東漢時代71 光武帝(七十一) 劉蒼 57年(3)

今回で東漢光武帝中元二年が終わります。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月丙辰(二十四日)、明帝が詔を発しました「予末小子(帝王の謙遜した自称。私)は聖業を奉承(継承)して夙夜(朝から夜まで)震畏しており、荒寧(荒廃怠惰。安逸を貪ること)するわけにはいかない。先帝は命を受けて中興し、徳が帝王と等しく(徳侔帝王)、万邦を協和させ、上下を至らせ(上下を通じさせ。原文「假於上下」。『顕宗孝明帝紀』の注によると、「假」は「至」の意味です)、百神を懐柔し、鰥寡(配偶者を失った男女。身寄りがない者)に恵みを与えた。朕は大運を承り、国体を継いで文徳を守ることになったが(原文「継体守文」。『顕宗孝明帝紀』の注によると、創設の主は武功によって禍乱を定め、それを継いだ者は文徳を守ります)、稼穡(農業)の艱難を知らず、廃失があることを懼れる。聖恩が遺戒し(先帝が遺言によって戒め)、天下を顧重(重視)して元元(民衆)を首(重要なこと)とさせた。公卿百僚はどのようにして朕の不足を輔佐するつもりだ(将何以輔朕不逮)
天下の男子一人に二級の爵を下賜し(『顕宗孝明帝紀』の注によると、「男子」は戸内の長です)、三老・孝悌・力田には一人に三級を与える。爵が公乗を越えている者は、子や同産(同母兄弟)または同産の子に移し与えることができる爵位には二十級があり、戦国時代の秦で作られて漢も踏襲しました。一は公士、二は上造、三は簪、四は不更、五は大夫、六は官大夫、七は公大夫、八は公乗、九は五大夫、十は左庶長、十一は右庶長、十二は左更、十三は中更、十四は右更、十五は少上造、十六は大上造、十七は駟車庶長、十八は大庶長、十九は関内侯、二十は徹侯です。このうち徹侯は西漢武帝劉徹の名を避けて列侯に改められました。『顕宗孝明帝紀』の注によると、民に下賜する爵は公士から公乗までとされていたため、既に公乗の爵位を持つ者は、新たに下賜された爵位を子や兄弟等に分け与えました)。流人(流亡した人)で名数(名簿。戸籍)がなくても自ら名乗り出て戸籍を欲した者(流人無名数欲自占者)には一人に一級を与える。鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)には粟を一人に十斛与える。
(刑具を外されて兵役、労役に就いている囚人)および郡国の徒(囚徒)で、中元元年56年)四月己卯(十一日)の赦前大赦前)に罪を犯し、後に大赦後に)捕まって繋がれた者は、ことごとくその刑を免じる。また辺境の人で乱に遭って内郡の人の妻となり、それが己卯の赦前だった者は、一切辺境に送り還らせ、欲する通りにさせる(自由にさせる。原文「恣其所楽」)。中二千石以下、黄綬に至る者で(『顕宗孝明帝紀』の注によると、漢制では二百石以上が銅印黄綬を持ちました)(罪を犯したために)秩を落として贖罪するという判決が下された者は(貶秩贖論者)、全て秩を戻して贖罪した額を返すことにする(復秩還贖)
今は上に天子がなく、下に方伯(諸侯の長。重臣がなく、淵水を渡るのに舟楫(かじ)がないようなものだ。万乗(皇帝)とは至重(最も重要)だが、壮者の慮は軽いので(少壮の者は思慮が浅いので)、実に徳がある者が小子(明帝)を左右(補佐)することを頼りにする(実頼有徳左右小子)。高密侯(鄧禹)は元功の首であり、東平王(劉蒼。明帝の同母弟)は寛博(寛大。度量が大きいこと)で謀があるので、共に六尺(『顕宗孝明帝紀』の注によると、「六尺」は十五歳以下を指します。但し、ここでは新たに即位した明帝を指します)の託を受けることができ、大節に臨んで不撓(不屈)である。よって禹を太傅に、蒼を驃騎将軍にする。
太尉(趙憙)は南郊で告謚(天に先帝の諡号を報告すること)し、司徒(李訢)は梓宮(梓木の棺)を奉安(安置)し、司空(馮魴)は校を指揮して(原文「将校」。『顕宗孝明帝紀』の注によると、五校の兵を指揮するという意味です)復土(墓穴に棺を入れてから土を盛ること)せよ。憙を節郷侯に、訢を安郷侯に、魴を楊邑侯に封じる。」
 
