東漢時代60 光武帝(六十) 馬援出征 48年
戊申 48年
光武帝がこの事を公卿に下しました。
議者は皆こう言いました「天下が定まったばかりで、中国は空虚です。夷狄の情偽(誠意と虚偽)は知るのが難しいので、許す(同意する)べきではありません。」
五官中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、五官中郎将は五官郎(五官署の郎)を掌管します。漢制では三署郎があり、五十歳以上の郎は五官署に、他の郎は左署と右署に属しました)・耿国だけはこう言いました「孝宣の故事(前例)のように受け入れて(西漢宣帝時代に匈奴呼韓邪単于が帰順しました)、東は鮮卑を防がせ(東扞鮮卑)、北は匈奴を拒ませ(北拒匈奴)、四夷の模範にして(率厲四夷)辺郡を完復(修復)するべきです。」
光武帝はこの意見に従いました。
秋七月、武陵蛮が臨沅を侵しました。
伏波将軍・馬援が出征を請いましたが、光武帝は馬援が老いていたため、憐憫して許可しませんでした。
馬援が言いました「臣はまだ甲冑を着て馬に乗ることができます(能被甲上馬)。」
『資治通鑑』胡三省注によると、武陵には五溪(五つの溪谷)がありました。雄溪(または「熊溪」)、樠溪(または「朗溪」)、酉溪、潕溪(または「武溪」)、辰溪で、蛮夷が住んでいます。これらの蛮夷は全て槃瓠(前年参照)の子孫です。
馬援が友人の杜愔に言いました「わしは厚恩を受けたが、年が迫って日が尽き(原文「年迫日索」。『資治通鑑』胡三省注によると、「索」は「尽」の意味です)、常に国事のために死ぬことができないのではないかと恐れていた(常恐不得死国事)。今、その願いを獲たから、甘んじて瞑目できる(甘心瞑目)。ただ長者家児(権貴な家の子弟)があるいは(皇帝の)左右におり、あるいは従事するので(討伐に参加するので)、調和を得るのが特に難しいであろうこと(殊難得調)を畏れる。これを介介(耿耿。不安な様子)として嫌うだけだ(介介独悪是耳)。」
以下、『資治通鑑』からです。
臧宮が言いました「匈奴は飢疫に苦しんで分争しています。臣は五千騎を得て功を立てることを願います。」
この年、鬲侯・朱祜が死にました。
将になってからは多数の投降した者を受け入れ、城邑を克定(攻略)することを本とし、首級の功を重視しませんでした(あるいは「首級の功を記録しませんでした」。原文「不存首級之功」)。
また、士卒を制して百姓から虜掠(略奪)することを禁止しました。軍人は放縦を楽しんでいたため、多くが朱祜を怨みました。
次回に続きます。