東漢時代60 光武帝(六十) 馬援出征 48年

今回は東漢光武帝建武二十四年です。
 
戊申 48
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春正月乙亥(十九日)、天下に大赦しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
匈奴の八部大人が共に議して薁鞬日逐王比を呼韓邪単于に立てることにしました薁鞬日逐王は「落尸逐鞮単于」ともいいます。霊帝中平五年・188年に記述があります)
東漢の五原塞に使者を送り、永く藩蔽として北虜を扞禦(防御)することを望みます。
 
光武帝がこの事を公卿に下しました。
議者は皆こう言いました「天下が定まったばかりで、中国は空虚です。夷狄の情偽(誠意と虚偽)は知るのが難しいので、許す(同意する)べきではありません。」
五官中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、五官中郎将は五官郎(五官署の郎)を掌管します。漢制では三署郎があり、五十歳以上の郎は五官署に、他の郎は左署と右署に属しました)耿国だけはこう言いました「孝宣の故事(前例)のように受け入れて西漢宣帝時代に匈奴呼韓邪単于が帰順しました)、東は鮮卑を防がせ(東扞鮮卑、北は匈奴を拒ませ(北拒匈奴、四夷の模範にして(率厲四夷)辺郡を完復(修復)するべきです。」
光武帝はこの意見に従いました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
秋七月、武陵蛮が臨沅を侵しました。
光武帝は謁者李嵩、中山太守馬成を派遣して討伐させましたが、勝てませんでした。
 
伏波将軍・馬援が出征を請いましたが、光武帝は馬援が老いていたため、憐憫して許可しませんでした。
馬援が言いました「臣はまだ甲冑を着て馬に乗ることができます(能被甲上馬)。」
光武帝が馬援に試させると、馬援は鞍に跨って周りを見渡し(據鞍顧眄)、健在を示しました。
光武帝は笑って「強健な翁だ(原文「矍鑠哉是翁」。「矍鑠」は年老いても元気がある様子です)」と言いました。
 
光武帝は馬援に中郎将馬武や耿舒等の四将軍(『後漢書・馬援伝(巻二十四)』によると、馬武、耿舒、劉匡、孫永の四人です)と四万余人を率いて五溪を討伐させました。
資治通鑑』胡三省注によると、武陵には五溪(五つの溪谷)がありました。雄溪(または「熊溪」)、樠溪(または「朗溪」)、酉溪、(または「武溪」)、辰溪で、蛮夷が住んでいます。これらの蛮夷は全て槃瓠(前年参照)の子孫です。
 
馬援が友人の杜愔に言いました「わしは厚恩を受けたが、年が迫って日が尽き(原文「年迫日索」。『資治通鑑』胡三省注によると、「索」は「尽」の意味です)、常に国事のために死ぬことができないのではないかと恐れていた(常恐不得死国事)。今、その願いを獲たから、甘んじて瞑目できる(甘心瞑目)。ただ長者家児(権貴な家の子弟)があるいは(皇帝の)左右におり、あるいは従事するので(討伐に参加するので)、調和を得るのが特に難しいであろうこと(殊難得調)を畏れる。これを介介(耿耿。不安な様子)として嫌うだけだ(介介独悪是耳)。」
資治通鑑』胡三省注は「馬援は耿舒と大事を共にするのが困難なことと、梁松と竇固(竇友の子。竇友は竇融の弟です)光武帝の近くで発言することを心配した」と解説しています。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
光武帝が有司(官員)に詔を下し、旧制の阿附蕃王法(諸王に阿附したら厳罰に処す法)を申明(発表、説明)しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
冬十月、匈奴薁鞬日逐王比が自ら南単于に立ちました。ここから南北の匈奴に分かれます。
『欽定四庫全書東観漢記列伝十七(巻二十二)』に「匈奴単于」の項があり、「()単于北匈奴頭曼の十八代孫で、十二月癸丑、匈奴が南北単于に分かれた」と書いています。
 
以下、『資治通鑑』からです。
単于が使者を東漢の宮闕に送り、藩屏として臣を称しました。
光武帝は朗陵侯臧宮に意見を聞きました。
臧宮が言いました「匈奴は飢疫に苦しんで分争しています。臣は五千騎を得て功を立てることを願います。」
光武帝が笑って言いました「常勝の家と共に敵を計るのは難しい(難與慮敵)。わしは自分で考えよう(吾方自思之)。」
 
[] 『後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』と『資治通鑑』からです。
この年、鬲侯朱祜が死にました。
資治通鑑』は前年に書いていますが、恐らく誤りです。『後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝』は「二十四年(本年)、卒」としています。
 
朱祜の為人は質直(質朴実直)で、儒学を貴びました。
将になってからは多数の投降した者を受け入れ、城邑を克定(攻略)することを本とし、首級の功を重視しませんでした(あるいは「首級の功を記録しませんでした」。原文「不存首級之功」)
また、士卒を制して百姓から虜掠(略奪)することを禁止しました。軍人は放縦を楽しんでいたため、多くが朱祜を怨みました。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代61 光武帝(六十一) 馬援の死 49年(1)