東漢時代50 光武帝(五十) 検地 39年(2)

今回は東漢光武帝建武十五年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
六月庚午、再び屯騎、長水、射声三校尉の官を置きました光武帝建武七年31年参照)
また、青巾左校尉を改めて越騎校尉にしました光武帝建武九年33年参照)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝は天下の墾田(開墾された田地)の多くが報告された面積と一致せず(原文「多不以実自占」。「自占」は自分で測って報告することです)、また、戸口や年紀(年齢)もそれぞれ増減があると考え、州郡に詔を下して開墾した田地の面積(墾田頃畆)および戸数、年齢を検覈(検査考察)させました。
ところが、刺史や太守の多くが詐巧(詐術。詐欺)を為し、度田(検地。田地の測量)を名目にして分別なく妄りに測量を行いました。民を田の中に集め、廬屋(家屋)や里落も併せて測量します(実際の田地の面積よりも広くなるので税率が上がります)
そのため民が道を遮って啼呼(泣き叫ぶこと)しました。
官吏のある者は、豪右(豪族。有力者)には優饒(寛容。寛大)だったため、羸弱の者(弱者。貧農)がますます侵害されました(豪族の田地は実際より少なく測量されたため、その分、貧農が税を負担することになります)
 
諸郡がそれぞれ雒陽に使者を送って奏事(上奏、報告)しました。
光武帝が陳留の官吏による牘(文を書く木片)に一文があるのを見つけました。それを見ると「潁川、弘農は問うてもいい。河南、南陽は問うてはならない(潁川、弘農可問,河南、南陽不可問)」と書かれています。
光武帝が官吏に詰問して意味を問いました。
官吏は服そうとせず(知らないふりをして。原文「吏不肯服」)、「長寿街(『資治通鑑』胡三省注によると、長寿街は雒陽城中にあります)でこれを得ました(拾いました)」と偽ります。
光武帝は怒りを抱きました。
 
この時、東海公劉陽は十二歳でしたが、幄(帳)の後ろからこう言いました「吏(使者になった官吏)が郡の敕(命)を受けており、墾田を相方(比較)しようとしているのです(他の郡と検地の状況を比較したいのです。原文「当欲以墾田相方耳」)。」
光武帝が言いました「それならば(即如此)、なぜ河南と南陽は問うてはならない(比較してはならない)と言うのだ?」
劉陽が答えました「河南は帝城があり、多くの近臣がいます。南陽は帝郷(皇帝の故郷)なので、多くの近親がいます。田宅が制度を越えているので(踰制)、基準にできません。」
光武帝は虎賁将(『資治通鑑』胡三省注によると、虎賁中郎将を指します)に命じて官吏を詰問させました。
官吏は罪を認めて事実を語り(乃実首服)、その内容は劉陽が答えた通りでした。
この件があってから、光武帝はますます劉陽に一目置いて愛すようになりました。
後に劉陽は劉荘に改名し、東漢第二代皇帝明帝になります。
 
光武帝が謁者を派遣し、二千石の長吏で私情を優先して公正ではない者(阿枉不平の者)を考実(実情の調査)させました。
冬十一月甲戌(初一日)、大司徒欧陽歙が罪に坐して獄に下されました。かつて汝南太守だった時、計測した田地の面積が実際と異なり(度田不実)、しかも千余万にのぼる収賄の罪を犯したためです(贓罪千余万)
欧陽歙は代々『尚書』を教授し、八世(八代)にわたって博士になりました。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢の欧陽生が伏生の『尚書』を伝えてから、欧陽歙で八世になります。
伏生と欧陽生は『漢書儒林伝(巻八十八)』に記述があります。
伏生は済南の人で、秦代に博士になりました。秦が禁書焚書を行った時、伏生は『尚書』等の書を壁の中に隠し、漢が天下を統一してからまた探し出しました。斉魯一帯で経学を教授し、千乗の人・欧陽生(字は和伯)も教えを受けました。
後に西漢文帝が『尚書』に習熟した者を求めて伏生を招きましたが、伏生は既に九十余歳だったため赴くことができませんでした。そこで文帝は朝錯(鼂錯)を派遣して学ばせました。
 
本文に戻ります。
欧陽歙が逮捕されたため、諸生(学生)が宮闕を囲みました。欧陽歙のために求哀(命乞い)する者が千余人もおり、ある者は自ら髠剔(『資治通鑑』胡三省注によると、「髠」は髪を剃ること、「剔」は体中の毛を剃ることです)しました。
また、平原の人礼震(礼が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、衛に大夫礼孔がいました)は十七歳でしたが、欧陽歙の代わりに死を求めました。
しかし光武帝は欧陽歙を赦さず、欧陽歙は獄中で死にました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
十二月庚午(二十七日)、関内侯戴渉を大司徒にしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
盧芳が再び匈奴から高柳に入って居住しました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
この年、驃騎大将軍杜茂が軍吏を使って人を殺したため、罪に坐して罷免されました。
光武帝は揚武将軍馬成を杜茂の代わりに派遣し、匈奴に備えるために障塞を修築して十里ごとに一候(堠。土堡。見張り)を設けさせました。
 
また、光武帝は騎都尉張堪に杜茂の営を統率させました。張堪は高柳で匈奴を撃破します。
光武帝は張堪を漁陽太守に任命しました。
 
張堪は八年にわたって政務を行い、その間、匈奴は敢えて塞を侵さなくなりました。
張堪が民に耕稼(農業)を奨励して殷富(富裕)をもたらしたため、百姓が歌を作りました「桑に附枝がなく、麦秀して(麦が繁茂して)二つに分かれる。張君が政事を為せば、これより楽しいことはない(「桑無附枝,麦秀両岐。張君為政,楽不可支」)。」
「附枝」は太い枝から分かれて生えた小枝です。「桑無附枝」というのは、桑に手入れがされているので太い枝しかないという意味です。小枝を除いて太い枝だけを残せば桑の葉が茂ります。
「麦秀」は麦が茂ることです。「麦秀両岐」は麦がよく育ち、一本に二つの穂が実るという意味です。
最後の「楽不可支」は直訳すると「楽しくて支えられない」です。悦びや楽しみが極まるという意味です。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
虎牙大将軍安平侯蓋延が死にました。
後漢書呉蓋陳臧列伝(巻十八)』によると、蓋延の子蓋扶が跡を継ぎました。
 
 
 
次回に続きます。