ではないのなら、国を復すべきではありません(宗室ではない列侯は、以前の侯位を与えるべきではありません)。」
光武帝は「張純は宿衛を勤めて十余年になるから(侯位を)廃す必要はない」と言い、改めて武始侯に封じましたが、食(戸数。封地は富平侯の半分になりました。
 
庚午(中華書局『白話資治通鑑』は「庚午」を恐らく誤りとしています。「辛未」が三月十二日なので(下述)、「庚午」は月が変わって三月十一日だと思われます)、殷紹嘉公孔安を宋公に、周承休公姫常を衛公に改めました。
 
西漢成帝時代に孔子の子孫に当たる孔吉、または孔何斉が商(殷)王室を継承する者として殷紹嘉侯に封じられ、間もなくして宋公になりました。
王莽時代、宋公孔弘が章昭侯に落とされましたが、光武帝が即位してから、章昭侯孔安が西漢時代の殷紹嘉公に戻されました東漢光武帝建武五年29年参照)
今回、孔安がまた宋公になりました。
 
西漢武帝時代、姫嘉が周王室の後代として周子南君に封じられ、後に姫延年が周承休侯に改められました。成帝時代には公爵になり、平帝時代に周承休公姫党が鄭公になりました
王莽時代は鄭公から章平公に改められましたが、光武帝即位後に周承休公に戻され東漢光武帝建武二年26年参照)、今回更に衛公に改めました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代47 光武帝(四十七) 封侯 37年(2)