東漢時代64 光武帝(六十四) 柔よく剛を制す 51年

今回は東漢光武帝建武二十七年です。
 
辛亥 51
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏四月戊午(二十一日)、大司徒玉況が死にました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
五月丁丑(十一日)光武帝が詔を発しました「昔、契が司徒になり、禹が司空になったが、皆、官名に『大』の字がなかった(皆無大名)。よって二府に『大』を去るように命じる。」
光武帝紀下』の注によると、かつて朱祐(朱祜)が三公から「大」の字を取って経典に法るべきだと進言しました。今回、光武帝は朱祐の言を採用しました
 
こうして「大司徒」と「大司空」から「大」の字が除かれ、また、「大司馬」が「太尉」に改められました。
驃騎大将軍行大司馬劉隆を即日罷免し、太僕趙熹を太尉に、大司農馮勤を司徒に任命します。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
益州郡徼外(界外)の蛮夷が種人(族人)を率いて内属しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
北匈奴が使者を送って武威を訪ねさせ、東漢に和親を求めました。
資治通鑑』胡三省注によると、北地郡以東では南部南匈奴が塞内に分居しており、北匈奴の使者が塞下に行けないため、西の武威を訪ねました。
 
光武帝は公卿を招いて廷議(朝廷の会議)しましたが、決断できませんでした。
皇太子劉荘が言いました「南単于が帰附したばかりで、北虜北匈奴は討伐されるのを懼れたので、耳を傾けて(漢の命を)聴き(傾耳而聴)、争って義に帰すことを欲したのです。今、まだ兵を出すことができないのに(漢には遠征する力がないのに)、逆に北虜と交通したら、南単于が二心を抱くことになり、北虜の降者も再び来ることがなくなるのではないかと恐れます。」
納得した光武帝は武威太守に北匈奴の使者を受け入れないように告げました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
朗陵侯臧宮、揚虚侯馬武が上書しました「匈奴は利を貪り、礼信が無いので、窮したら稽首し、安んじたら侵盗します。虜は最近、人畜が疫死し、旱蝗によって赤地になり、疲困乏力して中国の一郡にも当たらず、万里の死命が陛下にかかっています(縣在陛下)。福は再び至らず、時機は失いやすいものです(原文「時或易失」。「或」の意味が分かりません)。文徳を固守して武事を落とすべきでしょうか(豈宜固守文徳而墮武事乎)。今、将に命じて塞に臨ませ、厚い購賞を懸け、高句驪、烏桓鮮卑に喩告して左を攻めさせ、河西四郡、天水、隴西の羌胡を動員して右を攻めさせれば、北虜が滅ぶのは数年を越えません(不過数年)。臣は陛下が仁恩のために忍びず、謀臣が狐疑し(疑って躊躇し)、万世刻石の功を聖世光武帝の世)に立てられなくすることを恐れます。」
 
光武帝が詔を発して応えました「『黄石公記(黄石公は西漢張良に書を与えた人物です)』にはこうある『柔は剛を制すことができ、弱は強を制すことができる(柔能制剛,弱能制強)。近くを棄てて遠くを謀る者は労して功がない(舍近謀遠者,労而無功)。遠くを棄てて近くを謀る者は安逸で成果がある(舍遠謀近者,逸而有終)。だからこう言われているのだ。地を広くすることに務める者は廃(荒廃)(務広地者荒)、徳を広めることに務める者は強くなる(務広徳者強)。自分が有している物を所有する者は安らぎ(有其有者安)、人が有している物を貪る者は残(残暴)となる(貪人有者残)。残暴荒廃の政は、たとえ成っても必ず敗れるものだ(残滅之政,雖成必敗)。』今、国に善政がなく、災変が止まないため、百姓が驚惶し、人々は自分を守ることもできない(人不自保)。それなのに遠く辺外の事を行おうと欲するのか(而復欲遠事辺外乎)孔子はこう言った『わしは季孫の憂が顓臾にはないないことを恐れる(魯の季孫氏が憂いとするべきことは、外部の顓臾という国ではなく、もっと身近にあるのではないか。原文「吾恐季孫之憂不在顓臾」。『論語』の言葉です)。そもそも北狄はまだ強く、また、屯田警備によって伝聞した事は常に多くが実を失っている(多くの内容が誤りである)。誠に天下の半(天下の半分の国力)を挙げて大寇を滅ぼすことができるのは、どうして至願(最高の願い)ではないだろう(誠能挙天下之半以滅大寇,豈非至願)。もしその時ではないのなら、民を休息させるべきである(苟非其時不如息民)。」
この後、諸将は敢えて兵事について進言しなくなりました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
光武帝が趙熹に久長の計(国を長く安定させるための計)を問いました。趙熹は諸王を派遣して国に就かせるように請います。
 
冬、光武帝は魯王劉興と斉王劉石を封国に就かせました。
劉興は光武帝の兄劉縯の次子で、劉石は劉縯の長子劉章の子、劉縯の嫡孫に当たります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、光武帝の舅(母の兄弟)に当たる寿張恭樊宏が死にました。
資治通鑑』胡三省注によると、寿張県は東平国に属し、春秋時代は「良」、漢代は「寿良」といいましたが、光武帝が叔父の趙王劉良の諱(実名)を避けて「寿張」に改めました。
樊宏の諡号は「敬侯」ですが、『資治通鑑』は「恭侯」としています。『資治通鑑』の編者司馬光が国諱(国が定めた避諱)を避けたからです(宋を建国した趙匡胤は祖父の名が趙敬だったため、「敬」を国諱にしました)
また、袁宏の『後漢紀』では「樊宏」を「樊密」としていますが、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』に従っています(以上、『資治通鑑』胡三省注参照)
 
樊宏の為人は謙柔(謙虚温和)かつ畏慎(慎重)で、朝会がある時はいつも決められた時間より前に到着し、伏して命を待ちました(俯伏待事)
便宜を上奏する時は、自ら手書きし、草本(下書き)を毀削(破毀)しました。
朝廷で光武帝の質問が及んでも(公朝訪逮)、敢えて大衆の前では応えませんでした。
宗族はその教化に染まり、法を犯した者がいません。
光武帝は樊宏を甚だ重んじました。
 
樊宏は病に苦しむようになってから遺言で薄葬を命じ、一切の副葬品を用いさせませんでした(一無所用)
また、棺柩は一度埋葬したら再び見るべきではないと考えました。後日、墓を掘って棺や遺体が腐敗していたら孝子の心を傷つけることになるからです。そこで夫人とは墳墓を同じにしても墓穴は違う場所にさせました(同墳異藏)
資治通鑑』胡三省注によると、古代は夫婦を合葬しており、死んだら同じ墓穴に入れられました。「同墳異藏」は樊宏から始まったようです。
 
光武帝は樊宏が遺した令を称賛し、遺書を百官に示してこう言いました「今、寿張侯の意に順わなかったらその徳を明らかにできない(無以彰其徳)。わしの万歳の後崩御の後)も、これを式(規格、規定)とすることを欲する。」
 
 
 
次回に続きます。