東漢時代49 光武帝(四十九) 韓歆 39年(1)

今回は東漢光武帝建武十五年です。二回に分けます。
 
己亥 39
 
[] 『後漢書光武帝紀下』後漢書伏侯宋蔡馮趙牟韋列伝(巻二十六)』と『資治通鑑』からです。
春正月辛丑(二十三日)、大司徒韓歆を罷免しました。
 
韓歆は直言を好み、隠諱(忌避隠し事)がなかったため、光武帝はいつも許容できませんでした。
 
かつて朝会の際、光武帝が隗囂と公孫述の間で交換された書を読みました。それを聞いた韓歆は「亡国の君にも全て才があります。桀紂にもまた才がありました」と言いました。
光武帝は激怒し、その発言が激発(興奮して過激なこと。または正常ではないこと)であるとみなしました。
 
この日(正月辛丑)、韓歆が光武帝の面前で飢餓凶作になることを論証し(證歳饑凶)、天を指したり地に描いて(「指天画地」。身振り手振りを加えて語ること。遠慮なく激しく話すこと)、その言葉は甚だ剛切(剛直懇切)でした。
これが原因で光武帝は韓歆を罷免して田里に帰らせましたが、まだ赦すことができず、再び使者を派遣して、詔によって譴責しました。
その結果、韓歆と子の韓嬰が自殺しました。
 
韓歆はかねてから重名(厚い名声)があり、死に値する罪でもなかったため、多くの人が不服でした。
そこで光武帝は銭穀を追賜し、礼を成して(罪人とみなさず正式な礼を用いて)埋葬しました。
 
資治通鑑』の編者司馬光はこの出来事を「惜しいことだ(惜乎)。光武の世をもってしても、韓歆が直諫を用いて死んでしまった。これは仁明の累(仁徳英明な光武帝時代における欠点。「累」は「過失」「欠陥」の意味です)というものではないか」と評価しています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』『後漢書天文志上』と『資治通鑑』からです。
丁未(二十九日)、孛星(彗星の一種)が昴に現れ、徐々に西北に向かって営室に入り、離宮を犯しました。
 
昴は七星で形成されており、西方白虎七宿に属します。営室は北方玄武七宿に属す室宿を指し、十一星で形成されています。離宮は室宿に含まれます。
後漢書天文志上』の注は、「孛星が昴にいたら大国で兵が起きる」「彗出が営室と東壁(北方玄武七宿に属し、営室の隣に位置します)の間に出たら兵が起きることになる」と解説しています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
汝南太守欧陽歙を大司徒に任命しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
建義大将軍朱祐(朱祜)を罷免しました。
 
後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』によると、この年、朱祜が京師に入朝して大将軍の印綬を返上しました。光武帝は朱祜を雒陽に留めて朝会に参加する特権を与えました(奉朝請)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
匈奴の寇鈔(侵略)が日に日に盛んになり、州郡では制御できなくなりました。
 
二月、光武帝が呉漢を派遣し、馬成、馬武等を率いて匈奴を撃つために北上させました。
また、胡寇匈奴の侵略)を避けるために雁門、代郡、上谷三郡の吏民六万余口を居庸関、常山関以東に移住させました。
後漢書光武帝紀下』の注によると、代郡に常山関があり、上谷郡に居庸関がありました。
 
この後、匈奴左部が再び塞内に転居するようになりました。
東漢朝廷はこれを憂いて縁辺(辺境)の兵を増員し、各部(各拠点)に数千人を置きました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
以前、巴蜀が平定されたばかりの頃、大司馬呉漢が上書して皇子を封侯するように請いましたが、光武帝は同意しませんでした。
呉漢の上奏は数年にわたって繰り返されます。
 
