東漢時代61 光武帝(六十一) 馬援の死 49年(1)
己酉 49年
春正月、遼東徼外(境外)の貊人が辺境の右北平、漁陽、上谷、太原を侵しましたが、遼東太守・祭肜が招降しました。
偏何等はすぐに匈奴を撃って二千余級を斬首し、その頭を持って郡を訪ねました。
この後、偏何等は毎年匈奴を攻めて首級を送り、その都度、賞賜を受けました。
祭肜は為人が質厚重毅(質朴、敦厚、慎重、剛毅)で、恩信によって夷狄を慰撫したため、皆が祭肜を畏れながらも敬愛して死力を尽くしました。
北単于は怖れ震えて千余里退きました。
戊申晦、日食がありました。
馬援の軍が臨郷に至り、蛮兵を撃破して二千余人を斬獲(斬首、捕獲)しました。
以前、馬援が病を患ったことがあり、虎賁中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、虎賁中郎将は虎賁郎を監督します)・梁松が見舞いに来ました。この時、梁松が病床の下で拝礼しましたが、馬援は答礼しませんでした。
梁松が去ってから、馬援の諸子が問いました「梁伯孫は帝の壻であり(伯孫は梁松の字です。光武帝の娘・舞陰公主を娶りました)、朝廷の貴重(位が高く重任を負っている臣)でもあるので、公卿以下、憚らない者がいません。なぜ大人だけが礼を為さないのですか?」
馬援が答えました「わしは梁松の父の友だ。たとえ尊貴であったとしても、どうして序(長幼の秩序)を失うことができるか。」
馬援の兄の子・馬厳と馬敦はどちらも譏議(議論。批難や風刺)を好み、軽俠(遊侠)と通じていました。
かつて馬援が交趾にいた時、書を送って二人を誡めました「わしは汝曹(汝等)が人の過失を聞いたら、父母の名を聞いた時と同じようにすることを欲する。耳では聞くことができても、口では言ってはならない(原文「耳可得聞,口不可得言也」。父母の名は聞くことができても直接口にすることはできませんでした。実名を避けるのは当時の礼です)。人の長短に関する論議を好み、妄りに政法を是非(議論)するのは、わしが大悪とするところである。たとえ死んだとしても(寧死)、子孫にこのような行いがあるとは聞きたくない。龍伯高は敦厚周慎(敦厚・周到・慎重)で、口に誤った言葉がなく(原文「口無擇言」。「擇言」は「殬言」に通じ、「礼から外れた言葉」を意味します)、謙約節倹で、清廉公正なうえに威厳があるので(廉公有威)、わしは彼を愛して重んじている。汝曹(汝等)が彼に倣うことを願う。杜季良は豪侠で義を愛し(豪俠好義)、人が憂いることを憂いて人が楽しむことを楽しみ(憂人之憂,楽人之楽)、父の喪(葬儀)に客を招いたら、数郡からことごとく集まった。だからわしは彼を愛して重んじているが、汝曹(汝等)が彼に倣うことは願わない。伯高に倣って得られなくても、まだ謹敕(慎重。恭敬)の士にはなれる。いわゆる『白鳥を彫刻して失敗しても鴨には似ている(刻鵠不成尚類鶩)』というものだ。しかし季良に倣って得られなかったら、天下の軽薄な子(子弟)に陥ってしまう。いわゆる『虎を描いて失敗したら犬に似てしまう(画虎不成反類狗)』というものだ。」
後に杜保の仇人が馬援の書信を利用して上書し、杜保を訴えました「杜保は行動が浮薄(軽薄)で、群を乱して衆を惑わしています(乱群惑衆)。伏波将軍(馬援)が万里も離れた地から書を送って兄の子を誡めました。また、梁松と竇固は彼(杜保)と交わりを結んでおり、彼の軽偽(軽薄・虚偽)を煽って諸夏(天下)を敗乱させようとしています。」
梁松と竇固は叩頭して血を流し、なんとか罪を得ずにすみました。
