東漢時代54 光武帝(五十四) 徴側、徴貳鎮圧 43年(1)
癸卯 43年
五官中郎将・張純と太僕・朱浮が奏議(上奏・建議)しました「礼においては、人の子たる者は大宗につかえ(為人子事大宗)、私親(自分の親族)を降すものです。今の親廟四つを除き、先帝の四廟に代えるべきです。」
大司徒・戴渉等が上奏しました「元、成、哀、平の四廟を立てるべきです。」
宗廟について少し解説します。
張純、朱浮、戴渉等が上奏したのは大宗と小宗の問題です。西漢末にもしばしば議論されました。
そこで誰を祀るかが問題になりました。
「昭穆の次第」というのは宗族、宗廟における世代の秩序です。
宗廟には七廟が置かれ、最北に太祖廟、その前に六廟が建てられました。六廟は二列になっており、左の三廟を「昭輩廟」、右の三廟を「穆輩廟」といいます。これを「左昭右穆」といいます(この左右は太祖廟から見ての左右なので、左は東、右は西になります)。
宗廟で子が亡父を祀る時は、父の廟を「昭」に置きました。「昭」と「穆」は繰り返されるので、祖父は「穆」、曾祖(曾祖父)は「昭」、高祖(曾祖父の父)は「穆」になります。
「昭穆の次第」は宗廟における「昭」と「穆」の順序ですが、広い意味では宗族内での世代の秩序(曾祖父の世代、祖父の世代、父の世代、自分と同じ世代、子の世代等の秩序、序列)を指します。
光武帝は西漢景帝(一代)の子・長沙王・劉発(二代)の子孫です。劉発の後、舂陵侯・劉買(三代)、鬱林太守・劉外(四代)、鉅鹿都尉・劉回(五代)、南頓令・劉欽(六代)と継いで、光武帝の代(七代)になりました。
光武帝建武二年(26年)、光武帝が雒陽に高廟を建設し、太祖高祖、太宗文帝、世宗武帝を合祀しました。この高廟が「太廟」です(後に西漢歴代皇帝の牌位が長安から運ばれ、全て高廟で保管されましたが、太廟で祭祀を受けたのは太祖高祖、太宗文帝、世宗武帝の三帝だけです。歴代皇帝は高帝、恵帝、文帝、景帝、武帝、昭帝、宣帝、元帝、成帝、哀帝、平帝の十一帝を指します)。
『後漢書・祭祀志下』はこう書いています「光武帝建武二年正月、高廟を雒陽に建てた。四時(四季)に祫祀(合祀)し、以前と同じく高帝を太祖に、文帝を太宗に、武帝を世宗にした。(略)十九年、(略)、孝宣帝に功徳があったため、尊号を献上して中宗にした。こうして雒陽高廟は四時に孝宣と孝元の祭祀を加え、合わせて五帝になった。」
このように『祭祀志』には昭帝を加えたという記述がありません。
雒陽の太廟(高廟。宗廟)は「東廟」と呼ばれました。『祭祀志』から続けて引用します「東廟は京兆尹が侍祠し、冠衣・車服の礼は太常が陵廟を祀る時の礼と同等にした。」
南頓君(南頓令・劉欽。光武帝の父)から舂陵節侯・劉買までの四代はそれぞれの園廟で四時の祭祀が行われることになりました。『祭祀志』本文と注釈によると、南頓君(劉欽)の園廟は皇考廟、鉅鹿都尉(劉回)は皇祖考廟、鬱林太守(劉外)は皇曾祖考廟、節侯(劉買)は皇高祖考廟とされ、所在の郡県が侍祠します。
馬援が徵側、徵貳姉妹を斬りました。
余党は夏に平定されます。
しかし臧宮が何度攻撃しても落とせず、士卒が死傷します。
光武帝は公卿、諸侯王を招いて方略を問いました。
皆が言いました「その購賞を重くするべきです(高額の懸賞をかけるべきです)。」
東海王・劉陽だけはこう言いました「妖巫は(人々を)脅かして従わせているので(妖巫相劫)、久しく立つ形勢にはなく、その中には必ず後悔して逃亡を欲する者がいます。ただ外囲が急なので(包囲が厳しいので)走れないだけです。(包囲を)少し解いて緩くし(挺緩)、逃亡できるようにさせるべきです。逃亡すれば一亭長でも禽とするに足ります(一亭長でも敵を捕虜にできます)。」
夏四月、臧宮が原武を攻略して単臣、傅鎮等を斬りました。
馬援が兵を進めて徵側の余党・都陽等を撃ち、居風に至って降しました。嶠南が全て平定されます。
『資治通鑑』胡三省注によると、居風は九真郡に属す県です。居風県には山があり、金牛を産出しました。金牛はしばしば夜に現れて、その光輝が十里を照らします。山には風門があり、常に風が吹いていました。
「嶠」は「嶺嶠」を指します。山が鋭くて高いことを「嶠」といいます。
また、『光武帝紀下』では、光武帝建武十八年(前年)四月に「伏波将軍・馬援を派遣し、楼船将軍・段志等を率いて交阯の賊・徵側等を撃たせた」、十九年(本年)四月に「伏波将軍・馬援が交阯を破って徵側等を斬った。勝ちに乗じて九真賊・都陽等を撃破して降した」と書いていますが、『馬援伝』では建武十七年に馬援が伏波将軍に任命されて徴側、徴貳の討伐を開始し、十八年春に浪泊に至って駐軍し、十九年正月に徴側と徴貳を斬っています。
胡三省は『本紀』が徴則と徴貳を斬った月を「四月」としていることについて、「馬援が徴側と徴貳を破ったことを上奏し、二人の首が雒陽に到着した時を書いている(実際には正月に徴側と徴貳を斬ったが、上奏と首が雒陽に届いたのは四月だった)」と解説しています。
また、『本紀』では建武十八年に遠征を開始しているのに、『馬援伝』では十七年からとなっていることについては、沈懐遠(南北朝・南宋)が編集した『南越志(佚書)』に「徵側が走って金溪穴中に入り、二年してこれを得た」とあり、『馬援伝』の記述の方が近いと解説しています。よって『資治通鑑』は『馬援列伝』に従っています。
本文に戻ります。
馬援は越人を統治するために旧制(西漢時代に設けられた制度)を申明(説明、公表)しました(申明旧制以約束之)。この後、駱越は馬将軍の故事(前例。ここでは馬援が設けた制度を指します)を奉行するようになります。
『資治通鑑』胡三省注によると、「駱」は越の別名です。日南、盧容、浦通、銅鼓を外越といい、銅鼓が駱越に当たります。銅鼓があったため族名になりました。馬援はその鼓を取って銅馬を鋳ました。
趙公は劉栩、斉公は劉章、魯公は劉興です。
劉栩は劉良の子で、劉良は字を次伯といい、光武帝の叔父です。
建武二年(26年)に広陽王に立てられ、建武五年(29年)に趙王に遷されて封国に赴きましたが、建武十三年(37年)に趙公に落とされました。その後、頻繁に来朝し、建武十七年(41年)に京師で死んで子の劉栩が継ぎました。
次回に続きます。