以下、『資治通鑑』からです。
劉蒼は驃騎将軍の職を辞退しようとして明帝に強く請いましたが、明帝は許しませんでした。
明帝は詔を発し、驃騎将軍の下に長史と掾史を置いて員数を四十人に定め、位を三公の上にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、四府(三府は三公府で太尉、司徒、司空を指します。残りの一府は、通常は太傅または大将軍を指します)の掾史は四十人もいませんでしたが、今回、特別に驃騎将軍の定員を増やして優待しました。
 
以下、『後漢書宣張二王杜郭呉承鄭趙列伝(巻二十七)』と『資治通鑑』からです。
劉蒼はかつて斉国の人呉良を招いて西曹掾(『資治通鑑』胡三省注によると、西曹は府史の署用(下級官吏の人事任命)を担当しました。秩は比四百石です)にしました。
後に劉蒼が呉良を推挙する上書を行い、こう言いました「国が重んじるのは、必ず人を得ることにある(国にとっては人材を得ることが最も重要である。原文「為国所重,必在得人」)と聞いています。報恩の義(道理)において、士を薦めることより大きなものはありません。臣が見るに(竊見)、臣府(驃騎将軍府)の西曹掾斉国の呉良は資質が敦固(敦厚堅貞)で、公方(公正)廉恪(廉潔恭敬)なうえ、自ら倹約して貧に安んじ(躬倹安貧)、白髪になっても志節を変えません(白首一節)。また、『尚書』を治めて(研究して)師法に学通(精通)(『後漢書』の注によると、呉良は大夏侯氏の学派による『尚書』に習熟していました。大夏侯氏学派は西漢の夏侯勝から始まります)、博士の任務を経歴しました。行動は中正で外貌に儀礼があります(行中表儀)。よって、宿衛に備えて聖政を輔佐させるべきです。臣蒼は栄寵が極まっており(栄寵絶矣)、責任が深大であることを憂いています。心中で公叔が共に昇進した義を慕い(公叔は文子といい、衛国の大夫でした。文子には僎という家臣がおり、操行(品行。志向)が文子と同じだったため、文子は僎を昇進させて共に大夫になりました)、臧文の竊位(位を盗むこと。相応しくない位に就くこと)の罪を懼れるので(臧文(臧文仲)は魯の大夫臧孫辰で、柳下恵の賢才を知りながら昇進させなかったため、孔子が「臧文仲は竊位の者だ」と言って批判しました)、敢えて愚瞽(愚鈍なこと。ここでは愚見)をもって厳禁を犯します(原文「犯冒厳禁」。上奏する際の謙遜した言葉です)。」
 
明帝は劉蒼の上書を公卿に示してこう言いました「以前、ある事があって呉良に会ったが、鬚髪が皓然(純白な様子)とし、衣冠が甚だ立派であった(衣冠甚偉)。賢才を薦めて国を助けるのは宰相の職である(通常、宰相は三公を指しますが、ここでは驃騎将軍・劉蒼を指します)。蕭何が韓信を挙げた時は、壇を設けて拝しただけで、改めて考試(試験)をしなかった。今、(試験をせず)呉良を議郎にしよう。」

[] 『資治通鑑』からです。
以前、焼当羌の豪(長)滇良が先零を攻めて破り、その地を奪って居住しました。
 
光武帝建武十二年36年)羌族の無弋爰剣について書きました。
後漢書西羌伝(巻八十七)』と『資治通鑑』胡三省注からその後の事を簡単に書きます。
無弋爰剣の玄孫(曾孫の孫。五世後)硏は湟中に住みました。硏が豪健だったため、羌族の中でこの種(族)は硏種と呼ばれるようになりました。
更に硏から十三世孫焼当の代に至り、また豪健だったため、子孫が焼当を種号(族号)に改めました。
滇良は焼当の玄孫に当たります。
焼当から滇良に至る間は、代々、河北の大允谷に住んでおり、その種族は小さく、人々は貧しい生活を送っていました。
これに対して先零や卑湳は強大かつ富裕で、しばしば焼当羌を侵しました。
滇良父子はかねてから種族の間で恩信があったため、先零や卑湳の侵略に憤怒して附落(附属する部落)や諸雑種(様々な種族)を集合させ、先零、卑湳を襲撃して大破しました。三千人を殺し、財畜を奪い、大楡の地を奪います。ここから焼当羌は強盛になりました。
 
