東漢時代73 明帝(二) 焼当羌討伐 58年(2)

今回は東漢明帝永平元年の続きです。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、捕虜将軍・馬武等が焼当羌(滇吾と滇岸)を撃って大破しました。他の種族は全て東漢に降るか離散しました。
東漢は士卒を募って隴右を守らせ、一人当たりに銭三万を下賜しました。
 
後漢書朱景王杜馬劉傅堅馬列伝(巻二十二)』から少し詳しく書きます。
明帝は馬武を捕虜将軍に任命し、中郎将王豊を副(副将)とし、監軍使者竇固、右輔都尉陳訢と共に出撃させました(前年の『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』の記述では、「明帝が中郎将竇固を派遣し、捕虜将軍馬武等二将軍と四万人を監督させた」としています。『後漢書竇融列伝(巻二十三)』を見ると、竇固は明帝が即位してから中郎将に遷って羽林の士を監督することになっているので、竇固の中郎将は「羽林中郎将」ではないかと思われます。但し、本来、羽林中郎将が管理するのは、「羽林の士」ではなく「羽林の郎」で、羽林郎は宿営侍従を担当します。王豊の詳細は分かりません)
 
馬武等は烏桓、黎陽営(『後漢書』の注によると光武帝が置いた兵営です)、三輔の募士、涼州諸郡に住む羌胡の兵および弛刑(刑を緩められた者)、合わせて四万人で焼当羌を撃ちました。金城浩亹に至って羌と戦い、六百級を斬首します。
しかし洛都谷で戦って羌に敗れ、千余人が殺されました。
 
この後、羌が衆を率いて辺塞を出ましたが、馬武が追撃して東西邯で大破しました。四千六百級の首が斬られて千六百人が捕虜になり、残りは全て降伏するか離散します。
馬武は軍を整えて京師に凱旋し、邑七百戸を増やされました。以前の封地と併せて千八百戸になります。
 
後漢書西羌伝(巻八十七)』によると、大敗した焼当羌の滇吾は遠くに退き、残った者は離散するか投降しました。東漢政府は投降した七千口を三輔に遷し、謁者竇林に護羌校尉の職を行わせて(領護羌校尉)狄道に住ませました。
竇林は諸羌に信用されていたため、滇岸が竇林を訪ねて降りました。
この時、竇林は下吏に騙されて、滇岸を「大豪(大首領)」として上奏しました。承制(皇帝の代わりに命令を出すこと)によって滇岸を帰義侯に封じ、漢大都尉の号を加えます。
翌年、滇吾も竇林に降りました。竇林は滇吾を「第一豪(第一の首領)」として再び上奏し、滇吾と共に宮闕を訪ねて献見(貢献朝見)しました。
明帝は一つの種属に二人の豪がいることを怪しみ、真偽を疑って竇林を詰問しました。
竇林は返答に窮して「滇岸が滇吾です。隴西の語が正確ではないだけです(不正耳)」と偽ります。
明帝は徹底的に究明して真相を知り、怒って竇林の官を免じました。ちょうど涼州刺史も竇林の臧罪(貪汚、収賄の罪)を上奏したため、竇林は下獄されて死にました(竇林が死ぬのは翌年のことです。再述します)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
山陽王劉荊(明帝の弟)が秘かに占星術ができる者を招き、共に謀議して天下に異変が起きることを願いました。
 
八月戊子、これを聞いた明帝は劉荊を広陵王に改封して国に向かわせました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
遼東太守祭肜が偏何鮮卑の大都護。東漢光武帝建武二十五年49年参照。『資治通鑑』胡三省注によると、偏氏は高辛氏(帝嚳)の後代です)に赤山の烏桓を討たせました。
偏何は烏桓を大破して魁帥(首領)を斬りました。
 
この事件は塞外を震讋(震撼)させ、西は武威から東は玄菟に至るまで全て内附東漢に帰順すること)しに来ました。
こうして野に風塵(戦乱)がなくなったため、縁辺(辺境)の屯兵を全て撤収しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
東平王劉蒼(明帝の同母弟)は中興してから三十余年が経ち、四方に憂いがなくなったので、礼楽を修めるべきだと考えました。
そこで、公卿と共議して南北郊の冠冕(冠)や車服の制度および光武廟の登歌、八佾舞の数(形式)を定め、これらの内容を上奏しました。
 
後漢書祭祀志上』と『資治通鑑』胡三省注によると、光武帝建武二年26年)に南郊を建てて、中元元年56年)に北郊を建てました(『資治通鑑』本文では、北郊を建てたのは中元二年・57年です)
しかし南北郊における冠冕や車服の制度が定められていなかったため、今回制定することになりました。
「登歌」は祭典で使う歌です。楽師が堂に登って歌うため、「登歌」といいます。
「八佾舞」は天子の祭祀で使う楽舞で、「佾」は楽舞の列を意味します。八八六十四人が並んで舞うので「八佾舞」といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
好畤侯耿弇が死にました。諡号は愍侯です。
資治通鑑』胡三省注によると、『諡法』に「国にいて憂いに遭うことを愍という(在国遭憂曰愍)」とあります。当時は国に大喪光武帝の喪)があったため、耿弇の諡号を「愍」とし、国の大喪と同じように悲しんでいることを示しました(言與国同戚也)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀からです。
の姑復夷(『顕宗孝明帝紀』の注によると、姑復は県名です)が叛しましたが、州郡が討伐して平定しました。
 
 
 
次回に続きます。