東漢時代58 光武帝(五十八) 地震 46年

今回は東漢光武帝建武二十二年です。
 
丙午 46
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
春閏正月丙戌(十九日)光武帝長安行幸しました。高廟を祀ってから十一陵で祭事を行います。
 
二月己巳(中華書局『白話資治通鑑』は「己巳」を恐らく誤りとしています)、雒陽に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
夏五月乙未晦、日食がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
秋七月、司隷校尉蘇鄴が獄に下されて死にました。
 
蘇鄴に関しては『後漢書馬援列伝(巻二十四)』にも記述がありますが、どのような罪を犯したのかは分かりません。以下、『馬援列伝』からです建武二十八年52年に再述します)
馬援の兄の子婿(娘婿)王磐子石(子石は王磐の字です)は王莽の従兄に当たる平阿侯仁の子でした。
王莽が敗れてから、王磐は富貲(豊富な財産)を有して故国(故郷)に住みました。その為人が気節(志と節操)を重んじ、士を愛して施しを好んだため、江淮の間で名が知られるようになります。
後に京師で遊んで衛尉陰興、大司空朱浮、斉王章と友善な関係を結びました。
しかし馬援は姉の子曹訓に訓戒してこう言いました「王氏は廃姓(廃された姓。失敗した姓)だ。子石は屏居(隠退)自守するべきなのに、逆に京師の長者(権貴の者)と遊び、気を用いて自ら行い(原文「用気自行」。志のまま行動する、積極的に自由に動く、という意味だと思われます)、多く陵折する(人を圧する、凌駕する、虐げる)ところがあるので、失敗するのは確実だ(其敗必也)。」
一年以上経ってから、王磐は司隸校尉蘇鄴や丁鴻の事に連座して洛陽(雒陽)の獄に繋がれ、死んでしまいました。
ところが王磐の子王肅もまた北宮や王侯の邸第(邸宅)を訪ねるようになりました。
馬援が司馬呂种に言いました「建武の元(開始)は天下の重開(重建)を名としている。今から後は海内が日に日に安定するはずだ。ただ国家の諸子(皇子。諸王)が並んで強壮になり、しかも旧防(諸侯王の勢力拡大を防ぐ旧制。諸侯王と賓客の交わりを禁止するという内容も含まれます)がまだ成立していないことを憂いる。もしも(諸侯王が)多く賓客と通じたら、大獄が起きることになるだろう。卿曹(卿等)はこれを戒慎(警戒)せよ。」
後に郭后が死ぬと建武二十八年52年)、ある者が上書し、「王肅等は受誅の家(罪を犯して誅殺された者の家族)でありながら客(諸侯王の賓客)となり、事に因って(機会を探して)乱を生もうとしています。貫高、任章の変に慮を到らせるべきです(考慮するべきです)」と言いました。
貫高は西漢高帝の暗殺を謀り西漢高帝八年199年および高帝九年198年参照)、任章は宣帝の暗殺を謀りました西漢宣帝地節四年66年参照)
 
上書を読んだ光武帝は怒って郡県に命令を出し、諸王の賓客を收捕(逮捕)させました。互いに牽引(牽連。引っ張ること。巻き添えにすること)して死者が千人を数えます。
呂种もこの禍に遭い、処刑に臨んで(臨命)嘆息して言いました「馬将軍は誠に神人だ。」
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
秋九月戊辰(中華書局『白話資治通鑑』は「戊辰」を恐らく誤りとしています)地震がありました。
 
