東漢時代61 光武帝(六十一) 馬援の死 49年(1)

今回は東漢光武帝建武二十五年です。二回に分けます。
 
己酉 49
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春正月、遼東徼外(境外)の貊人が辺境の右北平、漁陽、上谷、太原を侵しましたが、遼東太守祭肜が招降しました。
祭肜は更に財利によって鮮卑の大都護偏何を撫納(慰撫して投降を受け入れること)し、偏何に異種(他の族)を招かせました。諸族が相次いで塞に訪れます(駱駅款塞)
 
祭肜が偏何等に言いました「確実に功を立てたいのなら(審欲立功)、帰って匈奴を撃ち、頭首を斬って送るべきだ。そうすれば信用できる(乃信耳)。」
偏何等はすぐに匈奴を撃って二千余級を斬首し、その頭を持って郡を訪ねました。
 
この後、偏何等は毎年匈奴を攻めて首級を送り、その都度、賞賜を受けました。
匈奴がますます衰弱したため、東漢の辺境では寇警(敵の侵入を報せる警報)がなくなり、鮮卑烏桓の大人が共に入朝して貢物を献上するようになりました。
 
祭肜は為人が質厚重毅(質朴、敦厚、慎重、剛毅)で、恩信によって夷狄を慰撫したため、皆が祭肜を畏れながらも敬愛して死力を尽くしました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
単于南匈奴単于が弟の左賢王莫を派遣し、兵一万余人を率いて北単于北匈奴単于の弟薁鞬左賢王を撃たせました。薁鞬左賢王が生け捕りにされます。
単于は怖れ震えて千余里退きました。
 
北部北匈奴の薁鞬骨都侯と與右骨都侯が三万余人の衆を率いて南単于に帰順しました。
 
三月、南単于が再び東漢に使者を派遣し、宮闕を訪ねて貢献させました。
単于東漢の藩屏として臣を称し(奉藩称臣)東漢が使者を送って匈奴を監護すること、匈奴から侍子を送ること、旧約を修めることを求めます。
資治通鑑』胡三省注によると、「旧約」は西漢宣帝が匈奴と結んだ盟約を指します。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
戊申晦、日食がありました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
馬援の軍が臨郷に至り、蛮兵を撃破して二千余人を斬獲(斬首、捕獲)しました。
後漢書光武帝紀下』は「伏波将軍・馬援等が武陵蛮を臨沅で破った」と書いています。『資治通鑑』胡三省注によると、臨沅は武陵郡に属す県です。臨郷は臨沅県に属す郷だと思われます。
 
以前、馬援が病を患ったことがあり、虎賁中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、虎賁中郎将は虎賁郎を監督します)梁松が見舞いに来ました。この時、梁松が病床の下で拝礼しましたが、馬援は答礼しませんでした。
梁松が去ってから、馬援の諸子が問いました「梁伯孫は帝の壻であり(伯孫は梁松の字です。光武帝の娘舞陰公主を娶りました)、朝廷の貴重(位が高く重任を負っている臣)でもあるので、公卿以下、憚らない者がいません。なぜ大人だけが礼を為さないのですか?」
馬援が答えました「わしは梁松の父の友だ。たとえ尊貴であったとしても、どうして序(長幼の秩序)を失うことができるか。」
 
馬援の兄の子馬厳と馬敦はどちらも譏議(議論。批難や風刺)を好み、軽俠(遊侠)と通じていました。
かつて馬援が交趾にいた時、書を送って二人を誡めました「わしは汝曹(汝等)が人の過失を聞いたら、父母の名を聞いた時と同じようにすることを欲する。耳では聞くことができても、口では言ってはならない(原文「耳可得聞,口不可得言也」。父母の名は聞くことができても直接口にすることはできませんでした。実名を避けるのは当時の礼です)。人の長短に関する論議を好み、妄りに政法を是非(議論)するのは、わしが大悪とするところである。たとえ死んだとしても(寧死)、子孫にこのような行いがあるとは聞きたくない。龍伯高は敦厚周慎(敦厚周到慎重)で、口に誤った言葉がなく(原文「口無擇言」。「擇言」は「殬言」に通じ、「礼から外れた言葉」を意味します)、謙約節倹で、清廉公正なうえに威厳があるので(廉公有威)、わしは彼を愛して重んじている。汝曹(汝等)が彼に倣うことを願う。杜季良は豪侠で義を愛し(豪俠好義)、人が憂いることを憂いて人が楽しむことを楽しみ(憂人之憂,楽人之楽)、父の喪(葬儀)に客を招いたら、数郡からことごとく集まった。だからわしは彼を愛して重んじているが、汝曹(汝等)が彼に倣うことは願わない。伯高に倣って得られなくても、まだ謹敕(慎重。恭敬)の士にはなれる。いわゆる『白鳥を彫刻して失敗しても鴨には似ている(刻鵠不成尚類鶩)』というものだ。しかし季良に倣って得られなかったら、天下の軽薄な子(子弟)に陥ってしまう。いわゆる『虎を描いて失敗したら犬に似てしまう(画虎不成反類狗)』というものだ。」
 
龍伯高は山都長(山都県長)龍述(龍が姓、述が名です)、杜季良は越騎司馬(『資治通鑑』胡三省注によると、越騎校尉の属官に司馬がおり、秩千石でした)杜保で、どちらも京兆の人です。
 
