東漢時代49 光武帝(四十九) 韓歆 39年(1)
己亥 39年
春正月辛丑(二十三日)、大司徒・韓歆を罷免しました。
この日(正月辛丑)、韓歆が光武帝の面前で飢餓凶作になることを論証し(證歳饑凶)、天を指したり地に描いて(「指天画地」。身振り手振りを加えて語ること。遠慮なく激しく話すこと)、その言葉は甚だ剛切(剛直懇切)でした。
これが原因で光武帝は韓歆を罷免して田里に帰らせましたが、まだ赦すことができず、再び使者を派遣して、詔によって譴責しました。
その結果、韓歆と子の韓嬰が自殺しました。
韓歆はかねてから重名(厚い名声)があり、死に値する罪でもなかったため、多くの人が不服でした。
『資治通鑑』の編者・司馬光はこの出来事を「惜しいことだ(惜乎)。光武の世をもってしても、韓歆が直諫を用いて死んでしまった。これは仁明の累(仁徳英明な光武帝時代における欠点。「累」は「過失」「欠陥」の意味です)というものではないか」と評価しています。
昴は七星で形成されており、西方白虎七宿に属します。営室は北方玄武七宿に属す室宿を指し、十一星で形成されています。離宮は室宿に含まれます。
汝南太守・欧陽歙を大司徒に任命しました。
建義大将軍・朱祐(朱祜)を罷免しました。
この後、匈奴左部が再び塞内に転居するようになりました。
呉漢の上奏は数年にわたって繰り返されます。
三月、光武帝が詔を発して群臣に協議させました。
大司空・竇融、固始侯・李通、膠東侯・賈復、高密侯・竇禹、太常・登(姓は不明です。『補後漢書年表・百官(巻九上)』では、建武元年(25年)に邳彤が太常になっていますが、『後漢書・任李万邳劉耿列伝(巻二十一)』を見ると、邳彤は太常になって一月余で少府に転じ、その年に罷免されています。『補後漢書年表・百官(巻九上)』で邳彤の後に太常になっているのは建武三十年(54年)の桓栄で、その間の記述が抜けています)等が上奏しました「古では諸侯を封建して京師の藩屏にしました。周は八百を封じ、同姓諸姫(周王と同じ姫姓)は全て国を建て、王室を夾輔(補佐)し、天子に尊事し、永長に享国し(国を保ち)、これが後世の法(規範)になりました。だから『詩(魯頌・閟宮)』はこう言っています『大いに汝の地を開き、周室の輔佐となれ(大啓爾宇,為周室輔)。』
高祖は聖徳によって広く天下を有し(原文「光有天下」。この「光」は「広」の意味です)、また、親親(家族と親しむこと。親族を大切にすること)に務めたので、兄弟諸子を封じて(諸侯に)立て、旧章(西周の制度)に違えませんでした。
陛下は徳が天下を覆い(徳横天地)、宗統を興復し、徳を褒めて勲功を賞し(襃徳賞勳)、九族を親睦させました。功臣宗室が全て封爵を蒙り、多くの者が広地を授かって、ある者は県を連ねて属させています(数県にまたがって統治しています)。今、皇子は天のおかげで(賴天)、成人の服を着て趨拝できるようになりました(原文「勝衣趨拝」。「勝衣」は成人の服を着ることで、成長したという意味があります。「趨拝」は小走りになって謁見拝礼することです。小走りは目上の人の前で移動する時の礼です)。しかし陛下が恭謙克譲(謙虚・謙譲)によって(自分の子を封侯することを)抑えて議論しなかったので、群臣百姓で失望していない者はいません。盛夏吉時の機に号位を定めて広く藩輔とし(『礼記・月令』に「立夏の日、天子が自ら三公、九卿、大夫を統率して南郊で夏を迎える。還ってから賞を行って諸侯を封じる」とあります)、親親を明らかにし、宗廟を尊び、社稷を重んじ、古に応じて旧制に合わせ(応古合旧)、衆心を厭塞(不満を塞ぐこと。満足させること)するべきです。臣等は大司空が輿地図(地図)を献上し(司空が土地を管理しています)、太常が吉日を択んで礼儀を具える(準備する)ことを請います。」
丁巳(十一日)、大司空・竇融を派遣して宗廟に報告してから、皇子・劉輔を右翊公に、劉英を楚公に、劉陽を東海公に、劉康を済南公に、劉蒼を東平公に、劉延を淮陽公に、劉荊を山陽公に、劉衡を臨淮公に、劉焉を左翊公に、劉京を琅邪公に封じました。
今回、劉縯が斉武公に、劉仲が魯哀公に追諡されたので、斉公・劉章は父・劉縯を、魯公・劉興は叔父・劉仲を継いだことになります。
本文に戻ります。
後に劉章は梁郡太守に、劉興は弘農太守に任命されました。
次回に続きます。