東漢時代55 光武帝(五十五) 皇太子廃立 43年(2)

今回は東漢光武帝建武十九年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
郭后(郭聖通)が廃されてから光武帝建武十七年・41年)、太子劉彊(郭皇の子)が心中に不安を抱きました。
郅惲が太子に言いました「久しく疑位(確実ではない地位)にいたら、上は孝道に違え、下は危殆(危険)を近づけることになります。位を辞して母氏を奉養した方がいいでしょう。」
太子はこれに従い、しばしば左右の者や諸王を通して光武帝に懇誠(懇切、誠実な心情)を述べ、藩国を備えること(藩国を与えられること。原文「備藩国」)を願いました。
しかし光武帝は太子の廃位が忍びず、回答を延ばして数年が経ちました。
 
六月戊申(二十六日)光武帝が詔を発しました「『春秋』の義によるなら、子は貴をもって立てるものである(後継者とは高貴な者を立てるものである。原文「立子以貴」)。東海王陽は皇后(陰麗華)の子なので、大統を継承するべきだ。皇太子彊は謙退を崇執(堅持)し、藩国を備えることを願っている。父子の情を久しく違えるのは難しい(原文「重久違之」。『資治通鑑』胡三省注によると、「重」は「難」の意味です)。よって彊を東海王とし、陽を皇太子に立てて荘に改名する。」
こうして東海王劉陽が皇太子になって劉荘に改名し、劉彊が東海王になりました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
光武帝が太子劉荘の舅(母の兄弟)陰識を執金吾代理(守執金吾)に、陰興を衛尉に任命して太子を輔導させました。
 
陰識は性格が忠厚で、入朝したら極言して議を正しましたが、賓客と談論した時には国事に言及したことがありませんでした。
光武帝は陰識を敬重しており、常に陰識を指して貴戚(皇族親戚)を敕戒(訓戒)したり左右の者を激厲(激励)しました。
 
陰興は賢人を礼遇して施しを好みましたが、門内には遊俠がいませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、西都西漢時代は万章、楼護、陳遵等の俠遊(遊侠)が貴近(貴人近臣)の門におり、当時東漢光武帝時代)も杜保、王磐等の遊侠の徒がいました。
 
また、陰興は同郡の張宗や上谷の人鮮于裒(『資治通鑑』胡三省注によると、鮮于は本来、子姓でした。西周武王が箕子を朝鮮に封じ、支子仲が「于」を食邑にしかことから「鮮于」が氏になりました)と仲が良くありませんでしたが、彼等に能力があると知っていたため(知其有用)、長所を称えて推挙しました。
逆に友人の張汜、杜禽とは仲が良くて厚い交流がありましたが、彼等は表面が華やかなだけで中身が少ない(華而少実)と判断し、個人的に財を与えるだけで最後まで彼等のために発言しませんでした。
そのため、世の人々は陰興の忠を称賛しました。
 
光武帝が沛国の人桓栄を議郎に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、郎官は交代で執戟(宮廷の警護)を担当し、諸殿門で宿衛しました。皇帝が外出したら車騎を充たします。但し、議郎だけはその中に含まれませんでした。議郎の秩は六百石です。
 
光武帝は桓栄に命じて太子に儒学の経典を教授させました。
ある日、車駕光武帝太学行幸し、諸博士を集めて桓栄の前で論難(討論)させました。
桓栄は経義を辨明し、常に礼譲によって相手を屈服させるだけで(以礼譲相厭)、言葉の優劣によって勝つことはありませんでした(不以辞長勝人)儒者の中に桓栄に及ぶ者はいません。
光武帝は特別に賞賜を加えました。
この日は諸生を招いて雅歌声磬し(磬で雅楽を演奏して雅詩を歌い。「磬」は打楽器で、「雅詩」は『詩経』の「大雅小雅」の詩です)、日が尽きてやっと解散しました。
 
光武帝が左中郎将汝南の人鍾興に命じて皇太子や宗室諸侯に『春秋』を教授させました。
資治通鑑』胡三省注によると、鍾興は『公羊春秋』の厳氏学に精通していました。厳氏学は西漢厳彭祖による学派です。
光武帝が鐘興に関内侯の爵位を下賜しようとしましたが、鐘興は自分に功がないため辞退しました。
光武帝が言いました「生(先生)は太子や諸王侯に教訓している。大功ではないか?」
鐘興が言いました「臣は少府丁恭に師事しました。」
そこで光武帝は丁恭を封侯しました。
しかし鐘興はやはり固辞して受け入れませんでした。
 
資治通鑑』は『後漢書儒林列伝下(巻七十九下)』を元にしています。
『儒林列伝』の鐘興の項では、「鍾興は字を次文といい、汝南汝陽の人で、若い頃に少府丁恭に従って『厳氏春秋』を教授された。」(略)光武帝が詔を発し、『春秋』の章句を定めて復重する内容を除かせ、それを皇太子に教授させた。また、宗室諸侯にも鐘興に従って章句を受けさせた(習わせた)。」()光武帝が鐘興を封侯するために)丁恭を封じたが、鐘興はやはり(封侯を)固辞して受け入れず、官に就いたまま死んだ」としています。
しかし丁恭の項にはこうあります。「丁恭は字を子然といい、山陽東緡の人で、『公羊厳氏春秋』に習熟した。(略)建武初年に諫議大夫博士になり、関内侯に封じられた。建武十一年、少府に遷った。諸生で遠方から至って著録(収録)された者(丁恭の弟子として名が記録された者)は数千人に上り、当時の世の人々は大儒と称した。(略)建武二十年、侍中祭酒騎都尉に任命され、侍中劉昆と共に光武帝の左右に仕えた。光武帝は事がある度に丁恭を諮訪した。官に就いたまま死んだ。」
このように丁恭は建武初年に関内侯に封じられていますが、その後、封侯されたという記述はありません。『資治通鑑』と『儒林列伝』の「鐘興の項」は鐘興が封侯を辞退した時に、光武帝が丁恭を封侯したと書いていますが、実際はそれ以前に関内侯になっています。
光武帝は丁恭を列侯に封じようとしたものの、鐘興が封侯を固辞したため、結局、丁恭の封侯も止めたのではないかと思われます。
あるいは、この出来事は本年ではなく、丁恭が関内侯に封じられた時建武初年)の事かもしれません。その場合、鍾興が『春秋』を教えた皇太子は劉荘ではなく劉彊になります(劉彊は光武帝建武二年・26年に皇太子になりました)
 