後に杜保の仇人が馬援の書信を利用して上書し、杜保を訴えました「杜保は行動が浮薄(軽薄)で、群を乱して衆を惑わしています(乱群惑衆)。伏波将軍(馬援)が万里も離れた地から書を送って兄の子を誡めました。また、梁松と竇固は彼(杜保)と交わりを結んでおり、彼の軽偽(軽薄虚偽)を煽って諸夏(天下)を敗乱させようとしています。」
上書が報告されると光武帝は梁松と竇固を招き、訟書(訴えの上書)と馬援の誡書を示して譴責しました。
梁松と竇固は叩頭して血を流し、なんとか罪を得ずにすみました。
光武帝は詔を発して杜保の官を免じ、龍述を抜擢して零陵太守に任命しました。
この事件がきっかけで梁松は馬援を恨むようになります。
 
馬援が武陵蛮を討伐して下雋(県名)に駐軍しました。
この後の進攻径路は二つあります。一つは壺頭(『資治通鑑』胡三省注によると、山の名です)から進む道で、距離が近いものの激しい水流があります(近而水嶮)。もう一つは充(『資治通鑑』胡三省注によると、武陵郡に属す県です)から進む道で、道は平坦ですが輸送が遠くなります(塗夷而運遠)
耿舒は充の道を進みたいと思いましたが、馬援は時間と食糧を浪費することになる(棄日費糧)と考え、壺頭から進むべきであり、敵の喉元を押さえれば(搤其喉咽)充県の賊は自滅すると判断しました。
馬援がこの内容を上書すると、光武帝も馬援の策に同意します。
こうして馬援は兵を進めて壺頭に営を構えました。
 
ところが賊は高所を利用して険隘な地を守りました。水流が速いため船も上れません(下雋は長沙郡に属します。馬援軍は東から西に向かっているので、川を遡らなければなりません)
ちょうど激しい熱暑の時に当たったため、士卒の多くが疫病で死に、馬援も病を患いました。
馬援軍は岸を穿って室(部屋)を作り、その中で炎気を避けます。
賊が険阻な高地に登って戦鼓を敲いたり喚声を上げると、(疫病を患った)馬援はいつも足を引きずってそれを観察しました。左右の者はその壮意に感動して哀しみ、涙を流さない者はいませんでした。
 
耿舒が兄の好畤侯耿弇に書を送りました「当初、舒(私)は、先に充を撃つべきだと上書しました。たとえ糧(兵糧)の輸送が困難でも、兵馬は用いることができ、軍人数万が争って先に奮戦することを欲するはずです(争欲先奮)。しかし今、壺頭で進めなくなり、大衆が鬱憤して死に向かっています(怫鬱行死)。誠に痛惜するべきです。以前、臨鄕に至った時は、賊が理由もなく自ら至りました(無故自致)。もし夜の間にこれを撃っていれば、殄滅(殲滅)できたはずです。しかし伏波(伏波将軍馬援)は西域の賈胡(商人)のように一カ所に至るたびに停止したため、利を失いました。今も果たして疾疫に苦しんでおり、全て舒(私)の言の通りになっています。」
耿弇は書を得ると光武帝に上奏しました。
光武帝は梁松を駅(駅馬。駅車。早馬)に乗せて派遣し、馬援を責問させました。梁松は監軍の代理になります(因代監軍)
 
ちょうどこの時、馬援が死んでしまいました。
梁松はこの機に馬援を陥れました(讒言しました。原文「因是構陷援」)
光武帝は激怒して馬援から新息侯の印綬を没収します。
資治通鑑』胡三省注によると、新息侯国は汝南郡に属します。かつての息国です。
 
以前、馬援が交趾にいた時、馬援は常に薏苡(はとむぎ)の実を食べていました。体を軽敏にして障気に勝つとされていたからです。
馬援軍が帰還した時には一車に薏苡が積まれていました。
馬援の死後、上書して馬援を讒言する者がいました。以前、車に積んで持ち帰ったのは全て明珠や文犀(模様がある犀の角)だったという内容です。
光武帝はますます憤怒しました。
 
馬援の妻子は惶懼したため、馬援の喪(霊柩)を旧塋(祖先の墳墓)に運ぶことができず、域西(塋域の西。墓地の西)で稾葬(簡単な埋葬)しました。馬援の賓客や故人(知人)も敢えて弔会(弔問、葬儀)に参加しようとはしませんでした。
 
「域西で稾葬した(稾葬域西)」というのは『資治通鑑』の記述で、『後漢書馬援列伝(巻二十四)』には「城西で数畆の地を買って稾葬しただけだった(裁買城西数畆地稾葬而已)」とあります。『資治通鑑』の「域西」は「城西」の誤りかもしれません。
 
馬厳と馬援の妻子は草索(草の縄)で縛って連なり、宮闕を訪ねて罪を請いました。
光武帝が梁松の書を示したため、馬援の家族は始めて何の罪に坐したかを知り、上書して冤罪を訴えました。上書は前後六回に及び、その辞は甚だ哀切(哀傷悲痛)でした。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代62 光武帝(六十二) 朱勃の上書 49年(2)