光武帝が制詔(皇帝の命令)を発しました「最近、地震があり、南陽が最も甚だしかった。地とは、物に任せて至重であり(上に万物を載せることができる最も重い存在であり。原文「任物至重」)、静かで動かないものである。しかし今、それが震裂した。咎は君上(天子の身上)にある。鬼神が無徳に従わず、灾殃(災害)が吏人に及ぶことを朕は甚だ懼れる。よって、南陽に命じて今年の田租芻稾(干草。飼料)を納めさせないことにする(勿輸今年田租芻稾)。謁者を送って案行(巡行)させ、死罪を犯して戊辰以前に繋がれた囚人は死罪一等を減じる。徒(徒刑の者)は皆、鉗(刑具)を解いて解鉗)、絲絮(綿の服)を着させる(原文「衣絲絮」。『光武帝紀下』の注によると、徒役の者は絲絮を着ることを禁止されていましたが、今回は特別に許されました)郡中の居人で壓死(圧死)した者には棺銭を下賜し、一人三千とする。口賦人頭税。『光武帝紀下』の注に解説があります。十五歳から五十六歳は一人あたり百二十銭の賦を納めました。百二十銭を一筭といいます。七歳から十四歳も口銭を納めました。一人二十銭で、天子の経費に使われます。西漢武帝時代、車騎馬の経費とするために更に一人当たり三銭が加えられました)を逋税(税を払わないこと。脱税)しており、廬宅(家屋)がひどく破壊された者は、收責(徴収)の必要がない。吏人が死亡して、壊垣毀屋(倒壊した壁や家屋)の下におり、家が羸弱(弱小。ここでは貧困の意味です)で收拾できない者は、今ある銭穀で人を雇ってこれを探し求めよ(以見銭穀取傭為尋求之)。」
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と資治通鑑』からです。
冬十月壬子(十九日)、大司空朱浮を罷免しました。
癸丑(二十日)、光禄勳杜林を大司空に任命しました。
 
以前、陳留の人劉昆が江陵令だった時、県内で火災がありました。しかし劉昆が火に向かって叩頭するとすぐに火が消えました。
後に弘農太守になると、複数の虎が皆、子を背負って河を渡り、弘農から去っていきました。
光武帝はこれを聞いて奇異に思い劉昆を招いて杜林の代わりに光禄勳に任命しました。
 
光武帝が劉昆に問いました「以前、江陵にいた時は風向きを逆にして火を消滅させ(反風滅火)、後に弘農を守ったら(太守になったら)、虎が北に河を渡った。どのような徳政を行えばこれらの事がもたらされるのだ(行何徳政而致是事)?」
劉昆が答えました「ただの偶然です(偶然耳)。」
左右の者は皆笑いましたが、光武帝は感嘆して「これは長者の言というものだ」と言い、顧みて諸策(『資治通鑑』胡三省注によると、漢制では天子の策書は長さ二尺で、国史もこの簡策を使いました。この「諸策」は「史策」を指します)にこの事を書き留めるように命じました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、斉王劉章が死にました。
 
後漢書宗室四王三侯列伝(巻十四)』によると、劉章の諡号は哀王です。
劉章の子の劉石が跡を継ぎました。諡号を煬王といいます。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
青州で蝗害がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴単于輿(呼都而尸道皋若鞮単于が死に、子の左賢王烏達鞮侯が立ちましたが、すぐに死んだため、烏達鞮侯の弟の左賢王蒲奴が立ちました。
 
匈奴では連年、旱害や蝗害が起きていました。赤地(何もない地)が数千里に及び、人畜が飢餓疫病に苦しみ、大半が死耗(死亡)します。
 
単于は漢が匈奴の疲弊に乗じることを恐れ、使者を漁陽郡に派遣して和親を求めました。
光武帝は中郎将李茂を送って報命(皇帝の命を奉じた使者として他国を訪問すること)させました。
 
後漢書光武帝紀下』は「匈奴の薁鞬日逐王(比が名です)が使者を漁陽に送って和親を請い、光武帝は)中郎将李茂に報命させた」と書いています。
資治通鑑』は『後漢書南匈奴列伝(巻八十七)』に従っており、胡三省注が「李茂が報命した相手は日逐王比ではない(和親を求めたのは薁鞬日逐王ではなく単于である)」と解説しています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
烏桓匈奴の衰弱に乗じて攻撃し、大破しました。
匈奴は北に数千里移動し、幕南の地が空になります。
 
光武帝は詔を発して諸辺郡の亭候、吏卒を廃止し、幣帛を使って烏桓を招降しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
西域諸国の侍子(人質)が久しく敦煌に留まっていましたが、皆、愁思(憂慮)して逃げ帰りました。
莎車王賢は東漢の都護が来ないと知り、鄯善を撃破したり亀茲王を攻め殺します。
 
鄯善王安が光武帝に上書しました「再び子を派遣して入侍させることを願い、改めて都護を請います。都護が(関を)出なかったら、誠に窮迫して匈奴に附くことになります(誠迫於匈奴。」
光武帝が答えました「今はまだ使者(都護)や大兵を出すことができない。もし諸国の力が心に従わないのなら(意思はあっても力が足りないようなら。原文「力不從心」)、東西南北自在である(東西南北のどこに従うのも自由である)。」
この後、鄯善と車師はまた匈奴に帰附することになりました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代59 光武帝(五十九) 槃瓠 47年