[] 『資治通鑑』からです。
陳留の人董宣が雒陽令になりました。
 
湖陽公主光武帝の姉劉黄)の蒼頭(奴隷)が日中に人を殺しましたが、主家(湖陽公主の家)に隠れたため、官吏は逮捕できませんでした。
後に湖陽公主が外出した時、公主が蒼頭を家から出して驂乗(同乗)させました。
董宣は夏門亭(『資治通鑑』胡三省注によると、雒陽十二城門のうち夏門は亥(西北の北より。北面西側)に位置します。雒陽十二城門には一門ごとに一亭があり、夏門の外には「万寿亭」がありました。「夏門亭」は「万寿亭」を指します)待ち伏せし、湖陽公主一行が来ると車を止めさせて馬の頭を押さえました(駐車叩馬)。刀で地を画し(刀で地を払い。原文「以刀画地」)、大声で公主の過ちを譴責してから、叱咤して蒼頭を下車させ、格殺(撃殺)します。
 
公主が皇宮に還ってこの出来事を光武帝に訴えました。
光武帝は激怒して董宣を招き、箠殺棍棒で打ち殺すこと)しようとします。
董宣が叩頭して言いました「一言を乞うてから死ぬことを願います(願乞一言而死)。」
光武帝が問いました「何を言いたい(欲何言)?」
董宣が言いました「陛下は聖徳によって中興したのに、奴(蒼頭)に自由に人を殺させました。これでどうやって天下を治めるのでしょうか。臣は箠棍棒を待つ必要はありません。自殺できることを請います。」
董宣はすぐに頭で楹(柱)を撃ちました。血が流れて顔を覆います。
光武帝は小黄門(宦官)に董宣を捕まえさえ、董宣に命じて叩頭して公主に謝罪させました。しかし董宣は従いません。(小黄門が)強引に董宣の頭を床に着けさせようととしても、董宣は両手で地を押さえて抵抗し、最後まで頭を下げませんでした。
公主が言いました「文叔光武帝の字)は白衣だった時、逃亡した者を隠して死罪の者を匿い(藏亡匿死)、吏も敢えてその門に至りませんでした。今、天子になったのに、その威は一令に行うこともできないのですか(一県令を動かす権威もないのですか)?」
光武帝は笑って「天子は白衣と同じではありません」と答え、「強項令は退出せよ」と命じました。
「強項」は「強い首」という意味で、最後まで頭をさげなかった董宣を指します。
更に光武帝は董宣に銭三十万を下賜しました。董宣はそれを全て諸吏に分け与えます。
この後も董宣が豪強を搏撃(攻撃)したため、京師で震慓(震撼)しない者はいませんでした。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
秋九月、光武帝が南に巡狩(巡行)しました。
壬申(二十一日)南陽行幸しました。
 
光武帝が汝南郡の南頓県舍に進み光武帝の父劉欽は南頓令でした)、酒宴を開いて吏民に賞賜を与えました。南頓の田租を一年間免除します(復南頓田租一歳)
父老が光武帝の前で叩頭し、こう言いました「皇考(皇帝の父)がここに住んだ日は久しく、陛下も寺舍(官署)を識知(熟知)しているので、いつも来るたびに厚恩を加えています。十年の免除(復十年)を下賜されることを願います。」
光武帝が笑って言いました「天下の重器(重任)を全うできなくなることを常に恐れている(常恐不任)。一日また一日と過ごしているのに(日復一日)、どうして十年も遠いことを約束できるだろう(安敢遠期十歳乎)。」
吏民がまた言いました「陛下は実はこれ(税を免除すること)を惜しんでいます。なぜ謙遜の言を話すのでしょうか(陛下実惜之,何言謙也)。」
光武帝は大笑して更に一年免除することにしました(復増一歳)
 
その後、光武帝は淮陽、梁、沛を行幸しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
西南夷の棟蠶が反して益州郡を侵し、長吏を殺しました。
 
光武帝は詔を発して武威将軍劉尚に討伐させました。
東漢軍が越を通ると、越太守・邛穀王任貴は「劉尚が南辺を平定したら威法を必ず行うようになり、自分が放縦できなくなる(自由を失う)のではないか」と恐れ、謀反しました。兵を集めて営塁を建て、大量に毒酒を醸造します。まず東漢軍を労ってその機に劉尚を襲撃するつもりです。
しかし劉尚が任貴の謀を知ったため、すぐに兵を分けて先に邛都を占拠しました。
資治通鑑』胡三省注によると、邛都は越郡の治所です。
 
十二月、邛都を占拠した劉尚が任貴を襲って誅殺しました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、再び函谷関都尉を置きました光武帝建武九年33年参照)
 
[十二] 『後漢書光武帝紀下』からです。
西京長安の宮室を修築しました。
 
 
 
次回に続きます。