東漢時代47 光武帝(四十七) 封侯 37年(2)

今回は東漢光武帝建武十三年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
西京西漢の十三国(実際は九国です)を省いて他の郡国に属させました。
広平国を鉅鹿郡に属させ、真定国を常山郡に属させ、河閒国(河間国)を信都国に属させ、城陽国を琅邪郡(後に光武帝の子劉京が封じられて王国になります)に属させ、泗水国を広陵郡に属させ、淄川国を高密県(後に鄧禹が封侯されて侯国になります)に属させ(『後漢書郡国志四』には「菑川、高密、膠東の三国を北海の県属にした」とあります。淄川は高密県の一部になり、更に北海国に属すことになったようです。あるいは、淄川が高密に属したというのは誤りで、直接、北海に属したのかもしれません)、膠東国を北海国に属させ、六安国を廬江郡に属させ、広陽国(あるいは郡。以前、劉良が広陽王になりましたが、後に趙王に遷されました。当時、広陽国王は存在しないと思われます)を上谷に属させました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
三月辛未(十二日)、沛郡太守韓歆を大司徒に任命しました。
本年正月に死んだ侯霸の代わりです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
丙子(十七日)、行大司空(大司空代理)馬成を罷免して再び揚武将軍にしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
大司馬・呉漢が兵を整えて蜀から帰還し、宛に至りました。
光武帝は呉漢に詔を発して、故郷の家を訪ねて墓参りをさせました(過家上冢)。また、穀二万斛を下賜しました。
 
夏四月、呉漢が京師に入りました。
光武帝が将士を大饗し(大宴を開いて将士を労い)、広く慰労して功績を記録しました(班労策勳)
功臣で増邑更封(改封)された者は三百六十五人、外戚恩沢(特別に恩恵を与えること)として封侯された者は四十五人います。
 
資治通鑑』はここで鄧禹、李通、賈復の封侯を書いています。以下『資治通鑑』からです。
鄧禹を定封封地を定めること)して高密侯にしました。食封地は四県です。
李通を固始侯に、賈復を膠東侯にしました。それぞれ食六県です。
資治通鑑』胡三省注によると、固始侯国は汝南郡に属し、元は寝県でしたが、光武帝が改名しました。寝丘は土地が痩せているため、かつて孫叔敖春秋時代楚国の令尹)が敢えて自分の封邑にしました。李通は叔敖敖が寝丘を邑に選んだことに敬仰しました。そこで光武帝は李通を嘉して寝丘を与えました。
 
後漢書鄧寇列伝(巻十六)』によると、鄧禹は建武元年25年)に酇侯に封じられ、翌年、梁侯に改められました。食四県です。本年光武帝建武十三年37年)、更に高密侯に改められ、封地は同じく四県とされました。
賈復は『後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』によると、光武帝が即位してから冠軍侯に封じられ、建武二年(26)に穰と朝陽の二県が加封されました。本年、膠東侯に改められ、食六県になりました。
李通は『後漢書李王鄧来列伝(巻十五)』と『資治通鑑』で記述が異なります。『後漢書』では、李通が固始侯に封じられたのは建武二年26年)で、封地の県数は書かれていません。
 
後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』に戻ります。
その他の功臣もそれぞれ差をつけて封侯改封されました。
既に没した者は子孫が益封(加封)されたり、支庶嫡系以外の子孫)が更封(改封)されました。
 
光武帝は軍旅に久しくいたため、武事を嫌いました。また、天下の疲耗(疲弊消耗)も知っていたため、休息を思い楽しみ(原文「思楽息肩」。「息肩」は「肩を休息させること」で、重い責任や労役を解くことの比喩として使われます)、隴蜀を平定してからは、警急(危急。緊急)の時以外は軍旅について語らなくなりました。
かつて皇太子が攻戦について訊ねたことがありましたが、光武帝はこう言いました「昔、衛霊公が陳(陣。戦事)を問うたが、孔子は答えなかった(『論語』の故事です。衛霊公が孔子に軍事について問いましたが、孔子は「俎豆の事(祭祀儀礼は聞いたことがありますが、軍旅の事は学んだことがありません」と答えました)。これは汝が及ぶところではない(汝が口出しすることではない)。」
 
資治通鑑』はこの説話を本年光武帝建武十三年・37年)に書いているので、皇太子は劉彊を指すように思えますが、元になる『後漢書光武帝紀下』は光武帝死後にこの説話を紹介しており、いつの事かははっきりさせていません。
劉彊は光武帝建武十九年43年)に皇太子を廃されて東海王になり、劉荘が皇太子に立ちます。後の明帝です。『後漢書光武帝紀下』を見ると、この「皇太子」は劉荘を指すようです光武帝中元二年・57年に再述します)
 
本文に戻ります。
鄧禹や賈復は、光武帝が武器を収めて文徳を修めようとしており(偃干戈修文徳)、功臣が京師で衆(大軍)を擁すのを欲していないと知り、甲兵を去って(兵権を返して)儒学に専心することにしました。
光武帝も彼等のことを考慮し、功臣の爵土を保全させたいと欲して、吏職(官員としての職務)によって過失を犯させないようにしました(功臣が官職に就いて職務上の過失を犯したら爵邑を失うことになるので、高位から退かせました。実際には功臣の実権を奪う目的があったと思われます)
こうして左右将軍の官が廃されました(賈復は左将軍、鄧禹は右将軍でした)
 
建威大将軍・耿弇等も大将軍や将軍の印綬を返上し、皆、列侯として自分の邸宅に帰りました(就第)
光武帝は彼等の位を加えて特進とし、定期的に朝会に参加する権利を与えました(加位特進奉朝請)
 