光武帝は詔を発して杜保の官を免じ、龍述を抜擢して零陵太守に任命しました。
この事件がきっかけで梁松は馬援を恨むようになります。
馬援が武陵蛮を討伐して下雋(県名)に駐軍しました。
この後の進攻径路は二つあります。一つは壺頭(『資治通鑑』胡三省注によると、山の名です)から進む道で、距離が近いものの激しい水流があります(近而水嶮)。もう一つは充(『資治通鑑』胡三省注によると、武陵郡に属す県です)から進む道で、道は平坦ですが輸送が遠くなります(塗夷而運遠)。
耿舒は充の道を進みたいと思いましたが、馬援は時間と食糧を浪費することになる(棄日費糧)と考え、壺頭から進むべきであり、敵の喉元を押さえれば(搤其喉咽)充県の賊は自滅すると判断しました。
馬援がこの内容を上書すると、光武帝も馬援の策に同意します。
こうして馬援は兵を進めて壺頭に営を構えました。
ところが賊は高所を利用して険隘な地を守りました。水流が速いため船も上れません(下雋は長沙郡に属します。馬援軍は東から西に向かっているので、川を遡らなければなりません)。
ちょうど激しい熱暑の時に当たったため、士卒の多くが疫病で死に、馬援も病を患いました。
馬援軍は岸を穿って室(部屋)を作り、その中で炎気を避けます。
賊が険阻な高地に登って戦鼓を敲いたり喚声を上げると、(疫病を患った)馬援はいつも足を引きずってそれを観察しました。左右の者はその壮意に感動して哀しみ、涙を流さない者はいませんでした。
耿舒が兄の好畤侯・耿弇に書を送りました「当初、舒(私)は、先に充を撃つべきだと上書しました。たとえ糧(兵糧)の輸送が困難でも、兵馬は用いることができ、軍人数万が争って先に奮戦することを欲するはずです(争欲先奮)。しかし今、壺頭で進めなくなり、大衆が鬱憤して死に向かっています(怫鬱行死)。誠に痛惜するべきです。以前、臨鄕に至った時は、賊が理由もなく自ら至りました(無故自致)。もし夜の間にこれを撃っていれば、殄滅(殲滅)できたはずです。しかし伏波(伏波将軍・馬援)は西域の賈胡(商人)のように一カ所に至るたびに停止したため、利を失いました。今も果たして疾疫に苦しんでおり、全て舒(私)の言の通りになっています。」
耿弇は書を得ると光武帝に上奏しました。
ちょうどこの時、馬援が死んでしまいました。
梁松はこの機に馬援を陥れました(讒言しました。原文「因是構陷援」)。
『資治通鑑』胡三省注によると、新息侯国は汝南郡に属します。かつての息国です。
以前、馬援が交趾にいた時、馬援は常に薏苡(はとむぎ)の実を食べていました。体を軽敏にして障気に勝つとされていたからです。
馬援軍が帰還した時には一車に薏苡が積まれていました。
馬援の死後、上書して馬援を讒言する者がいました。以前、車に積んで持ち帰ったのは全て明珠や文犀(模様がある犀の角)だったという内容です。
光武帝はますます憤怒しました。
馬援の妻子は惶懼したため、馬援の喪(霊柩)を旧塋(祖先の墳墓)に運ぶことができず、域西(塋域の西。墓地の西)で稾葬(簡単な埋葬)しました。馬援の賓客や故人(知人)も敢えて弔会(弔問、葬儀)に参加しようとはしませんでした。
「域西で稾葬した(稾葬域西)」というのは『資治通鑑』の記述で、『後漢書・馬援列伝(巻二十四)』には「城西で数畆の地を買って稾葬しただけだった(裁買城西数畆地稾葬而已)」とあります。『資治通鑑』の「域西」は「城西」の誤りかもしれません。
馬厳と馬援の妻子は草索(草の縄)で縛って連なり、宮闕を訪ねて罪を請いました。
次回に続きます。