以下、『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
滇良の死後、子の滇吾が立ちました。附落がますます盛んになります。
秋九月、滇吾と弟の滇岸が衆を率いて隴西を侵し、太守劉盱が率いる郡兵を允街で破りました。
資治通鑑』胡三省注によると、允街は金城郡に属し、麗水に臨むので麗水城ともいいます。
 
これがきっかけで辺塞を守る諸羌も全て叛しました。
 
明帝は隴西の囚徒を赦して罪一等を減らし、この年の租調を回収しないことにしました。また、天水で徴発した三千人もこの年の更賦(兵役の代わりに払う税)を免除しました(原文「復是歳更賦」。既に兵役に就いているのに更賦を免除したというのは理解が困難です。田賦を免除したのかもしれません)
 
明帝は詔を発し、謁者張鴻に諸郡の兵を率いて背いた羌族を攻撃させました。
両軍は允吾で戦い、張鴻が敗れて戦没しました。
資治通鑑』胡三省注によると、允吾は金城郡に属す県です。西漢時代は允吾県といいましたが、東漢時代に龍耆県に改名されます。
 
冬十一月、明帝が再び中郎将竇固を派遣し、捕虜将軍馬武等二将軍と四万人を監督して討伐に向かわせました(翌年再述します)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』からです。
十二月甲寅、明帝が詔を発しました「春の戒節(季節の節目を告知すること。季節ごとの訓戒をすること)の時は、人々が耕桑(農業)に従事している(方春戒節,人以耕桑)。よって有司(官員)に勅令を出し、時気に順じることに務めて煩擾(攪乱。妨害)させないようにする。
天下の亡命(逃亡)・殊死(死刑)以下の者に贖罪の機会を与える(聴得贖論)。死罪は縑(絹の一種)二十匹を納め、右趾から髠鉗城旦と舂は十匹を納め(『顕宗孝明帝紀』の注によると、右趾は右足を切断する刑で、その下の刑に左足(左足を切断する刑)、劓(鼻を削ぐ刑)、黥(刺青の刑)と髠鉗のうえ城旦舂に処す刑がありました。髠鉗は髪を剃って刑具をつけることです。城旦は男囚の刑で、城壁の修築や警護をします。舂は女囚の刑で米を精製します)、完城旦と舂から司寇作は三匹を納めさせる(『顕宗孝明帝紀』の注によると、「完」は髠鉗を科されないことを意味します。「完城旦と舂」は髪を剃らず、刑具もつけずに城旦と舂の刑に服します。その下には鬼薪白粲、隷臣妾、司寇作の刑がありました。鬼薪は男囚の刑で、柴を刈ります。白粲は女囚の刑で、米を選別します。隷臣妾は奴隷に落とすこと、司寇作は辺境の労役です)。まだ(罪が)発覚しておらず、詔書が至る前に自ら告げた者は、これらの半分を贖罪として納める(半入贖)
今は選挙が不実で邪佞がまだ去っていない。権門が請託(こねを使って請うこと)して残吏(残刻な官吏)が放手し(欲を貪るために好き勝手に振る舞い)、百姓は愁怨しているが情(実情)を告訴することがない。有司(官員)は罪名を明奏し(明らかにして上奏し)、あわせて検挙した者を正せ(并正挙者)。また、郡県が徴発するごとに、軽率に姦利を為し、羸弱(弱者)を詭責(譴責)してまず貧窮した者を逼迫している(先急下貧)。今からは均平(平等)であることに務め、枉刻(不公正で苛酷)になってはならない。」
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この年、南単于(丘浮尤鞮単于が死に、弟の汗が立ちました。これを伊伐於慮鞮単于といいます。
 
 
 
次回に続きます。