東漢時代59 光武帝(五十九) 槃瓠 47年

今回は東漢光武帝建武二十三年です。
 
丁未 47
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春正月、南郡の蛮(異民族)が叛しました。
光武帝は武威将軍劉尚を派遣して討伐させ、これを破りました。
その種人(族人)は江夏に遷されます。
 
資治通鑑』胡三省注によると、この「蛮」は沔水漢水沿岸の諸山蛮を指します。当時、南郡の山蛮が反しましたが、劉尚が討伐して破り、種人(族人)七千余人を遷して江夏界中に住ませました。これが後に沔中蛮になります。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏五月丁卯(初八日)、大司徒蔡茂が死にました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
秋八月丙戌(中華書局『白話資治通鑑』は「丙戌」を恐らく誤りとしています)、大司空杜林が死にました。
 
[]  『後漢書光武帝紀下』からです。
九月辛未(十三日)、陳留太守玉況(玉が氏です)を大司徒に任命しました。
後漢書光武帝紀下』の注によると、玉況は字を文伯といい、京兆の人です。
 
資治通鑑』は「陳留玉況を大司徒にした」と書いており、「太守」が抜けています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
冬十月丙申(初九日)、太僕張純を大司空にしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
高句麗が種人(族人)を率いて楽浪を訪ね、内属しました東漢に帰順しました)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
武陵蛮の精夫相単程等が反して郡県を侵しました。
資治通鑑』胡三省注によると、秦昭王が白起を派遣して楚を討伐し、蛮夷の地を奪って黔中郡を置きました。漢が興隆してから武陵郡に改められます。武陵の蛮夷を武陵蛮といい、その渠帥(指導者)を精夫といいました。槃瓠の後代とされています。
 
後漢書南蛮西南夷列伝(巻八十六)』に槃瓠について書かれているので、以下簡単に紹介します。 
昔、高辛氏(帝嚳)の時代に犬戎の寇(侵略)がありました。
帝が犬戎の侵暴を憂いて征伐しましたが、勝てなかったため、犬戎の将・呉将軍の頭を得られる者を天下から探し求めました。黄金千鎰と一万家の邑を懸賞とし、更に少女(末娘)を娶らせることにします。
当時、帝は狗()を飼っていました。五采(彩)の毛が生えており、名は槃瓠といいます。
後漢書』の注によると、高辛氏には老婦(老齢の妻)がおり、正室(または「王室」)に住んでいました。耳に疾(病)を患い、疾患がある場所を取ると繭のような大きさの物を得ました(得耳疾,挑之,乃得物大如繭)。婦人はそれを瓠(瓢箪)の中に入れ、槃(盆。器)で覆いました。暫くするとそれは犬に変わり、五色の模様がありました。そこで槃瓠と名づけました。
 
帝が人材を求める令を出して間もなくしてから、槃瓠が人頭をくわえて闕下に訪れました。群臣が怪しんでそれを詳しく見ると呉将軍の首です。
帝は大いに喜びましたが、槃瓠に娘を嫁がせることはできず、封爵の道(道理。または方法)もないと考え、功労に報いるつもりはあってもどうするべきか分かりませんでした。
それを聞いた娘は、帝が既に令を下したので信に違えるべきではないと考え、槃瓠に嫁ぐことを請いました。
帝はやむなく娘を槃瓠に嫁がせます。
帝の娘を得た槃瓠は、娘を背負って走り、南山に入って石室の中に住みました。そこは険絶な地で人が至る場所ではありません(人跡不至)
娘は衣裳を解き、僕鑒の結(髪形)にして獨力の衣を身につけました(『後漢書』の注は「僕鑒」「獨力」とも詳細不明(皆未詳)としています)
帝は娘を思って悲しみ、使者を送って探し求めました。しかし、いつも風雨震晦(「震」は雷、「晦」は空が暗くなることです)に遭遇したため、使者は前に進めませんでした。
 
三年を経て娘は十二人の子を産みました。六男六女です。
槃瓠の死後、十二子がそれぞれ夫妻になりました。
木の皮を織って服を作り(織績木皮)、草や木の実で色を染めて着ます。彼等は五色の衣服を好み、服には全て尾の形をした部分がありました。
 
後に母が帰って帝に報告しました。帝は使者を送って諸子を迎え入れます。
彼等は衣裳が班蘭(色彩が豊かで鮮やかなこと)で、語言は侏離(異民族の言葉)を話し、山壑(山谷)に入ることを好んで平曠(平野)では楽しみませんでした。
帝は彼等の意思に従って名山広沢を下賜しました。
その後世が滋蔓(繁栄拡大)して蛮夷を号すようになります。
彼等は外見は愚鈍でしたが内実は聡明狡猾で(外癡内黠)、自分の土地に安んじて旧俗を重んじました(安土重旧)
先父(槃瓠)に功があり、母が帝の娘だったため、田作(農業)賈販(商業)において関梁の符伝(関所や渡し場の通行書)も租税の賦も免除されました。邑の君長は皆、印綬を下賜され、冠は獺かわうその皮を使い、渠帥は「精夫」と呼び、お互いは「徒」と呼び合いました。
後の長沙武陵蛮は槃瓠の後代です。
 
本文に戻ります。
十二月、光武帝が劉尚を派遣し、兵一万余人を動員して武陵蛮を討伐させました。沅水から遡って武谿に入ります。
しかし劉尚が敵を軽んじて深入りしたため、武陵蛮が険阻な地形に乗じて迎撃し、劉尚の一軍(全軍)が全滅しました。
 
