東漢時代52 光武帝(五十二) 皇后廃立 41年
辛丑 41年
以前、懐県の大姓(豪族。有力者)・李子春の二人の孫が人を殺しました。
懐令・趙憙が徹底的に姦人を追及したため(窮治其姦)、二人の孫は自殺し、李子春は獄に繋がれます。
京師の貴戚(皇族。貴人)で李子春のために命乞いする者が数十人もいましたが、趙憙は最後まで同意しませんでした。
趙公・劉良が病になった時、光武帝が自ら見舞いに行き、言いたいことがないか聞きました。
劉良が言いました「かねてから李子春と厚く交わっています。今、罪を犯し、懐令・趙憙がこれを殺そうと欲していますが、その命を乞うことを願います(願乞其命)。」
劉良は何も言いませんでした。
劉良が死んでから、光武帝は劉良を追念して李子春を釈放しました。
趙憙は平原太守に昇格されました。
二月乙未晦、日食がありました。
皇太子・劉彊および右翊公・劉輔、楚公・劉英、東海公・劉陽、済南公・劉康、東平公・劉蒼が従い、潁川に巡行してから葉と章陵に進みました。
章陵はかつての舂陵で、光武帝が改名しました。
『欽定四庫全書・東観漢記(巻一)』によると、光武帝は日食があったため正殿を避けて生活し(原文「避正殿」。天に対する謙虚な姿勢を見せるために正殿から離れて起居しました)、多くの図讖(預言書)を読みました。しかし御坐(皇帝の座)の廡(ひさし)が浅かったため(御坐廡下浅露)、光武帝は風に中って病を発し(風邪を患い。原文「中風発疾」)、ひどい眩(目眩)に苦しみました。
光武帝の左右に侍る近臣で、こう報告する者がいました「大司馬史の病苦がこのようで動かすことができませんでしたが(不能動揺)、無理に公務を行い(自強従公)、車に乗って出発したところ、車を数里走らせたら病が治りました(病差)。」
四月二日、車駕(光武帝)が偃師で宿泊しました。病いが改善して数日後、南陽界に入って葉に至ります。車騎で巡察し、数日留まってから黎陽に行きました。兵馬千余頭を率いています(原文「以車騎省留数日行黎陽兵馬千余匹」。誤訳かもしれません)。
その後、章陵に至り、起居が平愈しました(病が完治して起居が正常に戻りました。原文「起居平愈」)。
妖賊・李広等が群起して(挙兵して)皖城を攻略しました。
秋九月、皖城が陥落して李広等は斬られました。
その後、弟子の李広等が「維汜は神と化した。不死である(神化不死)」と宣言し、百姓を惑わしました。
そこで馬援に諸郡の兵を動員させました。馬援は一万余人を集め、李広等を撃破して斬りました。
郅惲が光武帝に言いました「臣が聞くに、夫婦の好(愛情。関係)とは、父でも子を制御できない(父でも息子夫婦に口出しできない。原文「父不得之於子」。『資治通鑑』胡三省注によると、「得」は「制御」の意味です)といいます。臣下ならなおさら主君を制御できません(況臣能得之於君乎)。これが、臣が敢えて何も言わない理由です。しかしそうではありますが(雖然)、陛下が可否の計を念じ(実行するべきかどうかを考慮し)、天下に社稷に対する議を有させないようにする(天下に国家を議論させない、非難させようにする)ことだけを願います。」
長年皇后だった郭后を廃して冷遇したら天下の異論を招く恐れがあるため、郅惲は皇后の廃立については口出ししないものの、光武帝が郭后に対して配慮するように促しました。
光武帝が言いました「惲(汝)は善く自分の良心を推し拡げて主を量ることができ(善恕己量主)、わしが左右するところがあって天下を軽んじるはずがないと知っている(わしが天下の意思に背いて天下を軽んじるはずがないと知っている。「左右」は「逆を向く」「逆らう」という意味です。原文「知我必不有所左右而軽天下也」)。」
その他の兄弟も合わせて九国公が旧封(元の封国)に基いて王になりました。
郭皇后(光武郭皇后)が産んだ劉彊、劉輔、劉康、劉延、劉焉の四人、許美人が産んだ劉英と、陰皇后(光烈陰皇后)が産んだ劉陽、劉蒼、劉荊、劉衡、劉京の五人です。
光武帝建武二年(26年)、劉彊が皇太子に立てられ、建武十五年(39年)に十子が公爵になりました。劉輔は右翊公、劉英は楚公、劉陽は東海公、劉康は済南公、劉蒼は東平公、劉延は淮陽公、劉荊は山陽公、劉衡は臨淮公、劉焉は左翊公、劉京は琅邪公です。
今回、皇太子・劉彊と既に死んだ劉衡以外の九子が王になりました。
尚、劉彊は後に廃されて東海王になり、劉陽が皇太子になります。劉陽は劉荘に改名し、光武帝の死後に即位します。これが第二代皇帝・明帝です。
また、田廬(田地、民家)を観察してから、酒宴を開いて音楽を奏で(置酒作楽)、(故郷の宗族や旧知に)賞賜を与えました。
この時、宗室の諸母(諸婦人)が酣悦(喜悦)して互いにこう言いました「文叔(光武帝の字)は、若い頃は謹信(慎重で信を守ること)で、人と款曲(熱心な交際)をせず、ただ直柔(正直で温和)なだけでした。今、このようにできるとは思いもよりませんでした(今乃能如此)。」
光武帝は舂陵宗室のためにことごとく祠堂を建てました。
五羽の鳳皇が潁川の郟県に現れました。
十二月、光武帝が章陵から帰還しました。
しかし敦煌太守・裴遵(『資治通鑑』胡三省注によると、伯益の後代が𨛬郷に封じられたため、それを氏にしました。後に解邑に封じられて移ったため、「邑」を除いて「衣」に変えました)が上書してこう言いました「夷狄には大権を授けてはなりません。また(このようにしたら)諸国を失望させることになります。」
ところが沙車王の使者が印綬の交換に応じなかったため、裴遵が強引に奪いました。
西域の全ての国が莎車王に服属しました。
祭肜は祭遵の従弟で、勇力があり、虜(敵)が塞を侵す度にいつも士卒の鋒(先鋒)になって敵をしばしば敗走させました。
徵側等の寇乱が連年続きました。
また、馬援を伏波将軍に任命し、扶楽侯・劉隆を副(副将)にして、交趾に南征させました(翌年再述します)。
『後漢書・朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』と『資治通鑑』胡三省注によると、劉隆はかつて亢父侯に封じられましたが、検地の報告が実情と合わなかったため(度田不実)、建武十六年(40年)に免じられ、本年(建武十七年・41年)に改めて扶楽郷侯に封じられました。亢父は県、扶楽は郷です。
次回に続きます。