三月、光武帝が詔を発して群臣に協議させました。
大司空竇融、固始侯李通、膠東侯賈復、高密侯竇禹、太常(姓は不明です。『補後漢書年表・百官巻九上)』では、建武元年25年)に邳彤が太常になっていますが、『後漢書任李万邳劉耿列伝(巻二十一)』を見ると、邳彤は太常になって一月余で少府に転じ、その年に罷免されています。『補後漢書年表・百官巻九上)』で邳彤の後に太常になっているのは建武三十年54年)の桓栄で、その間の記述が抜けています)等が上奏しました「古では諸侯を封建して京師の藩屏にしました。周は八百を封じ、同姓諸姫(周王と同じ姫姓)は全て国を建て、王室を夾輔(補佐)し、天子に尊事し、永長に享国し(国を保ち)、これが後世の法(規範)になりました。だから『詩(魯頌閟宮)』はこう言っています『大いに汝の地を開き、周室の輔佐となれ(大啓爾宇,為周室輔)。』
高祖は聖徳によって広く天下を有し(原文「光有天下」。この「光」は「広」の意味です)、また、親親(家族と親しむこと。親族を大切にすること)に務めたので、兄弟諸子を封じて(諸侯に)立て、旧章西周の制度)に違えませんでした。
陛下は徳が天下を覆い(徳横天地)、宗統を興復し、徳を褒めて勲功を賞し(襃徳賞勳)、九族を親睦させました。功臣宗室が全て封爵を蒙り、多くの者が広地を授かって、ある者は県を連ねて属させています(数県にまたがって統治しています)。今、皇子は天のおかげで(賴天)、成人の服を着て趨拝できるようになりました(原文「勝衣趨拝」。「勝衣」は成人の服を着ることで、成長したという意味があります。「趨拝」は小走りになって謁見拝礼することです。小走りは目上の人の前で移動する時の礼です)。しかし陛下が恭謙克譲(謙虚謙譲)によって(自分の子を封侯することを)抑えて議論しなかったので、群臣百姓で失望していない者はいません。盛夏吉時の機に号位を定めて広く藩輔とし(『礼記月令』に「立夏の日、天子が自ら三公、九卿、大夫を統率して南郊で夏を迎える。還ってから賞を行って諸侯を封じる」とあります)、親親を明らかにし、宗廟を尊び、社稷を重んじ、古に応じて旧制に合わせ(応古合旧)、衆心を厭塞(不満を塞ぐこと。満足させること)するべきです。臣等は大司空が輿地図(地図)を献上し(司空が土地を管理しています)、太常が吉日を択んで礼儀を具える(準備する)ことを請います。」
光武帝は制(皇帝の言葉)を発して「可」と言いました。
 
夏四月戊申(初二日)光武帝が太牢(牛豚を犠牲にする祭祀の形式)によって宗廟で告祠(報告の祭祀)を行いました。
丁巳(十一日)、大司空竇融を派遣して宗廟に報告してから、皇子劉輔を右翊公に、劉英を楚公に、劉陽を東海公に、劉康を済南公に、劉蒼を東平公に、劉延を淮陽公に、劉荊を山陽公に、劉衡を臨淮公に、劉焉を左翊公に、劉京を琅邪公に封じました。
 
癸丑(十七日)光武帝が長兄劉縯を追諡して斉武公とし、次兄劉仲を追諡して魯哀公にしました。
 
劉縯には二子がおり、以前、劉章は太原王に、劉興は魯王に封じられましたが光武帝建武二年26年参照)、後に太原王劉章は斉公に、魯王劉興は魯公に改められました光武帝建武十三年37年参照)
今回、劉縯が斉武公に、劉仲が魯哀公に追諡されたので、斉公劉章は父劉縯を、魯公劉興は叔父劉仲を継いだことになります。
 
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』を見ると、この年に劉縯が追諡されて斉武王に、劉仲が魯哀王になっていますが、劉章と劉興は公爵なので、劉縯と劉仲も斉武公と魯哀公が正しいはずです。
劉章と劉興は光武帝建武十九年43年)に再び王になります。劉縯と劉仲もその時に王号が追謚されたのだと思われます。
 
本文に戻ります。
光武帝は兄・劉縯が早逝して功業を成就できなかったことを念じ、劉章と劉興を撫育(大切に育てること)して恩愛をとても厚くしました。
二人がまだ若いのに尊貴な地位にいたため、光武帝は吏事(官吏の職務)を経験させたいと思い、劉章を平陰令代理に任命し(試守平陰令)、劉興を緱氏令代理に任命しました(試守緱氏令)
「試守」は「試用代理」の意味で、『後漢書宗室四王三侯列伝』の注によると、「試守」に任命されてから職責を全うして満一年が経ったら「真(正規の職)」になります。
 
後に劉章は梁郡太守に、劉興は弘農太守に任命されました。
 
 
 
次回に続きます。