資治通鑑』の記述は「尚一軍悉没」で、劉尚軍が全滅したという意味です。しかし『後漢書光武帝紀下』では「尚軍敗歿」となっており、「劉尚の軍が敗れて(劉尚が)没した」と読めます。『後漢書馬援伝(巻二十四)』には「深入,軍没」とあり、「(劉尚が)深入りして軍が没した(全滅した)」または「(劉尚が)軍没した(戦死した)」と読めます。
劉尚は敗戦して軍が全滅し、自身も死んだようです。
尚、『馬援伝』は劉尚の武陵遠征を建武二十四年(翌年)の事としています。『光武帝本紀』は本年に書いており、『資治通鑑』は「本紀」に従っています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
前年死んだ匈奴単于輿(呼都而尸道皋若鞮単于には右谷蠡王知牙師という弟がおり、本来、左賢王になるはずでした。左賢王になった者は、通常では単于の跡を継ぎます。しかし単于輿は自分の子に跡を継がせようと欲したため、知牙師を殺してしまいました。
 
単于輿の兄・烏珠留単于には比という子がおり、右薁鞬日逐王として南辺八部を統領していました。
右薁鞬日逐王は知牙師が死んだのを見て、怨んでこう言いました「兄弟という立場から言えば、右谷蠡王が次に立つべきだ。子という立場から言えば、わしは前単于の長子だから、わしが立つべきだ。」
 
烏珠留単于は名を囊知牙斯といい、新王莽始建国五年13年)に死にました。跡を継いだのは弟の烏累単于咸です。烏累単于は新王莽天鳳五年18年)に死に、その後を継いだのが呼都而尸道皋若鞮単于です。全て呼韓邪単于の子です。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢時代、呼韓邪単于が諸子と約束して兄弟が順に位を継承することにしました。単于輿は弟の知牙師を殺して子を立てたので、呼韓邪の約束を破ったことになります。また、比は烏珠留単于の長子だったため、父から子に位を継承させるのなら烏珠留単于の長子として自分が単于に立つべきであり、単于輿の代になってから父子継承を始める必要はないと考えました。
 
本文に戻ります。
右薁鞬日逐王比は内心で猜懼(猜疑恐懼)し、庭会とも稀闊(疎遠)になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴諸王は毎年正月に単于庭で集会を開きました。
 
単于は右薁鞬日逐王を疑い、両骨都侯(二人の骨都侯)に右薁鞬日逐王が管轄する兵を監領(監督)させました。
 
単于蒲奴が立つと(前年、呼都而尸道皋若鞮単于が死に、子の左賢王烏達鞮侯が立ちましたが、すぐに死んだため、烏達鞮侯の弟にあたる左賢王蒲奴が立ちました)、右薁鞬日逐王はますます恨望(怨恨)し、秘かに漢人郭衡を東漢に派遣しました。匈奴の地図を奉じて西河太守を訪ねさせ、内附(帰順)を求めます。
 
五月、両骨都侯が右薁鞬日逐王の意図を深く悟り、単于に報告しました。ちょうど龍祠を行う時だったので、右薁鞬日逐王を誅殺するように勧めます。
後漢書南匈奴列伝(巻七十九)』と『資治通鑑』胡三省注によると、匈奴の習俗では一年に三龍祠があり、通常は正月、五月、九月の戊日に匈奴諸王が龍城祠で集会を開きました。
 
右薁鞬日逐王の弟にあたる漸将王が単于の帳下におり、骨都侯の進言を聞いたため、走って右薁鞬日逐王に報告しました。
後漢書南匈奴列伝』の注よると、匈奴の大臣で最も尊貴な者は左賢王で、次は左谷蠡王、次は右賢王、次は右谷蠡王です。これを四角といいます。その次は左右日逐王、次は左右温禺鞮王、次は左右漸将王で、これを六角といいます。『資治通鑑』胡三省注は「『漸将王』の『漸』は『斬』とするのが正しい」としています。
四角と六角は全て単于の子弟で、順番に単于の位を継ぎました。
異姓の大臣には左右骨都侯がおり、次は左右尸逐骨都侯で、その他にも日逐、且渠、当戸といった諸官号があり、それぞれ権力の優劣や部衆の多少によって高低の序列が決められました。
単于の姓は虚連題といいます。
後漢書』の注は別の説も紹介しており、「単于の姓は『攣鞮氏』といい、その国を『摚犁孤屠』と称した(其国称之曰摚犁孤屠)匈奴は天を『摚犁』といい、子を『孤屠』といった」と書いています。
 
単于以外の大姓には呼衍氏、須卜氏、丘林氏、蘭氏の四姓があり、国内の名族としてしばしば単于と婚姻しました。呼衍氏は左に、蘭氏と須卜氏は右になり(それぞれ匈奴左部と右部を管理したという意味だと思います。原文「呼衍氏為左,蘭氏、須卜氏為右)、断獄聴訟(裁判)を掌ります。軽重を決した時(裁判を行った時)は口頭で単于に報告し、匈奴には文書簿領(記録)がありませんでした。
 
本文に戻ります。
右薁鞬日逐王は八部の兵四五万人を集め、両骨都侯が還ってから二人を殺そうとしました。
暫くして骨都侯が戻りましたが、右薁鞬日逐王の謀を知って逃亡しました。
 
単于は万騎を派遣して右薁鞬日逐王を撃たせましたが、右薁鞬日逐王の衆が盛んだったため、前に進めず引き返しました。
 
後漢書光武帝紀下』には「この年、匈奴の薁鞬日逐王・比が使者を西河に派遣し、部曲を率いて東漢に)内附した」とありますが、『資治通鑑』は西河に使者を派遣したことだけを書いており、部曲を率いて帰順したという内容は採用していません。
 
[] 『資治通鑑』は本年に鬲侯朱祜が死んだと書いていますが、恐らく翌年の誤りです(再述します)
 
 
 
次回に続きます。