東漢時代51 光武帝(五十一) 徵側、徵貳挙兵 40年
庚子 40年
交趾麊泠県の雒将の女子(娘)・徵側はとても雄勇(勇猛)でした。
交趾太守・蘇定が法を用いて拘束したため(以法縄之)、徵側は忿怨(怨恨)しました。
「雒将」について、北魏の酈道元が著した『水経注(巻三十七)』に記述があります。『水経注』は『交州外域記(現在は伝わっていません)』から引用してこう書いています「昔、交阯(交趾)にまだ郡県がなかった時(中原政権の支配下に置かれていなかった時)、土地に雒田があった。その田(雒田)は潮水に従って上下した(海岸に近い河川の潮の満ち引きによって水位が上下しました。潮水を利用した灌漑です)。民はその田を開墾して食を満たしたので、雒民と呼ばれた。(雒民は)雒王、雒侯を置いて諸郡県を管理させ、県には多数の雒将が設けられた。雒将は銅印青綬を佩した。」
このように、「雒将」は交趾の民(雒民)における支配者層に属し、徵側はその娘でした。
春二月、徵側と妹の徵貳が反しました。
九真、日南、合浦の蛮俚(蛮人)が全て呼応します。
徵側は六十五の城邑を攻略して自ら王になり、都を麊泠に起きました。
交趾刺史と諸太守は自分を守ることしかできませんでした(討伐する力がありませんでした)。
三月辛丑晦、日食がありました。
秋九月、河南尹・張伋および諸郡守十余人が、検地後に報告した田地の面積と実際の面積が異なったため(度田不實)、罪に坐して獄に下され、全て死亡しました。
後に光武帝が従容(ゆったりとしておだやかな様子)とした態度で虎賁中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢武帝が期門郎を置き、武器を持って皇帝の外出に従わせました。平帝時代に虎賁郎に改名され、中郎将が置かれました。虎賁の騎兵は鶡冠(武冠)を被って虎文単衣(虎模様の単衣)を着ました)・馬援に言いました「わしは以前、守・相を多数殺したことを甚だ恨んでいる(後悔している)。」
馬援が言いました「(彼等の)死はその罪と釣り合っています。なぜ多いということがあるでしょうか(死得其罪,何多之有)。死者は去っていくだけです。復生(蘇生)できません(但死者既往,不可復生也)。」
光武帝は大笑しました。
郡国の大姓(豪族。有力者)および兵長(軍の隊長)、群盗が所々で並起し、所在する地を攻めて略奪したり長吏を殺害しました。郡県が追討して軍隊が至ると解散しますが、去るとまた屯結(結集)します。青、徐、幽、冀の四州で最も被害が出ました(「群盗」というのは普通の盗賊の群れだけでなく、政府に対抗する民衆の勢力も含まれます。検地に反対して挙兵した者が多かったはずです)。
冬十月、光武帝が使者を送って郡国を訪ねさせました。群盗が互いに糾擿(検挙・告発)する機会を与え(自由に糾弾させ。原文「聴群盗自相糾擿」)、五人で共に一人を斬ったら五人の罪を除きました。また、官吏で逗留(積極的に討伐しないこと)・回避(盗賊から逃げること)したり、わざと賊を逃がした者も全て不問とし、禽討(討伐。逮捕)によって效(功績)を立てることを許しました。
牧(州牧)・守(太守)・令長(県令・県長)で、界内に坐すだけで盗賊がいても收捕(逮捕)しない者、または賊を恐れて城を棄て、守りを放棄した者(畏愞捐城委守者)も全てそれを負(罪)とせず、賊をどれだけ取獲(逮捕)できたかだけを殿最(成績。「殿」は考課の最下位、「最」は最上位です)としました。但し、賊を蔽匿(匿って隠すこと)した者だけはその罪を問います。
こうして牛馬を放牧しても収めなくなり(夜になっても牛馬を集めて帰る必要がなくなり)、邑門も閉じなくなりました(盗賊がいなくなったため、戸締りが必要なくなりました。原文「牛馬放牧不收,邑門不閉」)。
盧芳と閔堪が使者を送って東漢に降伏を請いました。
盧芳は上書して謝意を述べ、闕庭(宮城・朝廷)を思望している(入朝を希望している)ことを伝えました。
光武帝は盧芳に詔を発して、明年正月に朝見するように答えます。
王莽が乱を起こしてから(簒奪してから)、貨幣は布・帛・金・粟を混用していました(これは『光武帝紀下』の記述です。王莽が発行した貨幣は「金・銀・亀・貝・銭・布」です。「粟」が何を指すのかはわかりません。西漢時代は五銖銭が流通していましたが、王莽によって廃止されました)。
馬援が上奏し、以前のように五銖銭を鋳造するように進言しました。
しかしそこで詔が発せられ、南下を止めて翌年に改めて入朝するように命じられました。
次回に続きます。