東漢時代50 光武帝(五十) 検地 39年(2)
光武帝は天下の墾田(開墾された田地)の多くが報告された面積と一致せず(原文「多不以実自占」。「自占」は自分で測って報告することです)、また、戸口や年紀(年齢)もそれぞれ増減があると考え、州郡に詔を下して開墾した田地の面積(墾田頃畆)および戸数、年齢を検覈(検査・考察)させました。
ところが、刺史や太守の多くが詐巧(詐術。詐欺)を為し、度田(検地。田地の測量)を名目にして分別なく妄りに測量を行いました。民を田の中に集め、廬屋(家屋)や里落も併せて測量します(実際の田地の面積よりも広くなるので税率が上がります)。
そのため民が道を遮って啼呼(泣き叫ぶこと)しました。
官吏のある者は、豪右(豪族。有力者)には優饒(寛容。寛大)だったため、羸弱の者(弱者。貧農)がますます侵害されました(豪族の田地は実際より少なく測量されたため、その分、貧農が税を負担することになります)。
諸郡がそれぞれ雒陽に使者を送って奏事(上奏、報告)しました。
光武帝が官吏に詰問して意味を問いました。
光武帝は怒りを抱きました。
この時、東海公・劉陽は十二歳でしたが、幄(帳)の後ろからこう言いました「吏(使者になった官吏)が郡の敕(命)を受けており、墾田を相方(比較)しようとしているのです(他の郡と検地の状況を比較したいのです。原文「当欲以墾田相方耳」)。」
官吏は罪を認めて事実を語り(乃実首服)、その内容は劉陽が答えた通りでした。
この件があってから、光武帝はますます劉陽に一目置いて愛すようになりました。
伏生は済南の人で、秦代に博士になりました。秦が禁書(焚書)を行った時、伏生は『尚書』等の書を壁の中に隠し、漢が天下を統一してからまた探し出しました。斉・魯一帯で経学を教授し、千乗の人・欧陽生(字は和伯)も教えを受けました。
本文に戻ります。
欧陽歙が逮捕されたため、諸生(学生)が宮闕を囲みました。欧陽歙のために求哀(命乞い)する者が千余人もおり、ある者は自ら髠剔(『資治通鑑』胡三省注によると、「髠」は髪を剃ること、「剔」は体中の毛を剃ることです)しました。
しかし光武帝は欧陽歙を赦さず、欧陽歙は獄中で死にました。
十二月庚午(二十七日)、関内侯・戴渉を大司徒にしました。
盧芳が再び匈奴から高柳に入って居住しました。
この年、驃騎大将軍・杜茂が軍吏を使って人を殺したため、罪に坐して罷免されました。
光武帝は張堪を漁陽太守に任命しました。
張堪は八年にわたって政務を行い、その間、匈奴は敢えて塞を侵さなくなりました。
張堪が民に耕稼(農業)を奨励して殷富(富裕)をもたらしたため、百姓が歌を作りました「桑に附枝がなく、麦秀して(麦が繁茂して)二つに分かれる。張君が政事を為せば、これより楽しいことはない(「桑無附枝,麦秀両岐。張君為政,楽不可支」)。」
「附枝」は太い枝から分かれて生えた小枝です。「桑無附枝」というのは、桑に手入れがされているので太い枝しかないという意味です。小枝を除いて太い枝だけを残せば桑の葉が茂ります。
「麦秀」は麦が茂ることです。「麦秀両岐」は麦がよく育ち、一本に二つの穂が実るという意味です。
最後の「楽不可支」は直訳すると「楽しくて支えられない」です。悦びや楽しみが極まるという意味です。
虎牙大将軍・安平侯・蓋延が死にました。
次回に続きます。