東漢時代75 明帝(四) 桓栄 59年(2)

今回は東漢明帝永平二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
明帝は太子だった頃に桓栄から『尚書』を習ったため、帝位に即いてからも桓栄を尊重して師礼(師に対する礼)を用いていました。
ある日、太常府を訪ねた時、桓栄を東面に座らせて几杖(肘置きと杖)を設け、百官や桓栄の門生数百人を集めました。明帝自ら経典を持って桓栄の講義を聞きます(親自執業)。諸生のある者が席を離れて明帝に発難(質問)しましたが、明帝は謙遜して「太師がここにいる」と言いました。
講義が終ってから、太官の供具(器具。酒食)を全て太常の家に下賜しました。
 
桓栄が病になると、明帝はいつも使者を送って慰問しました。太官や太医が互いに道で望み合います(道に連なります)
桓栄は危篤になってから恩を謝す上書をして爵土を返還しようとしました。
 
明帝が桓栄の起居を問うために(容態を看るために)家を訪ねました。街(居住区)に入ると車を降り、経典を抱いて前に進み、桓栄を撫でて涙を流します。
明帝は牀茵(敷布団)、帷帳、刀剣、衣被(衣服)を下賜して長く滞在してから去りました。
この後、諸侯、将軍、大夫で桓栄の病状を問う者は、敢えて車に乗ったまま門前に至ろうとせず、歩いて進んで、皆、牀(寝床)の下で拝礼しました。
 
やがて桓栄が死にました。
明帝は服を換えて喪に臨み、送葬に参加しました。首山(『資治通鑑』胡三省注によると、首陽山を指します)の陽(南)に冢塋(墓地)を下賜します。
 
桓栄の子桓郁が跡を継ぐ立場にいましたが、桓郁は兄の子桓汎に譲ろうとしました(『後漢書桓栄丁鴻列伝(巻三十七)』によると、桓栄の長子桓雍は早逝していたため、少子桓郁が継ぐことになりました)
明帝が許可しなかったため、桓郁が封を受けましたが、封地の租入(税収)は全て桓汎に与えました。
明帝は桓郁を侍中にしました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
中山王劉焉は郭太后の少子で、太后が最も愛していたため、一人だけ京師に留められていました。
本年、明帝が始めて他の諸王と共に封国に赴かせました。虎賁(武士)、官騎を下賜して(『後漢書光武十王列伝(巻四十二)』によると、北軍の胡騎で射術を善くする者百人が与えられました。官騎はこれを指します)恩寵をとても厚くし、自由に京師と封地の間を往来することを許します。
 
明帝は陰氏と郭氏をどちらも優遇し(郭太后は既に死んでいるので、郭太后の子や家族を優遇したという意味だと思われます)、全ての事を平等にしました。しばしば賞賜を授けて共に恩寵を厚くします。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
甲子(十七日)、明帝が西に巡狩(巡行)して長安に行きました。
高廟を祀ってから十一陵で祭祀を行います。
また、館邑(館舎?)を歴覧(歴遊)し、郡県の官吏を集めて慰労したり賞賜を与え、宴を開きました(労賜作楽)
 
十一月甲申(初七日)、使者を送って蕭何、霍光を中牢(豚と羊各一頭を使う祭祀の規格)で祭りました。
明帝も陵園を拝謁し、蕭何と霍光の墓地を通った時は「式」を行いました(「式」は「軾」とも書き、車上の礼です。「軾」は本来、車の前にある横木を指します。車上で礼を表す時、軾に手を置きました後漢書・顕宗孝明帝紀』の注によると、蕭何の墓は長陵東司馬門道の北百歩にあり、霍光の墓は茂陵東司馬門道の南四里にありました)
 
明帝が河東に進みました。
通った場所で二千石や令長以下、掾史に及ぶ官員に賞賜を与え、その内容にはそれぞれ差がありました。
 
癸卯(二十六日)、明帝が皇宮に還りました。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、護羌校尉竇林が欺罔(欺瞞)と臧罪収賄の罪)に坐し、獄に下されて死にました(前年参照)
竇林は竇融の従兄の子です。
 
当時、竇氏は一公、両侯、三公主と四人の二千石がいました。
祖父から孫の代に及ぶまで官府邸第(邸宅)が互いに京邑で望み合い(竇氏の官府や邸宅が京邑の至る所にあり)、皇帝の親戚や功臣の中にも比べられる者がいません。
以下、『後漢書竇融列伝(巻二十三)』と『資治通鑑』胡三省注からです。
一公は大司空で竇融を指します。
両侯は安豊侯竇融と顕親侯竇友(竇融の弟)です。
三公主は竇融の子竇穆が娶った内黄公主(誰の子かはわかりません)、竇穆の子竇勳が娶った沘陽公主(東海王劉彊の娘)、竇友の子竇固が娶った温陽公主光武帝の娘)です。
四人の二千石は衛尉竇融、城門校尉竇穆(竇穆の前は竇友が城門校尉でした)、護羌校尉竇林、中郎将竇固です。
 
本文に戻ります。
竇林が誅殺されてから、明帝がしばしば詔を下して厳しく竇融を責めたため、竇融も惶恐して引退を乞いました(乞骸骨)
明帝は詔を発し、竇融に帰宅して養生するように命じました(帰第養病)
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
この年、初めて五郊で気を迎える儀式(季節ごとに各方位で神仙を祭る儀式)を行いました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、気を迎える五郊の兆(祭壇。祭域)のうち四つは東西南北の郊外にあり、中央の兆は未(西南)に位置しました。
 
後漢書祭祀志中』に記述があるので抜粋します。
立春の日は東郊で春を迎え、青帝と句芒を祭りました。車旗服飾は全て青で、『青陽』を歌って八佾舞は『雲翹之舞』を舞います。
立夏の日は南郊で夏を迎え、赤帝と祝融を祭りました。車旗服飾は全て赤で、『朱明』を歌って八佾舞は『雲翹之舞』を舞います。
立秋の十八日前は中兆で黄霊を迎え、黄帝と后土を祭りました。車旗服飾は全て黄色で、『朱明』を歌って八佾舞は『雲翹の舞』と『育命之舞』を舞います。
立秋の日は西郊で秋を迎え、白帝と蓐收を祭りました。車旗服飾は全て白で、『西皓』を歌って八佾舞は『育命之舞』を舞います。
立冬の日は北郊で冬を迎え、黒帝と玄冥を祭りました。車旗服飾は全て黒で、『玄冥』を歌って八佾舞は『育命之舞』を舞います。
 
[] 『後漢書・顕宗孝明帝紀』と『資治通鑑』からです。
少府・新陽侯陰就(陰太后の弟)の子陰豊が酈邑公主を娶りました。
資治通鑑』胡三省注によると、酈邑公主は光武帝の娘です。
 
しかし公主が驕妬(驕慢で嫉妬深いこと)だったため、陰豊が公主を殺してしまいました。
陰豊は誅殺され、父母(陰就夫婦)連座して自殺しました。
後漢書樊宏陰識列伝(巻三十二)』によると、新陽侯国は廃されました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
単于(伊伐於慮鞮単于が死に、単于(呼韓邪単于の子適が立ちました。これを僮尸逐侯鞮単于といいます。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代76 明帝(五) 馬皇后 60年(1)