鄧禹は内行(普段の節操、行動)が淳備(純粋無欠)でした。
十三人の子がおり、それぞれに一芸を守らせました(習得させました)。家門を正して子や孫を教育する様子は(修整閨門,教養子孫)、全て後世の法(規範)とすることができます。
鄧禹は必要な費用を全て国邑封地からまかない、それ以外の産業によって利益を得ようとはしませんでした(不修産利)
 
賈復の為人は剛毅方直で、大節を重視しました。
私第(自分の邸宅)に帰ってからは闔門して(門を閉じて)威重(威厳ある心態、気魄)を養います。
朱祜等が賈復は宰相に相応しいと考えて推挙しましたが、光武帝はちょうど吏事(政事)において三公を譴責していたところだったため光武帝と三公の間に何があったのかはわかりません。原文「帝方以吏事責三公」)、功臣を三公に任用しませんでした(功臣を三公として用いたら、功臣の名誉を傷つけることになる恐れがあるので、任用しませんでした)
当時、列侯では高密(鄧禹)、固始(李通)、膠東(賈復)の三侯だけが公卿と共に国家の大事を参議し、恩遇(恩恵待遇)が甚だしく厚くなっていました。
光武帝は功臣を制御しましたが、いつも回容(法を曲げて寛容に処置すること)して小さい過失を赦すことができました。
遠方から珍甘(珍味)が献上されたら、必ず先に全ての諸侯に下賜し、太官(皇族の飲食を掌る官)には余りがありませんでした。そのため、諸侯は皆、福禄を保ち、誅譴(誅殺譴退)される者がいませんでした。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
益州が公孫述の瞽師(盲目の楽師)、郊廟の楽器(楽器や礼器)、葆車(鳥の羽で作った傘がある車)、輿輦(「輿」は車の総称、「輦」は人が牽いたり押して移動する車です。「輿輦」は多くの場合、皇帝の車を指します)を雒陽に届けました。法物(帝王が儀仗や祭祀で使う器物)が始めて完備します。
 
公孫述は表面的な儀礼を重視していました東漢光武帝建武四年28年参照)
一方の東漢政府は公孫述が使っていた器物を蜀から運んでやっと法物を整えられました。公孫述の儀礼制度が完成したものだったことが分かります。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
当時は兵革(戦争)が既に収束し、天下が少事(平穏)になったので、光武帝は文書や調役(賦税徭役)を簡寡(簡潔かつ少数)にすることに務めました。その結果、以前の十分の一程度になりました。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
甲寅(中華書局『白話資治通鑑』は「甲寅」を恐らく誤りとしています)冀州竇融を大司空に任命しました。
 
竇融は自分が旧臣ではないのに、一旦入朝したら功臣の右(上)になったため、いつも朝会の進見(謁見)において、容貌や辞気(語気。口調)が甚だしく卑恭(腰が低くて恭しいこと)でした。そのため光武帝はますます竇融を親厚しました。
しかし竇融はとても慎重で、久しく不安を抱き、しばしば爵位を辞そうとしました。
竇融が上書して言いました「臣融には子がおり、朝夕とも経芸儒学の経典)によって教導しています。天文を観させず、讖記(預言書)を見させず、誠に恭粛(謙虚かつ厳粛な態度)して事を畏れ、恂恂(慎重な様子)と道を守らせることを欲し、才能があることは願っていません。連城広土(城を連ねた広い土地)を継承させ、かつての諸侯王国のような待遇を享受させるなどということは、なおさら願いません(何況乃当伝以連城広土,享故諸侯王国哉)。」
上書後に竇融がまた光武帝の暇な時を探して謁見を求めましたが、光武帝は許可しませんでした。
 
後日、朝会が終わってから竇融が席の後ろで逡巡(行ったり来たりすること)しました。光武帝は竇融がまた官職を譲ろうとしていると知り、左右の者を送って皇帝の言葉を伝え、竇融を外に出させました。
 
数日後に竇融が会見した時、光武帝は竇融を迎え入れて詔を発し、こう言いました「先日は公が譲職還土(職を譲って封地を返すこと)を欲していると知ったから、公に命じて暑熱なので暫く自便させた(自由にさせた。休ませた)。今、相見したが、他の事を論じるべきだ。再び(辞職について)語ってはならない。」
竇融は重ねて陳情することができなくなりました。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
五月、匈奴が河東を侵しました。
 
[十四] 『後漢書光武帝紀下』からです。
秋七月、広漢徼外(界外)の白馬羌の豪(長)が種人(族人)を率いて内属しました(中原の東漢に帰順しました)
後漢書光武帝紀下』の注によると、羌は百五十四種あり、広漢西北の種族を白馬羌といいました。
 
[十五] 『後漢書光武帝紀下』からです。
九月、日南徼外(界外)の蛮夷が白雉や白兔を献上しました。
 
[十六] 『後漢書光武帝紀下』からです。
冬十二月甲寅、光武帝が詔を発し、益州の民で八年以来光武帝建武八年32年以降)、さらわれて奴婢にされた者(被略為奴婢者)を全て免じて庶民にしました。また、依託して(他者に頼って)人の下妻(妾)になったものの、去ることを欲した者は全て自由にさせ(恣聴之)、もし拘留したら青徐二州と同じように東漢光武帝建武七年31年参照)人をさらった罪と同じ法で裁くことにしました(比青徐二州以略人法従事)
 
[十七] 『後漢書光武帝紀下』からです。
前年に廃した金城郡を再び置きました。
 
 
 
次回に続きます。