東漢時代66 光武帝(六十六) 封禅の議 53~55年

今回は東漢光武帝建武二十九年から三十一年までです。
 
癸丑 53
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
春二月丁巳朔、日食がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
光武帝が使者を送って冤獄(冤罪)を挙げさせ、繫囚(囚人)を釈放しました。
 
庚申(初四日)、天下の男子に爵を与えました。一人あたり二級です。
また、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧しくて自存できない者に一人当たり粟五斛を与えました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
夏四月乙丑、光武帝が詔を発し、天下の繫囚(囚人)で殊死已下(死刑以下)から徒(徒刑。刑具をつけて労役に従事させる刑)に及ぶ者はそれぞれ元の罪から一等を減らし、その他の贖罪輸作にはそれぞれ差がありました(其余贖罪輸作各有差)
最後の部分は理解が困難です。「死刑以下、徒刑までは罪一等を減らし、それ以外(笞刑、杖刑等)は贖罪として輸作(労役の刑)に変えた。輸作の程度は元の罪によって異なる」という意味だと思いますが、誤りかもしれません。
 
 
 
甲寅 54
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
春正月、鮮卑大人が内属して(東漢に帰順して)朝賀しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
二月、車駕光武帝が東巡しました。
群臣が進言しました「即位して三十年になるので、泰山で封禅するべきです。」
しかし光武帝は詔を発してこう言いました「即位して三十年、百姓が怨気で腹を満たしている。わしは誰を欺くのだ。天を欺くのか(原文「吾誰欺,欺天乎」。『論語』の言葉です)。泰山は林放に及ばないというのか(原文「曾謂泰山不如林放乎」。これも『論語』の言葉です。下述します)。なぜ七十二代の編録(太古に封禅を行った帝王七十二家の記録。東周襄王二年651年に触れました)を汚すのだ。もし郡県が遠くから吏を派遣して寿を祝い(上寿)、虚美を盛んに称えるようなら、必ず髠(髪を剃る刑)に処して屯田を命じる。」
群臣は封禅について敢えて進言しなくなりました(但し、二年後に封禅の儀式が行われます)
 
文中の「曾謂泰山不如林放乎」は『論語八佾』からの引用です。
林放は人名で、礼に精通していたため孔子も称賛しました。
春秋時代後期、魯国の季孫氏が泰山で祭祀を行おうとしました。周代の礼では天子と諸侯だけが名山大川の祭祀を行う権利を持っていたので、季孫氏の行為は礼を越えています。
そこで孔子が季孫氏に仕える冉有に問いました「汝は阻止できるか?」
冉有は「できません」と答えます。
孔子は「泰山が林放に及ばないというのか(泰山の神仙が礼に精通している林放に及ばないというのか。泰山の神仙も林放のように礼を知っているから、季孫氏が祭祀を行っても、それを受け入れるはずがない)」と言って季孫氏と冉有を批難しました。
 
甲子(十三日)光武帝が魯を行幸し、済南に進みました。
閏月癸丑(中華書局『白話資治通鑑』は「閏三月初三日」としています)光武帝が皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
孛星が紫宮に現れました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏四月戊子(初九日)、左翊王劉焉光武帝の子)を中山王に遷しました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
五月、大水(洪水)がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
天下の男子に爵を与えました。一人当たり二級です。
また、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧しくて自存できない者に一人当たり粟五斛を与えました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
秋七月丁酉(中華書局『白話資治通鑑』は「丁酉」を恐らく誤りとしています)光武帝が魯を行幸しました。
 
済陽県の本年の徭役を免除しました。
 
冬十一月丁酉(中華書局『白話資治通鑑』は「丁酉」を恐らく誤りとしています)光武帝が魯から皇宮に還りました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
膠東侯賈復諡号は剛侯)が死にました。
 
後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』は賈復が死んだ年を建武三十一年(翌年)としています。『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』が建武三十年としており、『資治通鑑』は『後漢紀』に従っています。
 
賈復は征伐に従って喪敗(失敗。大敗)したことがなく、しばしば諸将と共に包囲を破って危急を解き(潰囲解急)、身体に十二創(傷)を負いました。
光武帝は賈復が敢えて深入りするため、稀にしか遠征を命じませんでした。但し、その勇節(勇壮な気風)を称賛して常に自分に従わせます。その結果、賈復は方面での勳(独立した勲功)が多くありませんでした。
諸将が功伐(功績)を論じても、賈復は何も言いませんでしたが、光武帝はいつも「賈君の功はわしが自ら知っている」と言いました。
 
 
 
乙卯 55
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
夏五月、大水(洪水)がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
天下の男子に爵を与えました。一人当たり二級です。
また、鰥寡(配偶者を失った男女)孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧しくて自存できない者に一人当たり粟六斛を与えました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
癸酉晦、日食がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』と『資治通鑑』からです。
この夏、蝗害がありました。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
秋九月甲辰、光武帝が詔を発し、死罪の繫囚(囚人)を全て集めて蚕室に下しました。女子も宮刑にしました光武帝建武二十八年52年参照)
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
この年、陳留で穀物の雨が降りました。その形は稗(ひえ)の実のようでした。
 
[] 『後漢書光武帝紀下』からです。
北匈奴が使者を送って奉献(貢献。進貢)しました。
 
 
 
次回に続きます。