東漢時代76 明帝(五) 馬皇后 60年(1)
今回は東漢明帝永平三年です。二回に分けます。
東漢明帝永平三年
庚申 60年
春正月癸巳、明帝が詔を発しました「朕は郊祀を奉じ(郊祀を行い)、霊台に登り、史官を接見して儀度を正した(『顕宗孝明帝紀』の注によると、「儀」は渾儀を指します。日月星辰の運行を測定する機械で、霊台に置かれていました。史官は太史を指します。天文を担当する官です)。春とは歳の始めである。始めが正を得れば、三時(春夏秋)に成(成果)がある。最近、水旱に節(限度)がなく、辺境の人の食事が減っている(辺人食寡)。上で政治を失い、人(民)が咎を受けている(政失於上人受其咎)。よって、有司(官員)は時気に順じることに勉め、農桑を勧督し、螟蜮および蝥賊を除け(螟蜮も蝥賊も穀物を食べる害虫です)。慎重に刑罰を行い(詳刑慎罰)、単辞(一方の発言)を明察し(一方の発言だけに偏らず)、朝から夜まで怠惰せず(夙夜匪懈)、こうして朕の意にそうようにせよ(以称朕意)。」
二月甲寅(初九日)、太尉・趙熹と司徒・李訢を罷免しました。
丙辰(十一日)、左馮翊・郭丹を司徒にしました。
甲子(十九日)、明帝が貴人・馬氏を皇后に立てて、皇子・劉炟を太子にしました。
天下の男子に一人当たり二級の爵を、三老・孝悌・力田には一人当たり三級の爵を、流人(流亡の人)で名数(名簿・戸籍)がなくても名乗り出て籍を欲した者(流人無名数欲占者)には一人当たり一級の爵を下賜し、鰥寡(配偶者を失った男女)、孤独(孤児や身寄りがない老人)、篤𤸇(重病の者)、貧困のため自存できない者には一人当たり五斛の粟を与えました。
明帝が即位してから貴人になりました。
当時、馬貴人の前母姉の娘(原文「前母姊女」。「前母」は父の前妻です。「前母姉」は異母姉になります)・賈氏も選ばれて宮に入り、皇子・劉炟を生みました。
明帝は馬皇后に子がいなかったため、劉炟を養うように命じてこう言いました「人は自ら子を生まなければならないとは限らない。愛養が至らないことを憂いるだけだ(人未必当自生子,但患愛養不至耳)。」
馬皇后は心を尽くして劉炟を養育し、実の母が子に対するよりも労悴(辛苦)しました。
太子(劉炟)も孝性が淳篤だったため(天性の孝子だったため)、母子が慈愛し、常にわずかな間隙も生まれませんでした。
有司(官員)が長秋宮(皇后の宮殿です。ここでは皇后を指します)を立てることを上奏した時、明帝が口を開く前に皇太后(陰氏)がこう言いました「馬貴人は徳が後宮で冠しており(後宮で最も徳があり)、正にその人です(皇后に相応しい人です。原文「即其人也」)。」
常に大練(粗くて厚い織物)を着ており、裙には縁(飾り)がありません。
遠くから眺めた時は綺縠(絹織物)だと思いましたが、近づいてよく見ると疏粗(生地の目が粗くて簡単なこと)な袍衣だっため、笑い出します。
皇后はこう言いました「この繒(絹)は特に染色に適しているので用いているのです。」
群臣が上奏した内容で決断が困難なことがあると、明帝はしばしば馬皇后を試して意見を聞きました。すると皇后はいつも理にかなった分析をして、実情に適していました(分解趣理各得其情)。しかし馬皇后は家私(家事。私事)によって政事に干渉したことがなく、そのため明帝はますます馬皇后を寵愛・尊敬して最後まで衰えませんでした。
明帝が中興の功臣を思って南宮雲台に二十八将の図を描かせました。
鄧禹を筆頭とし、その後に馬成、呉漢、王梁、賈復、陳俊、耿弇、杜茂、寇恂、傅俊、岑彭、堅鐔、馮異、王霸、朱祜、任光、祭遵、李忠、景丹、万脩、蓋延、邳肜、銚期、劉植、耿純、臧宮、馬武、劉隆と続きます。これを「雲台二十八将」といいます。
後に王常、李通、竇融、卓茂を加えて三十二人にしました。
夏四月辛酉(十七日)、明帝が皇子・劉建を千乗王に、劉羨を広平王に封じました。
次回に続きます。