東漢時代67 光武帝(六十七) 封禅 56年(1)
丙辰 56年
年号の「中元」ですが『資治通鑑』胡三省注によると、成都にある漢蜀郡太守・何君が造った『尊楗閣碑』に「建武中元二年六月」と書かれており、『後漢書・祭祀志上』には「建武三十二年を建武中元元年にした」と明記されています。また、『後漢書・東夷列伝(巻八十五)』にも「建武中元二年、倭奴国が貢物を奉じて朝賀した」とあります。
京兆掾・第五倫(第五が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、第五氏の先祖は斉国の田氏で、西漢時代に長陵(高帝廟)に遷されました。園陵に遷された田氏が多かったため、移された順に「第」をつけて氏にしました。「第五」以外にも「第一」「第二」等の氏があります)が長安の市を管理して公平かつ廉介(清廉正直)だったため、市に姦枉(奸悪不正)がなくなりました。
同輩の者が笑って言いました「汝は将(州将。州牧・州刺史)と話しても下すことができない(州将を動かすこともできない)。どうして万乗(天子)を動かすことができるのだ。」
第五倫が言いました「まだ知己に遇うことなく、道が同じではないからだ(自分を理解できる者に会って同じ道を進めば、皇帝に認められる機会が訪れる)。」
後に第五倫は孝廉に上げられ、淮陽医工長の職を担当することになりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、王国の官に礼楽長、衛士長、医工長、永巷長、祠祀長があり、全て比四百石でした。礼楽長は楽人を、衛士長は衛士を、医工長は医薬を、永巷長は宮中の婢使(奴婢)を、祠祀長は祭祀を主管します。
春正月、淮陽王・劉延が入朝しました。
第五倫も淮陽王の官属に従って会見の機会を得ます。
光武帝が第五倫に言いました「卿が吏になってから、婦公(妻の父)を殴り(原文「篣婦公」。「篣」は棒や笞で打つことです)、従兄を訪ねても食事を共にしなかった(不過従兄飯)と聞いたが、そのような事があったのか(寧有之邪)?」
第五倫が答えました「臣は三回妻を娶りましたが、皆、父がいませんでした。また、幼い時に餓乱に遭遇したので(少遭饑乱)、誠に敢えて妄りに人の家を訪ねて食事をすることができないのです(実不敢妄過人食)。衆人は臣を愚蔽(愚鈍。愚かで事理に通じていないこと)だと思っているので、このような語(噂)が生まれたのです。」
光武帝は大笑しました。
第五倫は扶夷長になりましたが、官に就く前に改めて会稽太守に任命されました。
その政事は清らかで、恵みを施したため、百姓に愛されました。
その結果、これらの書の三十六事において「九世が封禅するべきである」という内容が見つかります。
「九世」は光武帝を指します。光武帝は自分を西漢元帝の後継者という立場に位置づけしたので、漢朝の第九代皇帝になります(第一代・高帝、第二代・恵帝、第三代・文帝、第四代・景帝、第五代・武帝、第六代・昭帝、第七代・宣帝、第八代・元帝、第九代・光武帝です)。
そこで張純等が再び上奏して封禅を請いました。
そこから方石再累、玉検、金泥を使うべきであると知ります。
「方石再累」は正方形の石を重ねた物、または組み合わせた物です。祭壇の中央に置かれました。方五尺(五尺四方)、厚さ一尺で、玉牒書を方石(の下)にしまいます。
「玉牒書」は封禅の儀式で納める文書で、玉簡に書かれていました。玉簡は厚さ五寸、長さ一尺三寸、幅五寸です。
「玉検」は玉牒書に封をする部分です。玉簡の文書を巻いて紐で束ねてから「玉検」で封をし、印が押されます。
また、「石検」も十枚あり、石の傍(上述の「方石」の周りです)に並べて置かれました。東西に各三個、南北に各二個です。全て長さ三尺、広さ一尺、厚さ七寸です(まず玉検を使って玉牒書を封印し、玉牒書を方石の下にしまってから更に石検を使って封印しました)。
「検(恐らく「玉検」を指します)」は三カ所が刻まれており(恐らく巻物を縛るための紐を通す場所です)、深さ四寸、方五寸(五寸四方)で、蓋があります。
光武帝は方石を完成させるのが困難だと考え、孝武皇帝(西漢武帝)がかつて封をした石を利用して玉牒をその中に置こうとしました。しかし梁松等が激しく反対したため、石工に命じて完全な青石を採取させ、五色は必要としないことにしました。
北海王・劉興と斉王・劉石が東嶽(泰山。太山)で朝見しました。
辛卯(二十二日)晨(早朝。日が出る頃)、泰山の麓の南側で柴を焼いて(この儀式を「燎祭」といいます)天を祭りました(柴望岱宗)。群神も全て従祀(一緒に祀ること)し、南郊(京城南郊で行う天の祭祀)と同じ音楽を用います。
日中(正午)が過ぎてから山上に到着し、更衣します。
『資治通鑑』胡三省注によると、泰山は山の下から頂上まで四十八里二百歩ありました。
尚書令が方石の周りに置かれた石検に五寸の印を押して封をします。
甲午(二十五日)、梁陰(梁父山の陰。「陰」は山の北です)で「禅」を行って地を祀りました(『後漢書・祭祀志上』によると、地を清めることを「墠」といい、後に「禅」に改められました)。高后(高帝の妻。呂后)を地に配し、山川の群神を従祀します。
三月戊辰(三十日)、司空・張純が死にました。
次回に続きます。